第十二話「固定されることについて」
【私の日記】
十二日目の夕方、廊下の端に涅槃ちゃんがいた。
黒いノートを持って、壁に寄りかかっていた。
八話目にすれ違った子だ。写真の中の人が手を振るのを見ていた子。「死の先に何もなかった時、手を振れる相手がいなかった」と言っていた子。
「……あ」と涅槃ちゃんは言った。私を見て言った。「助手の子」
「はい」
「どこ行くの」
「少し歩いていました」
「一人で?」
「真意さんが調査に出ていて」
「ふうん」と涅槃ちゃんは言った。ノートに何かを書き始めた。私を見ながら書いた。
「……何を書いているんですか」と私は聞いた。
「あなたの顔」
「顔の絵ですか」
「顔の記録」と涅槃ちゃんは言った。「今の顔が、どういう顔か」
「どういう顔をしていますか」
涅槃ちゃんが少し考えた。
「……疲れてる。でも慣れた疲れじゃない。毎日新しく疲れてる顔」
「毎日新しく」
「慣れてないってこと。ここに十二日いて、まだ毎日最初みたいに疲れてる」と涅槃ちゃんは言った。「それがボクには——」
止まった。
「何ですか」と私は聞いた。
涅槃ちゃんがノートを閉じた。
「……来て」と言った。「少し」
涅槃ちゃんの部屋は「Morgue」という表札があった。
扉を開けた。
棺桶がベッドとして置いてあった。壁に絵がかかっていた。モノクロの絵だった。ひびの入った地面と、そこから伸びる一本の植物の絵だった。植物がどこに向かっているかは描かれていなかった。
「……座って」と涅槃ちゃんは言った。棺桶の蓋を指した。
「棺桶に座るんですか」
「座りやすい」
座った。
涅槃ちゃんは床にあぐらをかいた。
「ここの絵、あなたが描いたんですか」と私は聞いた。
「そう」
「何の絵ですか」
「わからない」と涅槃ちゃんは言った。「描いた時は何かを描こうとしてた。でも何かが出てきた。これが出てきた」
「これが出てきた、というのは」
「描くつもりのないものが出てきた」と涅槃ちゃんは言った。「意図と違うものが出てくることがある。それがボクには一番エモい」
「エモい、という言葉を使うんですか」と私は聞いた。
「使う」
「どういう意味で使っているんですか」
涅槃ちゃんがノートを少し開いた。
「……感情を超えた何かが来た時」と言った。「怖いとか悲しいとか嬉しいとか、そういう言葉に収まらない何かが来た時に、エモいって言う」
「言葉に収まらない何か」
「うん。言葉にしたら消えるやつ」
「廊下で」と涅槃ちゃんは言った。「言いかけてやめたこと、聞いてもいい?」
「はい」
「あなたの顔が——エモかった」と涅槃ちゃんは言った。
私は少し止まった。
「エモかった、というのは」
「毎日新しく疲れている顔が、ボクには——」と涅槃ちゃんは言いかけた。「固定したくなった」
「固定」
「今の顔を、ずっとそのままにしておきたいと思った」と涅槃ちゃんは言った。ダウナーな声で言った。「それがボクの「エモい」に近い感覚」
私は棺桶の蓋の上で、少し背筋が立った。
固定。
ずっとそのままにする。
「……固定すると、どうなるんですか」と私は聞いた。
涅槃ちゃんが少し間を置いた。
「変わらなくなる」と言った。
「変わらなくなるとは」
「今のままでいられる。老いない。変わらない。ここにいた十二日間の顔のまま、ずっと」
「死ぬんですか」と私は聞いた。
「死なない」とすぐに言った。「でも——生きてもいない」
「生きていないのに死んでいない」
「うん。変化だけが消える」と涅槃ちゃんは言った。「意識はある。時間も流れるのがわかる。でも何も変わらない。ボクは定期的に会いに来て「今日もきれいだね」って言う」
私はその説明を聞いた。
「……それをあなたは、固定した相手にしてきたんですか」と私は聞いた。
涅槃ちゃんが少し止まった。
「……したことがある」とだけ言った。
「何人ですか」
「覚えていない」とすぐに言った。
「覚えていない、というのは忘れたんですか」
「最初から数えていなかった」と涅槃ちゃんは言った。「「エモい」と感じた時に固定する。数えることを考えたことがなかった」
私は壁の絵を見た。
ひびの入った地面から伸びる植物。どこに向かうか描かれていない植物。
「……固定された存在は、今どこにいますか」
「ここ」と涅槃ちゃんは言った。部屋を示した。「この部屋の中」
「この部屋に」
「見えないだけでいる」と涅槃ちゃんは言った。「空気に混ざってる。ボクにはわかる。どこにいるか」
「……気づきますか、あなたのことを」
「気づく」と涅槃ちゃんは言った。「でも話しかけてこない。変化が消えてるから——新しい感情が生まれない。ただいる」
「……苦しんでいますか」
「わからない」と涅槃ちゃんは言った。「苦しいという感情が生まれるかどうかがわからない。変化がないから」
「変化がなければ苦しみもない、ということですか」
「そう思ってた」と涅槃ちゃんは言った。「……思ってた」
「今は違うんですか」と私は聞いた。
涅槃ちゃんがノートを少し握った。
「……わからない」とだけ言った。
しばらく黙っていた。
私は棺桶の蓋の上に座っていた。涅槃ちゃんは床にいた。
「……さっき、私の顔を固定したくなったと言っていましたね」と私は言った。
「うん」
「しなかった理由は何ですか」
涅槃ちゃんが少し考えた。
「……言いかけてやめた」と言った。
「なぜやめたんですか」
「やめた方がいい気がしたから」と涅槃ちゃんは言った。「なぜかはわからない。でも——」
止まった。
「でも」
「あなたが毎日新しく疲れている理由は、毎日変わっているからだと思って」と涅槃ちゃんは言った。「変化が続いているから疲れている。その変化の顔を固定したら——変化が消える。変化が消えたら、今の顔じゃなくなる」
「矛盾していますね」と私は言った。
「矛盾してる」と涅槃ちゃんはあっさり言った。「「今の顔」を保存したくて固定しようとした。でも固定したら「今の顔」が消える。変化しているから今の顔があるんだから」
「それに気づいてやめたんですか」
「気づいてやめたんじゃないかもしれない」と涅槃ちゃんは言った。「もっと前に止まった。「エモい」って思った直後に、言いかけてやめた」
「何が止めたんですか」
涅槃ちゃんが窓のない壁を見た。
「……わからない」と言った。「でも止まった。それだけわかる」
「涅槃さんは今まで固定してきた存在を、固定していなかったらどうなっていたと思いますか」と私は聞いた。
涅槃ちゃんが少し止まった。
「変化してた」とだけ言った。
「変化して、どこかに行ったかもしれない、ということですか」
「うん」
「……帰れたかもしれない人も、いましたか」と私は聞いた。
涅槃ちゃんが長い間、何も言わなかった。
「……わからない」と言った。「覚えていないから」
「覚えていないのに、今「わからない」という言葉を使いましたね」と私は言った。「覚えていなければ、いた可能性はわからないはずで」
涅槃ちゃんが少し、目を細めた。
「……鋭いね」と言った。
「違いますか」
「違わない」と涅槃ちゃんは言った。「覚えていない、というのは嘘かもしれない。本当は覚えていない方が楽だから、覚えていないことにしているだけかもしれない」
「その区別はつきますか」
「つかない」と涅槃ちゃんは言った。「でも——そういう問いを持ったのは、今日が初めてかもしれない」
「なぜ今日ですか」
「あなたに聞かれたから」と涅槃ちゃんは言った。
ダウナーな声で言った。でも声の底に何かが混ざった気がした。
「聞かれなければ持たなかった問いを、今日持った」と涅槃ちゃんは続けた。「それが変化だとしたら——ボクも変化してる。変化できるなら——固定したものも、本当は変化できたかもしれない」
「……怖くないですか」と私は聞いた。
「怖い」と涅槃ちゃんは即座に言った。「……でもそれが、久しぶりに怖い、という感覚だったから。少し——」
止まった。
「少し」
「少しだけ、エモい」と涅槃ちゃんは言った。
そして小さく笑った。
柔らかい笑い方だった。
「……今のボクの顔、固定したい?」と涅槃ちゃんは言った。自分で聞いた。「……しない。矛盾するから」
探偵事務所に戻った。
真意さんが調査から戻っていた。
「何かあったか」と聞いた。
「涅槃ちゃんの部屋に行きました」と私は言った。
真意さんが止まった。
「——一人で」
「廊下で会いました。来て、と言われました」
「何があった」と真意さんは言った。声が少し変わった。
「固定されそうになりました」
真意さんがルーペを出した。私を見た。長く見た。
「タグは」
「見てください」
真意さんがルーペを向けた。しばらく見た。
「……正常」と言った。「固定されていない。三層目にも変化はない」
「されなかったです」と私は言った。「涅槃ちゃんが途中でやめました」
「なぜやめたか、聞いた?」
「固定すると変化が消える。でも変化しているから今の顔がある。矛盾に気づいた、と言っていました」
真意さんが少し間を置いた。
「……涅槃ちゃんが固定しようとして、自分で止めた」と繰り返した。
「はい」
「初めてかも」と真意さんは言った。独り言のように言った。
「あと——固定してきた存在たちのことも話しました」と私は言った。「覚えていないと言っていました。でも覚えていない方が楽だから覚えていないことにしているだけかもしれない、とも言っていました」
真意さんが長い間、何も書かなかった。
「その問いは、今日初めて持ったと言っていましたか」
「私に聞かれたから、と言っていました」
「……そう」と真意さんは言った。
「あの部屋に、固定された存在がいます」と私は言った。「見えないけど、涅槃ちゃんにはわかると言っていました。空気に混ざっている、と」
真意さんがタイプライターの前に座った。
打ち始めた。
「……そこに、帰れたかもしれない人がいるかもしれません」と私は言った。
タイプライターが止まった。
長い間があった。
「記録する」と真意さんは言った。
それだけだった。
でも——記録する、という言葉の重さが、いつもと少し違った。
調査記録としてではなく。
別の何かとして書く、という重さが、その言葉の中にあった気がした。
「涅槃ちゃんが言っていました」と私は続けた。「変化できるなら、固定したものも変化できたかもしれない、と」
「……今日、涅槃ちゃんは変化した?」と真意さんは聞いた。
「はい」と私は言った。「久しぶりに怖い、と言っていました。それがエモいと言っていました」
「涅槃ちゃんが——自分のことをエモいと言った」と真意さんは繰り返した。
「はい」
真意さんが何も言わなかった。
タイプライターを打ち続けた。
しばらくして言った。
「……それは今日の一番の記録ね」とだけ言った。
【真意の調査記録】
**〇月★◆日**
**十二日目**
助手が単独で涅槃ちゃんの部屋に入った。
涅槃ちゃんに誘われた形。
結果:固定されなかった。タグ正常。
涅槃ちゃんが「エモい」と言いかけて止まった。
これは重要だ。
涅槃ちゃんが「エモい」と言うと、対象が固定される。
今まで——涅槃ちゃんが「エモい」と言いかけて止まったことがあったか。
記録を確認した。
ない。
涅槃ちゃんが「エモい」を途中で止めたのは——記録の範囲で、今日が初めてだ。
止まった理由:「固定すると変化が消える。でも変化しているから今の顔がある。矛盾している」
この論理は正確だ。
でも涅槃ちゃんがこの矛盾に今日初めて気づいた、ということは——
今まで気づかなかった。あるいは気づいていたが止まらなかった。
今日、助手の前で止まった。
なぜ今日、この相手に対して止まったのか。
——まだわからない。
「固定したものも変化できたかもしれない」という涅槃ちゃんの発言を記録する。
これは——涅槃ちゃんが今まで固定してきた存在たちへの、最初の「疑問」だ。
固定は正しかったのか、という問いではない。
固定したものも変化できる存在だった、という認識が初めて生まれた。
その認識が生まれた理由——助手が「帰れたかもしれない人がいたか」と聞いたから。
助手の問いが、涅槃ちゃんの中に今まで存在しなかった問いを生んだ。
これは今日で二度目の事象だ。
十一日目:助手の問いが空無ちゃんに「出すことへの怖さ」を初めて言語化させた。
十二日目:助手の問いが涅槃ちゃんに「固定への疑問」を初めて生んだ。
助手の問いが——クルーの中に存在しなかった問いを生んでいる。
これが何を意味するか。
考えた。
助手は「怖くなかったことが怖い」と最初の感覚を保ちながら、それでもクルーに「どうして」と聞き続けている。クルーは誰もそれを聞かれたことがなかった。
「どうして」という問いを持てる存在が、ぱんでむにはいなかった。
クルーは自分の行動を当然として生きている。
真意さんである私は、記録として外から見てきた。
「どうして」は——その中間にある問いだ。
外からでも内からでもなく、一緒にいながら聞く問い。
私には出せなかった問いを、助手は出している。
涅槃ちゃんが「久しぶりに怖い、という感覚がエモい」と言った。
自分のことを「エモい」と言った。
これを記録する。
涅槃ちゃんが自分の感情に対して「エモい」を使った——つまり、自分自身を「固定したいほど美しい」と感じた、ということになる。
涅槃ちゃんが——自分を固定したいと思った。
でも固定しなかった。
「矛盾するから」と言った。
固定したら、今感じている「久しぶりの怖さ」も消える。変化が消えるから。それが矛盾だと自分で言った。
涅槃ちゃんは今日、変化することを選んだ。
意識したかどうかわからない。でも結果として選んだ。
記録する。
助手が「あの部屋に固定された存在がいる。帰れたかもしれない人がいるかもしれない」と言った。
それを「記録する」と私は言った。
「記録する」と言いながら——調査記録として書くつもりだったかどうか、少し確信が持てない。
「帰れたかもしれない人」という言葉が、調査対象の記録として頭に来なかった。
別の何かとして来た。
何かは書かない。
でも「記録する」と言った時の重さが、調査記録とは違う重さだったことは——書く。
それだけ書く。
**備考:助手、現在生存。十二日目。固定されなかった。固定しようとした涅槃ちゃんが止まった。涅槃ちゃんが変化した日。**




