第十一話「よしよし、について」
【私の日記】
十一日目、私は泣いた。
泣いた理由を書いておく。
十日間、怖いものを見続けた。写真になった七百万人の話を聞いた。首輪の中で声が鳴り続けている話を聞いた。食べ頃と言われた。幽玄ちゃんの部屋の扉が開いて、人形の目が全部こちらを向いた。毎日、真意さんが調べている白紙はまだ白紙のままだ。帰れるかどうかは、まだわからない。
それが積み重なって、十一日目に、泣いた。
大した理由ではない。朝、ブランケットの端がほつれていることに気づいて、なぜかそれで泣いた。ほつれたブランケットがどうということではない。ただ、そこで積み重なったものが出てきた。
泣きながら、探偵事務所の壁を見た。
赤い糸が張り巡らされている。中央に白紙がある。
真意さんはもう調査に出ていた。
一人だった。
泣いている間に、廊下から音がした。
何かが、ゆっくり歩いてくる音。
足音が小さかった。軽かった。子供の足音に似ていた。
扉をノックする音がした。
「……だれかいる?」
扉の向こうから声がした。
おっとりした声だった。間延びしていた。
「……はい」と私は言った。
「入っていーぃ?」
「……どうぞ」
扉が開いた。
白とピンクの服を着た子が入ってきた。ウサギ耳。小さかった。幼女に近い体格だった。
目が、柔らかかった。
怖くなかった。
その瞬間に、三話目の真意さんの声が頭の中で鳴った。——「空無ちゃん。「よしよし」してもらうと、自我が溶ける。最終的には無になる。」
でも怖いと思わなかった。
それが一番怖かった。
「空無さんですか」と私は言った。声がまだ湿っていた。
「ええ」と空無ちゃんは言った。おっとりした声で言った。「泣いてたのねぇ」
「……見えましたか」
「においがしたのよぉ」と空無ちゃんは言った。「泣いた後のにおいがするの。ほら、お腹すいたのねぇ、みたいな感じで」
「泣いた後のにおいと、お腹が空いたのは関係ないですよね」
「似てるのよぉ」と空無ちゃんは言った。「どちらも、中にあるものが外に出たいと思っている感じがするの」
私は何も言えなかった。
「——よしよし」
空無ちゃんが言った。
扉のそばに立ったまま、私の方を向いて言った。
近づいてきてはいなかった。
ただ言っただけだった。
でも——「よしよし」という言葉が、空気を変えた。
部屋が少し、柔らかくなった。
赤い糸の張り巡らされた壁が、少し遠くなった気がした。
白紙が、少し遠くなった気がした。
「……来ないでください」と私は言った。
「ここにいるわよぉ」と空無ちゃんは言った。扉のそばで、来なかった。「よしよし、って言っただけよぉ」
「それだけで部屋が変わりました」
「変わった?」と空無ちゃんが不思議そうに言った。「どう変わったの?」
「柔らかくなりました。壁が遠くなった気がしました」
「そう」と空無ちゃんは言った。「それは良かったわねぇ」
「良くないかもしれないです」
「なぜ?」
「あなたに「よしよし」してもらうと、自我が溶けると聞きました」
空無ちゃんが少し、首を傾けた。
「誰に聞いたの?」
「真意さんに」
「真意ちゃんが言った」と空無ちゃんは繰り返した。おっとりした声で繰り返した。怒っていなかった。「……そうね。溶けることがあるわよぉ」
「あることがある、ということは、ならないこともありますか」
「……あるわねぇ」と空無ちゃんは言った。考えてから言った。「どうなるかは、その子によって違うの」
「どう違うんですか」
「溶けたい子は溶けるのよぉ。溶けたくない子は……難しいわ」
「難しい、というのは溶けないということですか」
空無ちゃんが少し間を置いた。
「すぐには溶けない」とだけ言った。
すぐには。
「……時間をかけたら溶けるんですか」
「わからないのよぉ」と空無ちゃんは言った。本当にわからない顔で言った。「私、消しているつもりはないのよ。ただ、よしよし、ってしているだけなの。でも——なぜかそうなることがあるの」
「意図していない、ということですか」
「ええ。私は抱きしめているだけなのよぉ」
「抱きしめられると、消えるんですか」
空無ちゃんが私を見た。柔らかい目で見た。
「消えたと思ったことはないわよぉ」と言った。「みんな、内側に来るの。内側で、まだ声がするの。聞き取れないけど、まだ言おうとしているの」
「内側に来る、というのは」
「私の中よぉ」と空無ちゃんは言った。何でもない言い方で言った。「抱きしめた子が、内側にいるの。全員、まだそこにいるの」
「全員」
「全員よぉ」
私は立ち上がった。
空無ちゃんとの距離を保ったまま、壁を見た。
「……中にいる子たちは、出てきたいと思っていますか」と私は聞いた。
「思っているかもしれないのよぉ」と空無ちゃんは言った。「でも聞き取れないから、わからないの」
「聞き取れないのに、まだ言おうとしていることはわかるんですか」
「声の質感でわかるのよぉ」と空無ちゃんは言った。「何を言っているかはわからない。でも、言おうとしていることはわかる。諦めていないのはわかる」
諦めていない。
内側で、出てこられないまま、それでも諦めていない。
「出してあげることはできないんですか」と私は聞いた。
空無ちゃんが、少し止まった。
今まで止まったことがなかった。
「……やったことない」とだけ言った。
「やろうと思ったことは」
また止まった。
「考えたことがなかったのよぉ」と言った。
そのまま続けた。
「出したら——どうなるかわからないから」
「出してみようとは思いませんか」
「こわいのよぉ」と空無ちゃんは言った。
柔らかい声で言った。
「こわい、という気持ちがあるんですか」
「あるわよぉ」と空無ちゃんは言った。少しだけ、声が変わった。「みんないるのよぉ。内側に全員いるの。出したら——どこへ行くの。もとに戻れる? 戻れなかったら、どこへ行くの」
私は何も言えなかった。
「帰れなかったら、どうするの」と空無ちゃんは言った。
「——それは、私への質問ですか」と私は聞いた。
空無ちゃんが私を見た。
長い間、見た。
「……そうよぉ」と言った。
「帰れなかったらどうするか、はまだわかりません」と私は言った。「でも——帰ることを諦めていないのは、本当です」
空無ちゃんがまた止まった。
「……声の質感、よく似てるわよぉ」と言った。
「何の声と似ているんですか」
「内側にいる子たちの声よぉ」と空無ちゃんは言った。「諦めていない声。あなたの声は——今、それと似てる」
その後、空無ちゃんはしばらく扉のそばに立っていた。
私は壁の前に立っていた。
どちらも近づかなかった。
「……よしよし、ってもう一回言っていいの?」と空無ちゃんが聞いた。
「……言われたら、また部屋が変わりますか」
「わからないのよぉ」と空無ちゃんは言った。「今日は変わるかもしれないし、変わらないかもしれない」
「私が泣き止んだら、変わらないですか」
「関係ないかもしれないのよぉ」
「なぜ「よしよし」と言いたいんですか」と私は聞いた。
空無ちゃんが少し考えた。
「泣いた後のにおいがするから」とだけ言った。
「おなかが空いているから、ではないんですか」と私は聞いた。
「違うのよぉ」と空無ちゃんは言った。
「どう違うんですか」
「お腹が空いた子に「よしよし」するのは、ごはんをあげるためなのよぉ」と空無ちゃんは言った。「でも今は——ごはんをあげるためじゃないわ」
「ではなんのためですか」
空無ちゃんがまた止まった。
「わからないのよぉ」と言った。「でも、したくなったのよ」
その「わからない」は本当のわからないだった。
「……わかりました」と私は言った。「でも——今日はやめてください」
「そうするわよぉ」と空無ちゃんは言った。あっさりと言った。
「帰りますか」
「ええ」と空無ちゃんは言った。「帰るわよぉ。でも——また来ていいの?」
「……扉は開いていますか」
「あなたの扉は——今日はまだ開いていると思うわよぉ」と空無ちゃんは言った。
何が開いているのか、私にはわからなかった。
でも「今日はまだ」という言い方が、引っかかった。
扉が閉まった。
羊水のにおいが、少し残った。
薄れるのに、時間がかかった。
真意さんが戻ってきた時、私はまだ壁の前に立っていた。
「何があったの」と真意さんは言った。
顔を見たのだと思う。
「空無さんが来ました」
真意さんが止まった。
「——どこまで近づいた?」
「扉のそばから動きませんでした」
「「よしよし」と言われた?」
「一度、言いました。遠くから」
「体の感覚は」
「部屋が柔らかくなりました。壁が遠くなった気がしました。でも今はもとに戻っています」
真意さんがルーペを出した。私を見た。ルーペを通して、しばらく見た。
「タグは正常」とだけ言った。「自我が侵食されていない。今のところ」
「今のところ」という言葉が出た。
「なぜ空無ちゃんが来たか、わかる?」
「泣いていたから」と私は言った。「泣いた後のにおいがした、と言っていました」
真意さんがメモを取った。
「空無ちゃんとの会話は?」
「内側にいる子たちのことを聞きました。全員いる、と言っていました。聞き取れないけど、まだ声がしている、と」
真意さんの手が少し止まった。
「それから」
「出してあげられないか聞きました。やったことがない、と言っていました。こわい、とも言っていました」
「空無ちゃんが、こわい、と言った」と真意さんは繰り返した。
「はい。出したら帰れないかもしれない、と言っていました」
真意さんが長い間、何も書かなかった。
「……それから」と私は続けた。「あなたの声は内側にいる子たちの声に似ている、と言っていました。諦めていない声、と」
タイプライターを打ち始めた。
しばらく音が続いた。
「怖かった?」と聞いた。
「……怖いと感じなかったことが、怖かったです」と私は言った。「近くに来なかったのに、部屋が変わりました。もし近くに来ていたら——どうなっていたかわかりません」
「正確な判断ね」と真意さんは言った。
「真意さんは——空無さんが中にいる子たちを出せないことを知っていましたか」と私は聞いた。
「知らなかった」と真意さんは言った。
「調べようとしたことは」
「……近づくことができなかった」と真意さんは言った。「ルーペを向けると、すぐに読み込みが始まる。読み込みが始まると、引力場が動く。引力場が動くと——止まらなくなる可能性がある」
「止まらなくなるとはどういうことですか」
「空無ちゃんに引き込まれる可能性がある」
「真意さんでも」
「真意さんでも」と繰り返した。
私は少しの間、黙った。
「……今日、空無さんが「よしよし」と言ったことで、私の中の何かが変わりましたか」と聞いた。
真意さんがルーペを出した。また私を見た。
「タグに変化はない」と言った。「でも——」
「でも」
「一つだけ」と真意さんは言った。「三層目のタグに、今日まで読んでいたものと微妙に違う光沢がある。誤差の範囲かもしれない。でも記録しておく」
「何を意味しますか」
「まだわからない」と真意さんは言った。
「……怖いですか」と私は聞いた。
「あなたのタグが変わっていることが、ということ?」
「はい」
真意さんがルーペをしまった。
「記録しておく、と言ったでしょう」とだけ言った。
その答えが何を意味するか——私にはわかった。
【真意の調査記録】
**〇月⬛▲日**
**十一日目**
助手が泣いていた。
朝、調査に出た後に空無ちゃんが来た。
私がいない間に来た。
これは記録しておく。私がいない時に来た、という事実。空無ちゃんが私のいない時間を選んだかどうかは不明。でも来たのは私がいない時だった。
空無ちゃんとの接触内容を助手から聴取。
「よしよし」——一度。遠距離から。
自我の侵食——確認されず。タグ正常。
ただし三層目タグに微細な光沢の変化あり。
「微細な変化」について記録する。
三層目は「感情の本質」に相当するタグだ。
私はこれまで三層目以上を読まないと決めていた。
今日は読まざるを得なかった。
三層目を読んだ。
通常と異なる光沢があった。
「柔らかくなった」という助手の感覚が、タグレベルで記録されていた。
空無ちゃんの「よしよし」が、一度だけ、遠距離から、それだけで三層目のタグに残った。
空無ちゃんの引力が思っていたより深い。
あるいは——助手が思っていたより空無ちゃんに応答しやすい状態にある。
今後の接触を慎重にする必要がある。
空無ちゃんが「内側にいる子たちを出すのがこわい」と言った。
これは今まで記録にない発言だ。
空無ちゃんは「よしよし」で自我を溶かす。その自我がどこへいくか——「内側にいる」という発言はあった。でも「出せない」「こわい」という言葉は初めてだ。
空無ちゃんは怖がっている。
何を怖がっているか。
「出したら帰れないかもしれない」と言った。
「出す」ことで、内側の存在が「どこへ行くかわからない」ことを怖がっている。
これは——消去している認識がない、という以前からの観察と一致する。
空無ちゃんは「よしよし」して「消えた」とは思っていない。「内側にいる」と思っている。その存在が「出たい」と言い続けているのを知っている。でも出すことを怖がっている。
この構造を記録した後、少し止まった。
止まった理由を考えた。
——私も、知りたいが調べられないものを、怖いから保留している。
空無ちゃんの「出すのがこわい」と、私の「調べるのが怖い」は——
形が似ている。
似ているが、内容は違う。
でも同じ「怖いから保留している」という構造で並んだ。
今日、私の外側にいる複数のクルーと、私自身が、「できるができない」「知れるが調べない」「出せるが出さない」という同じ構造で並ぶことが繰り返されている。
これが偶然か、何かの設計なのか——
まだわからない。
でも今日また並んだ。記録する。
助手が空無ちゃんに「内側にいる子たちを出してあげられないか」と聞いた。
今まで誰も聞かなかった。
私も聞かなかった。
私が聞けなかったことを、助手は聞いた。
聞けた理由は何か。
泣いていたから、という可能性がある。泣いていた後で、「内側で諦めていない声」という話を聞いた。その声と自分の状態が重なった。だから聞いた。
感情が——調査の経路を開いた。
これは今まで私が使っていなかった経路だ。
記録しておく。
感情が調査の道具になるかもしれない、という仮説。
今日、その可能性の最初の根拠が生まれた。
「あなたの声は内側にいる子たちの声に似ている。諦めていない声」と空無ちゃんは言った。
助手の声が、空無の内側にいる存在の声と似ている。
これが何を意味するか——
まだ書かない。
でも今日、この言葉が記録に来た。
それだけは書く。
**備考:助手、現在生存。十一日目。泣いた。空無ちゃんに「よしよし」と言われた。タグ正常。三層目に微細な変化あり。今のところ。**




