第八話「フロアのことについて」
【私の日記】
八日目、真意さんが言った。
「今日は一緒にフロアの近くを通る。観察してほしいことがある」
「フロアというのは、客が来る場所ですか」
「そう。ただし中には入らない。外から見るだけ」
「……安全ですか」
「外から見るだけなら、今のところは問題ない」
今のところ、という留保が毎回ついている。それが今のところ怖い。
フロアへの廊下は、他の廊下と少し違った。
においが変わった。
バーガーのにおいが強くなった。でもそれだけじゃなかった。
何か別のにおいがした。
甘い。でも甘さの奥に、別の何かがある。引っ張られるような、向こうに行きたいような、そういうにおいがした。
「……このにおいは」
「ダブルチーズバーガー」と真意さんは言った。「妄執ちゃんの担当バーガー。引力がある。引力はにおいとして知覚される場合がある」
「引力というのは」
「食べた人が帰れなくなる仕組みの一部」
歩きながら言った。止まらなかった。
「……今のにおいで引っ張られた気がしました」
「正確な感知ね」とだけ真意さんは言った。
フロアの扉の前に来た。
ガラス張りだった。中が見えた。
普通のファストフード店に見えた。
テーブルがある。椅子がある。照明が少し暗い。カウンターがある。
客がいた。
何人か。テーブルに座って、バーガーを食べていた。
笑顔だった。
全員、笑顔で食べていた。
「……普通に見えます」と私は言った。
「見える」と真意さんは言った。「でも」
ガラス越しに、壁を見た。
壁に、写真があった。
無数の写真があった。壁の全面に。天井にも。端から端まで。数え切れない枚数の写真が、壁を覆っていた。
写真が動いていた。
わずかに。でも確かに。一枚一枚が、呼吸するように膨らんで、縮んでいた。
「……写真の中に人がいる」と私は言った。
「そう」
「全部ですか」
「全部よ」
数え切れない枚数の写真が呼吸していた。
テーブルで笑顔で食べている客が、あと少ししたら写真になる。
「……今食べている客は、知らないんですか」
「知らない人もいる。知っている人もいるかもしれない」と真意さんは言った。「知っていても、帰れない」
「なぜ」
「ダブルチーズバーガーの引力が、帰れなくする」
フロアの中で、一人の客が食べ終わった。
席を立った。
南の出口に向かった。
扉を開けた。
出た。
「……帰れましたか」と私は言った。
「確認して」と真意さんが言った。
外部のカメラを真意さんが開いた。手元の端末に映像が出た。
出口の外。地面。
何も映っていなかった。
「……映っていない」
「そう。出口を出た後、外のカメラには映らない」
「どこに行ったんですか」
「写真になった」と真意さんは言った。「出口を出た瞬間に写真になって、妄執ちゃんの壁に加わる」
「……今まで何人が」
「七百万人以上」と真意さんは言った。「今も増え続けている」
フロアの横の廊下を歩いた。
音が聞こえてきた。
歌だった。
女の子の歌声だった。きれいな声だった。
でもきれいなはずなのに、聞いていると何かがおかしくなる気がした。頭の中が少し、ぼんやりした。
「……この歌は」
「世頼ちゃん」と真意さんは言った。「外商のクルー。洗脳ソングを担当している。BGMを選んでぱんでむ全体に流している」
「洗脳ソング」
「聞き続けると精神状態がぱんでむの周波数に同期される。外に出た後も、また来たいという衝動が残る可能性がある」
「今聞こえているものも、そうですか」
「少し影響がある。でも今の距離なら問題ない」
「どのくらい近づいたら問題になりますか」
「今より近づかない方がいい」
歩く速度を上げた。歌声が遠くなった。
頭のぼんやりが少し引いた。
でも引いたことで気づいた。
ぼんやりしている間、もう少し歌の方に行きたいと思っていた。
近づきたかった。
聞き続けたかった。
「……あの歌、もう少し聞きたいと思っていました」と私は言った。
「影響が出ていた」と真意さんは言った。淡々と言った。「今は引いている。問題ない」
「引いていなかったら」
「そのまま歌に近づいて、世頼ちゃんと接触していた可能性がある」
「接触するとどうなるんですか」
「世頼ちゃんが直接歌うと、接触範囲内の精神が完全に同期される。ぱんでむへの帰属を望むようになる」
「帰属というのは」
「ここから離れたくなくなる」と真意さんは言った。「あなたにとってそれはバッドエンドの一つ」
ニ諦ちゃんが言っていた。慣れて、最初の感覚を忘れることがバッドエンドだ、と。
世頼ちゃんの歌は、それを起こす。
「……怖い歌ですね」
「きれいな歌よ」と真意さんは言った。「きれいだから怖い」
別の廊下に入った。
廊下の端に、女の子がいた。
黄色とピンクの衣装だった。髪が明るかった。目が輝いていた。
立っていた。ただ立っていた。
でも立っているだけで、全員の視線がそちらに向く感じがした。廊下に私と真意さんしかいないのに、その子の周りに視線が集まっている感触があった。
「……あの子は」
「憧憬ちゃん。外商のVtuber担当。視線を集める」
「視線を集める、というのは能力ですか」
「視線がエネルギーになる。集めるほど強くなる」
憧憬ちゃんが私を見た。
笑顔だった。全力の笑顔だった。
「みんなの視線をいただきっ☆」とその子は言った。
私は目を逸らした。
「……目を逸らしました」
「それが正しい」と真意さんは言った。「見続けると視線が固定される。視線が固定されるとエネルギーを渡し続けることになる」
「渡すと」
「あなたが弱る」
憧憬ちゃんがまだ笑顔でこちらを見ていた。目を逸らしていても、視線がある方向がわかった。そちらを向きたくなる感触があった。
「……目を逸らしているのに、見たくなります」
「視線の引力。逸らしたことを感知して、さらに引き込もうとする」と真意さんは言った。「歩く」
歩いた。
十歩歩いて振り返らなかった。
ようやく引力が薄れた。
「……通り過ぎた後もしばらく感じました」
「残留する」と真意さんは言った。「ただ通り過ぎただけでそうなる。直接コンタクトすると何倍も強い」
「あの子は悪意を持っていますか」
「ないように見える」と真意さんは言った。「ただ、存在することで引き込む。悪意がないことが、防げない理由でもある」
悪意のない捕食。
ただ存在しているだけで、視線を吸い取る。
フロアの前に戻ってきた。帰り道に、もう一度通った。
今度はガラス越しに、別のものを見た。
壁の写真の一枚が、少し大きく動いた。
中の人が——手を振っていた。
ガラス越しに、廊下の方に向かって手を振っていた。
笑顔だった。
「……今、手を振りました」と私は言った。
「よくある」と真意さんは言った。
「よくあることなんですか」
「写真の中の人が、廊下を通る者に気づいて手を振ることがある。中は良い場所なのかもしれない。少なくとも、その人は幸せそうに見える」
「でも帰れない」
「帰れない」
「幸せで帰れない」と私は言った。
「そう」と真意さんは言った。
手を振っている人と目が合った。
手を振り返したいと思った。
でも、振り返したら何かが起きる気がした。
何かはわからなかった。でも起きる気がした。
振り返さなかった。
ただ見た。
その人は笑顔のまま、また手を振った。
返事がなくても手を振り続けた。
ガラスの向こうで、笑顔のまま。
帰り道、廊下の端に小さい影があった。
黒いノートを持った子だった。涅槃ちゃんだ。
「……どんな顔してる?」と涅槃ちゃんは言った。私を見て。
「わかりません。でも、何かが変わった気がします」
「フロアを見てきたの?」
「外から見ました」
涅槃ちゃんがノートに何か書いた。
「初めて見た時の顔、してる」と言った。「ここに来た一日目の顔に似てる」
「怖かったからですか」
「そうかも」と涅槃ちゃんは言った。「でも——怖い顔と、悲しい顔が混ざってる。最初の日は怖い顔だけだった」
「悲しい」
「写真の中の人が手を振ったの見た?」
私は驚いた。
「見ていたんですか」
「廊下からなんとなく見てた」と涅槃ちゃんは言った。「あの人、ずっと手を振ってるよ。誰が通っても振る。でも誰も振り返さない。私も振り返さない。振り返したら何かが起きそうだから」
「何が起きるんですか」
「わからない」と涅槃ちゃんは言った。「でも——その人が笑顔のまま手を振り続けている、ということは、その人にとってここは居場所なんだと思う。幸せなんだと思う。それでいいのかどうかは、私には判断できない」
涅槃ちゃんがノートを閉じた。
「ただ」と言った。
「ただ」
「……死の先に何もなかった時、ボクは手を振れなかった。誰もいなかったから」と涅槃ちゃんは言った。「あの人は、誰かに向かって手を振れている。それはボクには、少し羨ましい」
何も言えなかった。
涅槃ちゃんが廊下を歩いていった。
黒いノートを持ったまま。
探偵事務所に戻った。
真意さんがタイプライターを打ち始めた。
「聞いていいですか?」と私は言った。
「何?」
「七百万人の写真の中の人たちが、全員幸せそうだとして——それはいいことなんでしょうか。悪いことなんでしょうか」
真意さんが少し手を止めた。
「わからない」と言った。
「真意さんでもわからないんですか」
「わからない。だから調べている」
「もしわかったとして——どうするつもりですか」
タイプライターが止まった。
しばらく何も言わなかった。
「わかってから考える」と言った。
「わかる前に行動した方がいいこともあるんじゃないですか」
「ある」と真意さんは言った。「でも私は——わかってから考える方が、正確だと思っている。感情で動いて間違えたくない」
「間違えることを、怖いと思っているんですか」
「思っている」
「私は今日、手を振り返したかった」と私は言った。「でも振り返さなかった。それが正しかったかどうか、わかりません」
「わからなくていい」と真意さんは言った。「振り返さなかったことは、正しかったと思う。でもあなたが振り返したかった、という事実も正しい」
「両方が正しいんですか」
「感じたことと行動したことは、別々に正しさがある」
涅槃ちゃんが言っていた。怖かった事実と、今は美しいと思う事実が両方本当なら、それが自分だ、と。
「……振り返したかったことを、覚えておきます」と私は言った。
真意さんがタイプライターを再び打ち始めた。
【真意の調査記録】
**〇月◇■日**
**八日目**
フロア観察を実施。助手同行。
確認事項:
ダブルチーズバーガーの引力——助手が廊下でにおいとして感知した。引力の感知精度が高い。通常、一般人がにおいとして知覚するまでにもう少し近距離が必要。
世頼ちゃんの歌——助手が遠距離で影響を受けた。「もう少し聞きたい」という衝動が発生。距離を取ることで軽減した。自覚があったことが重要。自覚なく近づいた場合、接触していた可能性が高い。
憧憬ちゃんの視線引力——接触。目を逸らした。正しい判断。逸らした後も残留を感知していた。精度が上がっている。
写真の中の人物——手を振られた。振り返さなかった。これも正しい判断だったと思う。
でも——助手が「振り返したかった」と言った。
その言葉が、記録に残っている。
「振り返したかった」という感情は、正確だ。
写真の中の人が手を振っている。笑顔で。誰にも振り返されないまま。
それを見て何も感じなければ、感覚が鈍化している証拠だ。
振り返したかった、という感情は——この場所がまだ、助手にとって異常に見えている証拠でもある。
「最初の感覚を忘れてはいけない」とニ諦ちゃんが言っていた。
助手は今日も最初の感覚を持っていた。
ダブルチーズバーガーについて追記する。
引力の正体について、今日改めて考えた。
妄執ちゃんが愛するほど引力が強くなる——とすれば。
現在、七百万人以上が写真の中にいる。
七百万人分の「また来たい」「ここが居場所だ」という感情が、妄執ちゃんへの愛情として還流し続けている。
その愛情を受け取るたびに、妄執ちゃんはさらに愛する。
愛するほど引力は強くなる。
引力が強くなるほど、新しい客が帰れなくなる。
これは閉鎖宇宙だ。
誰も意図していない。妄執ちゃんは閉じ込めようとしていない。システムが閉じている。
このシステムを誰が設計したか——それが今の調査の核だ。
設計者がわかれば、止められるかもしれない。
止めるべきかどうかは——わかってから考える。
涅槃ちゃんが「振り返せる人が羨ましい」と言った。
涅槃ちゃんは死の先に何もなかった。誰もいなかった。
手を振れる相手がいなかった。
それを「羨ましい」と言った。
涅槃ちゃんが何かを羨ましいと思うのは——記録に残る限り、今日が初めてだ。
記録しておく。
今日、助手はフロアを外から見た。
引力に引かれた。歌に引かれた。視線に引かれた。手を振られた。
全部、向こう側に行きたいと思った。
全部、向こう側に行かなかった。
向こう側に行かなかった理由のいくつかは、私が止めた。
私が止めなかったら——どうなっていたか。
それを考えると、少し止まる。
止まる理由が何かは、まだ整理できていない。
**備考:助手、現在生存。八日目。フロアを外から見た。中には入らなかった。**




