第七話「食堂のことについて」
【私の日記】
七日目の昼、お腹が空いた。
真意さんが調査に出た。今日は一人でいていい、と言った。探偵事務所から出ないように、とも言った。
でも今日はそれができなかった。空腹が勝った。
そっと扉を開けた。廊下に出た。
においを辿った。
バーガーのにおいがする方向に歩いた。
においの出どころは、バックヤードの奥にある一室だった。
扉が開いていた。
中を見た。
食堂、と書いた表札があった。
でも食堂ではなかった。
部屋の中央に、でかいものがあった。
獣の足だった。
四本足の、何かの生き物の足だった。一本だけ。でかかった。私の全身より長かった。骨と肉が見えていた。切断面が見えていた。まだ熱を持っていた。蒸気が出ていた。
その足をBBQセットで焼いていた。
BBQセットも部屋の中央にあった。普通のBBQセットではなかった。火が橙色ではなく白かった。温度がわかった。あの白さは、普通の火じゃない。
焼いているのは、虎耳の女の子だった。
流焔ちゃんだ。廊下で何度かすれ違った子。
「ヒャハハ!」と言っていた。「今日の脂、量がすごい!」
脂が滴っていた。床に落ちていた。床が焦げていた。
もう一人いた。
茶と赤の服の子が、別の場所で作業していた。
足ではない別の部位を持っていた。解体していた。拳で。
拳で、肉を叩いていた。一回叩くたびに、肉が変形していた。骨が砕けていた。普通の力じゃなかった。岩を砕く音と同じ音がしていた。
「硬い」と言った。「もう少し叩く」
瑠志ちゃんだ。これも廊下ですれ違ったことがある。
扉の前で固まっていたら、奥から別の声がした。
「——世達、今日の収穫の記録。第十七層、甲殻類亜種。推定重量四トン。可食部位、全体の約三割」
白と銀の服の女の子が、奥のテーブルで記録帳に書き込みながら言っていた。
感情のない声だった。食材を食材として処理している声だった。
摩天ちゃんだ。名前だけは真意さんから聞いていた。実力行使班のリーダー。
「四トン!?」と別の声がした。
隅の方で書類を書いていた子が顔を上げた。黒いスーツ。眉間に皺。
「……今回も冷蔵庫、入りきらないやつですか。また始末書——」
「世達。入りきらない分はダンジョンに戻す。記録だけしろ」
「戻せるんですか、ダンジョンに」
「生きていれば戻る」
「……生きているんですか、まだ」
「三割は生きている」
世達ちゃんが手帳に何かを書いた。「……生存個体、廃棄記録、……始末書の様式、何番だっけこれ」と言いながら。
上から声がした。
天井から声がした。
「フォッフォッ。今日の収穫は大きいのう」
天井に、女の子がいた。
浮いていた。
正確には、雲の上に座っていた。天井の付近に雲があった。そこに座って、お茶を飲みながら下を見ていた。
瑠倫ちゃんだ。真意さんから聞いた。隠居賢者。天候を操る。
「……なんで天井に」と私は言った。声に出ていた。
「フォッフォッ。天気がいいから、高いところに座りたくなっての」
「ここに天気はないですよね」
「わらわがいれば天気じゃよ」
意味がわからなかった。でも瑠倫ちゃんが天井の雲の上にいること自体は、反論できない事実だった。
流焔ちゃんが私に気づいた。
「お、新しい子!」と言った。虎耳が動いた。「メシ食いに来た?」
「……はい」
「これ食う?」と言って、白い炎で焼いている足を指した。
「……あの、これは何の足ですか」
「第十七層のやつ」
「第十七層の何ですか」
「さあ」と流焔ちゃんは言った。「摩天が名前つけてない」
摩天ちゃんが記録帳から目を上げた。
「甲殻類亜種、と記録した。正式名称なし。発見種」
「発見種、というのは」
「ぱんでむのダンジョンにいた。他の世界線に記録がない。よって新種」
「……新種を食べているんですか」
「食べられれば食材だ」と摩天ちゃんは言った。「論理的に問題がない」
瑠志ちゃんが拳を止めた。解体した部位の断面を確認していた。
「繊維の方向がわかった」と言った。「ここから断つと柔らかくなる」
また拳を振るった。音がした。肉の内部から何かが崩れる音がした。
「……瑠志さんは魔法を使わないんですか」と私は聞いた。
瑠志ちゃんが私を見た。
「使わない」
「なぜですか」
一秒だけ間があった。
「拳の方が正確だから」とだけ言った。
世達ちゃんが立ち上がった。書類を持ったまま私の方に来た。
「……新しい子、ですね」と言った。
「はい」
「真意さんの助手の、ですよね」
「そうです」
「ここで食事をする予定で来たんですか」
「お腹が空いて、においを辿ったら来てしまいました」
世達ちゃんが少し間を置いた。
「……こっちに来てください」と言った。
奥の棚から何か取り出した。小さな包みだった。渡してくれた。
受け取った。
「バーガーです。摩天さんが狩ってきたものじゃないやつ。普通のやつ。渡されても食べるなって言われてるかもしれませんが、これは私が持ってた備蓄なので」
「……ありがとうございます」
「真意さんから渡されたもの以外は食べないように、が普通のルールですが」と世達ちゃんは言った。「私が渡したもの、という意味では真意さんのルールと厳密には違うかもしれない。判断はお任せします」
「食べます」と私は言った。
食べた。
おいしかった。
「……この部屋は毎日こういう感じですか」と私は聞いた。
「毎日ではないですが、摩天さんがダンジョンから戻った日はこうなります」と世達ちゃんは言った。「今日は四トンなので少ない方です」
「少ない方」
「多い時は何十トンか、あるいは測定不能なサイズのものを持ち帰ります」
「それが冷蔵庫に入るんですか」
「入らない時は圧縮します」
「何で圧縮しますか」
「瑠志さんが拳で」
「拳で、ですか」
「概念を殴る能力があるので、物理的な大きさという概念を殴ると圧縮できます」
私はもう一口バーガーを食べながら、瑠志ちゃんを見た。
今は肉を解体している。でもあの拳は、概念を殴れる。
「……魔法より正確、というのはそういう意味だったんですか」
「そうだと思います」と世達ちゃんは言った。「魔法は定義を変える。拳は定義ごと砕く。砕いた後に残るものが本質だ、と瑠志さんは言っていました」
流焔ちゃんが火力を上げた。
炎が白からさらに白くなった。温度が上がった。私がいる場所まで熱が来た。
「熱いです」と世達ちゃんが言った。
「もうちょっとで焼ける!」と流焔ちゃんは言った。
「もうちょっとで食堂も焼けます」
「大丈夫大丈夫」
「大丈夫じゃないです」と世達ちゃんは言った。手帳に何かを書いた。「始末書、また増えた」
床が焦げる音がした。
「フォッフォッ」と天井から瑠倫ちゃんが言った。「流焔は元気じゃのう」
「瑠倫さんも止めてください」と世達ちゃんが言った。
「わらわは隠居じゃから」と瑠倫ちゃんは言った。お茶を飲みながら。
「隠居でも関係者ですよね」
「フォッフォッ」
世達ちゃんが私を見た。「……これが毎日です」と言った。疲れた顔で言った。
「……辞めたいと思いますか」と私は聞いた。
世達ちゃんが少し止まった。
「……辞表を書いたことは何十回もあります」と言った。「でも処理できない書類が、いつもあって」
「処理できない書類?」
「どうしても最後まで書けない案件が、一つだけあるんです。何の案件かは自分でもわかっていないんですが」と世達ちゃんは言った。「それがある限り、辞められない気がする」
「……それはなぜですか」
「わからないんですよね」と世達ちゃんは言った。「でも毎朝、その書類だけは手が動かなくて」
世達ちゃんがまた手帳を開いた。始末書の様式を確認しながら。
摩天ちゃんが立ち上がった。
記録帳を閉じた。
私を見た。
一秒だけ見た。
「弱点が見える」と言った。
「え」
「あなたの弱点が見えた。私の能力だ。視認した瞬間に相手の弱点が見える」
「……どんな弱点ですか」
摩天ちゃんが少し止まった。
「言わない」と言った。
「なぜですか」
「言う必要がない」とだけ言った。また記録帳を開いた。
少し後で、摩天ちゃんが追加で一言言った。
「苦しさも見える。弱点と同時に、その弱点がどこから来たかが見える。今日は言わない方がいい」
私は何も言えなかった。
「食材として美味しそうとは⋯言わない」と摩天ちゃんは言った。「今は、そう変換しない」
「……それはどういう意味ですか」
摩天ちゃんが記録帳を見たまま言った。
「真意が連れているものは、変換しない方がいい気がした。それだけだ」
焼けた。
流焔ちゃんが「できた!」と言った。
巨大な足が焼けていた。においがした。
「……食べる?」と流焔ちゃんが私に言った。
「……少しだけ」
流焔ちゃんが端の部分を切り取ってくれた。
食べた。
おいしかった。
何の味かはわからなかった。でも確かに食べ物の味がした。
「美味しいですね」と私は言った。
流焔ちゃんが少しだけ、違う表情になった。
笑顔ではなく、少し柔らかい顔だった。
「……そういう顔する人、久々に見た」と言った。
「どういう顔ですか」
「食べてよかった、って顔」
「毎回こうやって焼いているのに」
「みんな、食べてよかったとは思わないから」と流焔ちゃんは言った。「食べて変化するか、食べて終わるか。そのどっちかだから。よかった、で終わる人が来ない」
炎が少し、色を変えた。
橙色になった一瞬があった。
すぐに白に戻った。
部屋を出る前に、瑠倫ちゃんが天井から声をかけた。
「お嬢ちゃん、少し聞いていいか」
「はい」
「ここが怖いか」
「……少し怖いです」
「そうじゃろ」と瑠倫ちゃんは言った。「フォッフォッ——わらわもそう思っていた時期があった」
「瑠倫さんも怖いと思ったことがあるんですか」
「昔の話じゃ」と瑠倫ちゃんは言った。お茶を飲みながら。「面白かったから、止めなかった世界線がある。その後、怖かったことも忘れてしまった」
「……止めなかったことを後悔していますか」
瑠倫ちゃんが少し間を置いた。
「フォッフォッ」とだけ言った。
笑い方が、少し違った。
廊下に出た。
探偵事務所に戻った。
真意さんが戻っていた。
「どこに行った?」と言った。
「食堂に行きました。お腹が空いて」
「食べた?」
「世達さんに備蓄のバーガーをもらいました。それと、摩天さんたちが焼いていたものを少し」
真意さんが少し止まった。
「問題はなかった?」
「ありませんでした」と私は言った。「ただ」
「ただ」
「摩天さんに弱点が見えると言われました。教えてもらえませんでしたが」
真意さんがメモを取った。
「摩天ちゃんが教えなかった」
「はい。言わない方がいい、と」
「そう言った」
「はい」
真意さんが少し考えた。
「……摩天ちゃんが言わないと判断したなら、今は聞かない方がいい」
「真意さんも弱点が見えていますか、私の」
「見えない。ルーペで読もうとしたことはある。でも三層目より深くは読んでいない」
「なぜ読まないんですか」
「読んだ場合と読まなかった場合の影響を考えた。読まない方がいいと判断した」
「……それも、摩天さんと同じ理由ですか」
真意さんが少し止まった。
「似ているかもしれない」と言った。
窓の外を少し見た。
「今日の食堂の話を、もう少し聞かせて」と言った。
私は話した。
瑠倫ちゃんが天井にいたこと。瑠志ちゃんが概念を殴ること。世達ちゃんが処理できない書類があること。流焔ちゃんが「食べてよかった、で終わる人が来ない」と言ったこと。
真意さんが全部メモに取った。
最後に、流焔ちゃんの炎が一瞬橙色になったことを言った。
「橙色になった」と真意さんが繰り返した。
「はい。すぐ白に戻りましたが」
「……それは、温める炎かもしれない」と真意さんは言った。「流焔ちゃんが誰かを本当に気にかけた時にしか出ない炎」
「私を気にかけたということですか」
「わからない。でも可能性はある」
「……なぜ私を」
「あなたが「美味しい」と言ったから、かもしれない」と真意さんは言った。「「食べてよかった」という反応を、流焔ちゃんは久々に見たと言ったんでしょう」
私は少し黙った。
「……それだけで気にかけるんですか」
「それだけで、というのが」と真意さんは言った。「ぱんでむでは「それだけ」じゃないのかもしれない」
【真意の調査記録】
**〇月▽▲日**
**七日目**
午後、助手が単独行動。食堂に入った。
実力行使班と接触:摩天ちゃん、瑠志ちゃん、流焔ちゃん、世達ちゃん、瑠倫ちゃん。
問題なし。怪我なし。
各クルーの行動記録:
摩天ちゃん——助手の弱点を視認。教えなかった。「真意が連れているものは変換しない方がいいと思った」という理由。
「変換しない」という言葉について:
摩天ちゃんは弱点と同時に苦しさの出どころが見える。それを「食材として美味しそう」に変換してきた。変換しないということは、苦しさを苦しさとして直視した、ということかもしれない。
摩天ちゃんが誰かのことを「変換しない」で見るのは、珍しいことだと思う。
瑠志ちゃん——助手に「拳の方が正確」と答えた。
「魔法は定義を変える。拳は定義ごと砕く」——世達ちゃんの解説として記録。
魔法を嫌う理由を、瑠志ちゃん自身は言わない。でも行動の中に理由がある。記録しておく。
流焔ちゃん——助手が「美味しい」と言った時、炎が一瞬橙色になった。
温める炎の可能性。流焔ちゃんが誰かを本当に気にかけた時にしか出ない炎。
「食べてよかった、で終わる人が来ない」という発言——記録する。
この発言は、流焔ちゃんが自分の炎を使った結果を観察していた、ということを示している。結果をずっと見ていた。「よかった」で終わることを、たぶん期待していた。でも来なかった。
今日来た。
それが橙色の炎の理由かもしれない。
世達ちゃん——「処理できない書類が一つある」という発言。
自分でも何の案件かわかっていない。でも処理できない。
これが世達ちゃんを辞めさせない理由だと本人は言う。
処理できないものが、続けさせている。という構造は——ぱんでむに多い。
私もそうかもしれない。4層目を読めない。でも読もうとしている。読めないことが、止まらない理由になっている。
瑠倫ちゃん——「面白かったから止めなかった世界線がある。その後、怖かったことも忘れた」という発言。
「フォッフォッ」と言った。でも笑い方は、いつもと少し違った。
瑠倫ちゃんの内側に、消えた世界線が全部ある。公的な記録には残らない。でも瑠倫ちゃんの中にある。
怖かったことも忘れた、と言った。
でも——忘れたものを「あった」と言えるのは、完全には忘れていないからだ。
今日の記録で気づいたこと:
助手が「美味しい」と言った。それだけで複数のクルーが反応した。
摩天ちゃんは変換しないことにした。流焔ちゃんの炎が色を変えた。世達ちゃんが備蓄のバーガーを渡した。
「それだけ」のことが、何かを動かした。
ぱんでむのクルーたちは、外から見ると全員が捕食者であり、異形だ。人間ではない。
でも「美味しい」という一言が、全員の中の何かに触れた。
それが何かは、まだわからない。でも触れたのは事実だ。
記録する。
**備考:助手、現在生存。七日目。食堂に行った。帰ってきた。**




