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第十話「首輪の中の声について」

【私の日記】


十日目の朝、懺悔ちゃんが探偵事務所の扉を開けた。


ノックはなかった。


ただ、扉が開いた。


懺悔ちゃんが立っていた。


今日の左手は、指が二本だった。


親指と人差し指だけが残っていた。残りの三本があった場所は、滑らかに閉じていた。皮膚が閉じている。傷口ではなく、最初からそういう形だったみたいに、閉じている。


「……罪、ある?」とのんびりした声で言った。


真意さんが椅子から立ち上がった。


「この子は私の管轄よ、懺悔ちゃん」


「でも」と懺悔ちゃんは言った。「昨日より、増えてる」


「何が増えた」


「罪のにおい」と懺悔ちゃんは言った。私をまっすぐ見ながら言った。「昨日この子の近くを通った時より、今日の方が多い。昨日より何かを怖いと思った?」


私は答えられなかった。


怖いと思ったことが「罪のにおいがする」。


ニ諦さんにバッドエンドが出た。郷愁さんの喫茶で怖くなかった。その「怖くなかったこと」が怖かった。


昨日より、私は何かを怖いと思った。


怖いという感情が、ここでは食べられる。


「管轄、と言ったわ」と真意さんが言った。声が少し、違った。


懺悔ちゃんが少し考えた。


「でも食べないと、増えすぎて」


「増えたら私が対処する」


「真意ちゃんが食べる?」


「……処理する、と言った」


懺悔ちゃんがまた私を見た。


二本指の左手が、少しだけ動いた。


「……わかった」とのんびり言った。「でも増えすぎたら教えて。食べ頃になる前に食べた方がいいから」


食べ頃。


食べ頃、と言った。


扉が閉まった。




真意さんが椅子に戻った。


「……驚いた?」と聞いた。


「驚きました」と私は言った。「食べ頃、と言いました」


「懺悔ちゃんにとってはそういう意味よ。悪意はない」


「悪意がないことと、食べ頃と言われることは別です」


「そう」と真意さんは言った。「別のことよ」


肯定した。


否定しなかった。


「……私の怖いという気持ちは、本当に食べられるんですか」


「懺悔ちゃんの感知が正確なら——可能性はある」と真意さんは言った。「でも今は私の管轄だから食べられない。管轄が外れたら話は別になる」


「管轄が外れる、というのは」


「私が助手の身分を取り消したら」


「取り消す可能性はありますか」


真意さんが少し間を置いた。


「今のところない」と言った。


今のところ。


また留保がついた。




昼前に、廊下を歩いた。


真意さんが調査記録の整理をしていて、私は少し歩いてきて良いかと聞いたら「フロアと上の区画に近づかなければ」と言った。


フロアと上の区画。


それ以外は歩いていい。


廊下を歩いた。


角を曲がった。また角を曲がった。


「忌中」という表札の扉の前を通り過ぎようとした。


足が止まった。


意図して止めたわけではなかった。ただ、止まった。


扉が、少し開いていた。


中から光はなかった。においがした。古い畳と、湿った木材と、お線香の煙が冷えたにおいが、一緒になったにおいがした。


見なければよかった。


でも見た。


人形が並んでいた。


壁の棚に、日本人形が並んでいた。十体、二十体、それ以上。全部こちらを向いていた。全部の目が、こちらを向いていた。


人形の目は動かない。


でも全部がこちらを向いていた。


向いていた、という言い方が正確かどうかわからない。向けられていた、の方が正確かもしれない。誰かが向けた。あるいは何かが向かわせた。


天井の隅に、いた。


三話目に通り過ぎた時と同じだった。でも今日は扉が大きく開いていた。だから三話目より、よく見えた。


天井に張り付いていた。


人の形をしていた。黒と灰の服。黒い髪。首輪をしていた。


それが——こちらを見ていた。


瞳に、×印があった。


「……後ろ、気をつけて」


声がした。


低い声だった。女の子の声だった。


でも今日は、声が二つあった。


一つは扉の中から。


もう一つは——後ろから。




振り返った。


廊下には、何もいなかった。


壁があった。床があった。天井があった。


何もいなかった。


「……後ろ、気をつけて」


また声がした。


後ろから聞こえた。


でも後ろには何もいない。


もう一度振り返った。扉の中を見た。天井にいた子が、まだこちらを見ていた。×印の目で、見ていた。


「……後ろ、気をつけて」という声が、扉の中から聞こえた。


「……後ろ、気をつけて」という声が、また後ろから聞こえた。


どちらが先か、わからなくなった。


「——そこにいるの」


別の声がした。


扉の外から、横から来た声だった。


廊下に、女の子が立っていた。


黒と灰の服。首輪。×印の目。


扉の中にいる子と、同じ外見をしていた。


「……脅かすつもりじゃなかった」とその子は言った。静かな声で言った。「幽玄です。真意ちゃんの助手の子でしょ」


「……はい」


「ここを通ろうとして、扉が開いてたから見た?」


「……はい」


「ごめん」と幽玄ちゃんは言った。「扉を閉めておくべきだった。中の子たちが反応した」


「中の子たち、というのは」


幽玄ちゃんが扉を見た。静かな目で見た。


「人形は私が置いたものじゃない。来た子たちが置いていったもの」


「来た子たち」


「霊が来る部屋だから」と幽玄ちゃんは言った。「霊が来て、それから人形に入ることがある。人形の目は霊の目」


私は扉の中をもう一度見た。


二十体以上の人形が、こちらを見ていた。


「……全部に霊が入っているんですか」


「全部じゃない。でも何体かは。今日は多い。外に漏れそうになってた」


「漏れると」


「廊下に出る。廊下を歩く人に憑く」と幽玄ちゃんは言った。感情なく言った。「だから扉を閉めておくべきだった」


扉が静かに閉まった。


幽玄ちゃんが閉めた。


「……後ろ、気をつけて」という声が、また聞こえた。


今度は首輪の中から聞こえた。


幽玄ちゃんの首輪から。


幽玄ちゃんが首輪に手を当てた。


「……聞こえた?」


「聞こえました」


「首輪の中に声が入ってる」とその子は言った。「ここに来た霊を封印している。声が聞こえることがある。外には聞こえないはずだけど、今日は多すぎて漏れた」


「……どのくらい入っているんですか」


「数えたことはない」と幽玄ちゃんは言った。「でも、多い」


「多い、というのは」


「多い」とだけ言った。


それ以上の言い方をしなかった。


「……いつから」


「ここに来てから」と幽玄ちゃんは言った。「ここがぱんでむだとわかった日から、首輪をした。外した方がいいとは思わない」


「なぜですか」


幽玄ちゃんが首輪に手を当てたまま、少し間を置いた。


「外したら、全部出てくる」と言った。「今まで入ってきた全部が、一度に出てくる。私一人が引き受けてる分は問題ない。でも、全部が一度に出たら——廊下にいる全員に憑く」


「……だから外せない」


「だから外せない」


「怖くないんですか」と私は聞いた。


幽玄ちゃんが私を見た。×印の目で、見た。


「怖いかどうかとは関係なく、外せない」と言った。


「外したいと思うことはありますか」


幽玄ちゃんが少し止まった。


「……ある」と言った。


「なぜ外さないんですか。怖くないと言ったのに」


「外したいと思うことと、外せることは別」と幽玄ちゃんは言った。「思うことはある。でも外したら全員が危ない。だから外さない」


「誰かのために外さないんですか」


「誰かのため、というより——外したらいけない、という方が正確」と幽玄ちゃんは言った。「理由があって外せないんじゃなくて、外せないから外せない」


「首輪が外れない、ということですか」


「首輪は外れる」と幽玄ちゃんは言った。「私が外さない」


「……自分で選んで外さない」


「そう」


私は廊下に立ったまま、首輪を見た。


革か何かでできているように見えた。でも首に沿って、少し光っている部分があった。金属ではない光り方だった。


「……首輪の中で、「後ろ、気をつけて」と言っている声は、何ですか」と私は聞いた。


幽玄ちゃんが首輪から手を離した。


長い間があった。


「……一番古い声」とだけ言った。




廊下を別の方向に歩いた。


幽玄ちゃんと別れてから、しばらく歩いた。


足が勝手に動いていた。どこに向かっているかわかっていなかった。


懺悔ちゃんの部屋の前を通り過ぎた。


「食堂」という表札の扉の前。


扉の隙間から、においがした。


甘いにおいと、罪のにおいが混ざったにおいが、した。


罪のにおいが何のにおいかは、わからない。でも、した。


扉が少し開いた。


懺悔ちゃんが顔を出した。


今度は右手が変わっていた。右手の手の甲に、毛が生えていた。獣の毛だった。細くて黒い毛が、手の甲を覆っていた。


昼前に会った時は、右手は普通だった。


昼前から今の間に、何かを食べた。


「さっきの子だ」とのんびり言った。「どうしたの、迷子?」


「……迷子ではないですが、少し歩いていました」


「真意ちゃんのとこ、戻らなくていいの」


「戻ります。少し」


懺悔ちゃんが扉の隙間から私を見た。じっと見た。


「……さっきより、増えてる」と言った。「罪のにおい」


「さっきより、ということは」


「さっき会った時より、今の方が多い」


「……何かを怖いと思ったから、だと思います」と私は言った。


「怖いことが罪なの?」と懺悔ちゃんは言った。不思議そうに言った。「怖いは罪じゃないと思うけど」


「怖いという気持ちが罪のにおいに近い、と真意さんが言っていました」


「近い形、とはそうだけど」と懺悔ちゃんは言った。「でも今の多いやつは、怖いとはちょっと違う。もっと——」


少し考えた。


「何かを知ってしまったことのにおい」と言った。


「知ってしまったこと」


「知らなければよかったかもしれないことを、知ってしまった時のにおいがする。それは罪じゃないかもしれないけど、罪に似た形をしてることが多い」


懺悔ちゃんが右手の毛をのんびり見た。


「今日食べたのは誰かの秘密だった。ひとが知っては行けないことを知ってしまった、という罪のかたちだった。その人は自分でも知らなかったけど、その罪が外に出てきてたから食べた」


「……その人は今も知らないままですか」


「知らないまま」と懺悔ちゃんは言った。「食べたから。知らないまま、罪だけなくなった。その方がいいと思ったから食べた」


「知らないまま、罪だけなくなる」


「そう」とのんびり言った。「その人は今日から少し、楽になると思う。知ってた時の重さが消えたから」


「でもその人は知らない間に何かを食べられたんですよね」


「そう」


「……それは、その人が望んでいなくても食べるんですか」


懺悔ちゃんが少し首を傾けた。


「望んでるかどうかを確認してたら、食べられない」と言った。「罪のにおいがしたら食べる。それだけ」


「それだけ」


「それだけ」と繰り返した。のんびりした顔で言った。


私は自分の胸の中にある「知ってしまったことのにおい」を思った。


幽玄ちゃんの首輪の中に数えきれない声があること。一番古い声が「後ろ、気をつけて」と言い続けていること。


それを知ってしまった。


知ってしまったことのにおいが、今もしている。


「……食べられますか、私のは」と聞いた。


「食べられる」と懺悔ちゃんは言った。「でも真意ちゃんの管轄だから、食べない」


「管轄が外れたら食べますか」


懺悔ちゃんがのんびりと言った。


「食べ頃になったら食べる」


また食べ頃と言った。


「食べ頃になると、どうなりますか」と私は聞いた。


「食べやすい大きさになる」とだけ言った。


それ以上は説明しなかった。


扉が閉まった。




探偵事務所に戻った。


真意さんがタイプライターの前にいた。


「遅かった」と言った。


「……幽玄ちゃんに会いました。それから懺悔ちゃんにも」


真意さんが手を止めた。


「幽玄ちゃんに」


「忌中の扉が開いていて、中を見てしまいました。その後、廊下に幽玄ちゃんが来ました」


「何があった」


「扉の中の人形の目が全部こちらを向いていました。霊が入っているから、と言っていました」


真意さんがメモを取った。


「それから」


「首輪について聞きました。中に声が入っていること。外したら廊下の全員に憑くから外さないこと」


「「後ろ、気をつけて」という声を聞いたわね」


「はい。首輪の中から聞こえました」


「今日は多かったから漏れた」と真意さんは言った。「普段は外に聞こえない。記録に残っていなかったが——今日は多かったということね」


「一番古い声が「後ろ、気をつけて」と言っている、と言っていました」


真意さんが少し止まった。


「一番古い声」と繰り返した。


「なんですか、それは」と私は聞いた。


「調べていない」と真意さんは言った。「調べようとしたことはある。でも首輪に近づくと、ルーペの反応が変わる。四層目のタグと似た反応をする」


「四層目のタグと」


「どちらも、調べると何かが割れる可能性がある」と真意さんは言った。「今は調べていない」


「……怖いんですか」


「調べていない」と同じ声で言った。


「懺悔ちゃんに「知ってしまったことのにおいがする」と言われました。幽玄ちゃんの首輪の話を聞いたから、かもしれないです」


真意さんがタイプライターを打った。


打ちながら言った。


「知ってしまったことが増えている」と言った。「それが正確な表現ね。ここにいる間、あなたは毎日何かを知ってしまっている」


「知らない方がよかったと思いますか」


「思わない」と即座に言った。「知ることが危険なのではなく、知った後で何をするかが問題なの」


「……知った後で、私は何をするべきなんですか」


タイプライターが止まった。


長い間があった。


「今日のところは、何もしなくていい」と言った。


それだけだった。




夜になった。


廊下が静かになった。


タイプライターの音だけがある。


ブランケットを引き上げながら、私は目を閉じた。


目を閉じると、人形の目が浮かんだ。


二十体以上の、こちらを向いた目。


霊の目。


「後ろ、気をつけて」という声。


一番古い声が、ずっと言い続けている。


首輪の中で、ずっと。


幽玄ちゃんは毎日その声を聞いている。


毎日、外したいと思うことがある。


でも外さない。


外せないから外さない。


眠れないかと思ったが、眠れた。


夢は見なかった。


あるいは、見たが覚えていなかった。




【真意の調査記録】


**〇月★●日**

**十日目**


午前、懺悔ちゃんが探偵事務所に来た。

「昨日より罪のにおいが増えている」と言った。管轄を主張して退けた。


助手の「怖い」という感情の質量が増加している。

懺悔ちゃんの感知は正確だ。昨日より増えている、という観察は信頼できる。


「食べ頃になったら」という発言を助手が聞いた。

助手は驚いていた。正確な反応だ。




午後、助手が幽玄ちゃんの部屋の前を通りがかった。扉が開いていた。

中を見た。霊の入った人形を見た。首輪から漏れた声を聞いた。

その後、廊下で幽玄ちゃんと会話した。


記録すべき事項。


幽玄ちゃんが「一番古い声が「後ろ、気をつけて」と言い続けている」と言った。


この情報は今まで記録にない。


幽玄ちゃんが自分から話すことは少ない。今日は助手に話した。なぜ今日だったのか、は確認していない。


首輪に近づくとルーペが四層目に近い反応をする——これは以前から記録している。首輪の中が何かを「含んでいる」という事実は知っていた。その「何か」の一部が今日、助手を経由して記録に来た。


直接調べることが今はできない。

でも助手が聞いた、という経路が生じた。


これが何を意味するか。


考えた。


幽玄ちゃんが助手に話した。

助手が私に話した。

私は記録した。


直接見られないものが、経路を変えて記録に来る。


これは調査の方法として——今まで考えていなかった経路だ。


記録しておく。




懺悔ちゃんが「知ってしまったことのにおいがする」と助手に言った。


その表現は正確だと思う。


今日、助手は知ってしまったことが増えた。


首輪の中に声がある。一番古い声が言い続けている。外したいと思うことがある。でも外せない。


それを知ってしまった。


「知らなければよかったか」という助手の問いに、「思わない」と答えた。


嘘ではない。


でも——知ってしまったことが増えると、「知らなかった状態に戻れない」。


戻れないことと、知らない方がよかったことは、違う。


でも戻れないということは確かだ。


助手は毎日、戻れない状態が増えている。


それが何を意味するか——今日は書かない。


でも書かないという判断をした事実は、今日も記録する。




幽玄ちゃんの首輪について。


「外したいと思うことがある。でも外したら全員が危ない」


この構造を聞いた時、私は少し止まった。


理由を考えた。


——「知りたいが知ったら何かが割れる可能性がある。だから今は調べていない」という私の判断と、構造が似ている。


外せるが外さない。

調べられるが調べない。


どちらも「できる」が「しない」だ。


理由は違う。幽玄ちゃんは全員が危ないから。私は——何が壊れるかわからないから。


何が壊れるかわからない、という怖さと、全員が危ないという判断は、重さが違う。


でも今日、私の判断と幽玄ちゃんの判断が同じ構造で並んだ。


それが、少し気になった。


気になった理由が何かは、まだわからない。


記録しておく。


**備考:助手、現在生存。十日目。首輪の声を聞いた。扉を開けて見た。食べ頃と言われた。それでも戻ってきた。**


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