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第五話「眠ることについて」

【私の日記】


五日目の夜、眠れなくなった。


理由は単純だ。ここで眠るのが怖かった。


最初の夜も二日目の夜も、疲弊しすぎていてそのまま眠っていた。でも今夜は頭が冴えていた。


ここで眠ると、夢を見る。夢を見るということは、夢の中にも「ここ」が続く可能性がある。


ぱんでむの夜の廊下を、眠った状態で歩く羽目になるかもしれない。


そう思ったら眠れなくなった。


「……眠れない?」


真意さんが暗い中で言った。タイプライターの前に座っていた。電気が消えていても作業している。


「眠るのが少し怖いです」


「なぜ」


「夢の中でもここにいる気がして」


真意さんが少し間を置いた。


「正しい直感ね」と言った。


「正しいんですか」


「ぱんでむで眠ると夢幻ちゃんが来ることがある。夢幻ちゃんは眠っている人の夢に入り込める」


「……それは、どうなるんですか」


「夢の中で何かを見せられる。現実に影響は出ない場合が多い。でも覚えていることがある」


「多い、というのは」


「まれに残ることがある」と真意さんは言った。


「残るとどうなるんですか」


「それは夢幻ちゃんによる」


真意さんがタイプライターを打った。


「眠らなくてもいいけど、明日の調査に影響が出る」とだけ言った。


私は少し考えた。眠るか眠らないかを選べるなら、眠らない方がいい気がする。でも眠れないまま一晩過ごして体力が落ちた状態の方が危険かもしれない。


「……眠ります」と言った。


「そう」と真意さんは言った。


「夢幻ちゃんが来たら、どうすればいいですか」


「来てもただ見ているだけなら問題ない。向こうが見せようとするものを、見なければいい」


「見ないようにするにはどうすれば」


「怖くなっても目を逸らさないこと。夢幻ちゃんが見せるものは、あなたが見たいと思っているものを反射する。怖くてそちらを向いたら、向かわせたいものを向いたことになる」


「……怖くても目を逸らさない」


「そう」


私はブランケットを引き上げた。目を閉じた。


暗かった。ぱんでむの暗さだった。普通の暗さじゃない気がした。壁が少し薄くて、廊下側から微かに何かが滲んでいる気がする暗さだった。


目を閉じたまま、真意さんのタイプライターの音を聞いた。


規則正しい音だった。


その音を聞きながら、眠った。




【夢の記録】


最初は普通の夢だった。


渋谷にいた。スマホを持っていた。画面に何かが映っていた。


でも画面を見ようとすると、内容が変わった。何を見ようとしても別のものになった。


廊下を歩いていた。


ぱんでむの廊下だった。でも少し違った。廊下が長すぎた。壁が遠すぎた。


誰かがいた。


水色と緑の服を着た子だった。笑っていた。小悪魔的な笑い方だった。


「来たね」とその子は言った。「いい夢、見せてあげる♡」




最初に見えたのは、廊下の壁だった。


でも壁の中が透けていた。各部屋の中が見えた。


懺悔ちゃんの部屋だった。食堂、という表札が出ていた。


中に入ったわけじゃない。壁越しに見えた。


懺悔ちゃんが一人でいた。


テーブルの前に座っていた。何も食べていなかった。


手を見ていた。右手を。今日の右手は、また変わっていた。指が少なくなっていた。爪が薄くなっていた。今日は何かの罪を食べて、それが手の形をしている。


懺悔ちゃんが手を見ながら、何かを思い出そうとしていた。


何を食べたか、思い出そうとしていた。


でも覚えていなかった。何の罪を食べたか、覚えていない。覚えていないまま、手の形だけが残っている。


懺悔ちゃんがのんびりした声で独り言を言った。


「……誰の、だっけ」


わからないまま、また立ち上がった。


廊下を歩き始めた。また誰かの罪を感知している顔をしていた。


何を贖うかわからないまま、贖い続けている。




次に見えたのは、空無ちゃんの部屋だった。


白い部屋だった。丸い部屋だった。羊水のにおいがした。


空無ちゃんが中央にいた。


何もしていなかった。ただ、いた。


でも内側から声がした。


壁の中から、声がした。微かな声が、無数にあった。みんな何かを言っていた。何を言っているか聞き取れなかった。


空無ちゃんが耳を傾けていた。


「……なんて言ってるのかしら」と空無ちゃんは言った。おっとりした声で言った。「みんな、まだ何か言いたいの?」


返事はなかった。声は続いていた。


空無ちゃんが少し困った顔をした。


「……よしよし」と言った。誰もいない方向に言った。「聞こえているわよ。でも、何を言っているかわからないの。ごめんなさいね」


壁の中の声が、少し大きくなった。


空無ちゃんがまた「よしよし」と言った。


声が少し、静かになった。


全員、まだ言おうとしていた。




次に見えたのは、憂起ちゃんの部屋だった。


壁に手書きで「ここ」と書いてあった。家具は何もなかった。床にチョークで落書きがあった。


憂起ちゃんが部屋の中央に浮いていた。座っているわけでも立っているわけでもなく、ただ浮いていた。


目を閉じていた。


でも何かを感じていた。感じている顔をしていた。


「……これは誰のだろ」とつぶやいた。


何のことかわからなかった。


「悲しい気がする。でも私が悲しいのか、誰かから受け取った悲しみなのか」


手を見た。でも手は透けていて、何も持っていなかった。


「……数万年分あるから。全部どこかの誰かのだから。私のは、どこにあるんだろ」


聞こえているかのように、少し間を置いた。


「……まあ、いっか」と言った。


でも「まあいっか」という言葉の後で、また同じことを考え始めた。


閉じた目の裏側で、誰かの絶望と誰かの喜びと誰かの悲しみが、全部混ざって流れていた。


どれが自分のものかわからないまま、数万年、ずっと流れていた。




次に見えたのは、万寿ちゃんの部屋だった。


霊安室、という表札が出ていた。花が飾られていた。棺が並んでいた。


万寿ちゃんが一番奥の棚の前に立っていた。


棺が一つあった。


空だった。


万寿ちゃんがその棺に花を一輪、置いた。


誰もいない棺に、花を置いた。


「……美しいわ」と言った。


何が美しいのか、棺は空だった。誰もいなかった。


でも万寿ちゃんは「美しいわ」と言った。


それから鎌を脇に抱えて、部屋の奥に座った。


待っていた。


何かを、あるいは誰かを、待っていた。


待つことに慣れた顔をしていた。


何年でも待てる、という顔だった。




次に、夢幻ちゃんが目の前に現れた。


「見た?」と言った。「どれが一番怖かった♡」


「……全部、悲しかったです」


夢幻ちゃんが少し止まった。


「悲しい?」


「怖くなかったんですか」とその子は聞いた。何か、想定と違う答えだったような顔をした。


「怖くは、なかったです。悲しかった」


夢幻ちゃんがまた少し止まった。


「……あなた、欲望がわかりにくい」とその子は言った。「普通の人は、見てほしいものが鏡に映る。でもあなたの鏡には、何が映るかわからない」


「欲望がない、ということですか」


「あるよ。でも」と夢幻ちゃんは言った。「あなたが見たいのは、欲しいものじゃなくて——知りたいものだと思う」


知りたいもの。


「……違いはなんですか」


「欲しいものは自分のため。知りたいものは——対象のため」と夢幻ちゃんは言った。「あなたは懺悔ちゃんのことが知りたかった。空無ちゃんのことが知りたかった。憂起ちゃんのことが知りたかった。万寿ちゃんのことが知りたかった。だから見えた」


「……夢幻さんが見せたんじゃなくて」


「私が鏡を持っていただけ。映したのは、あなたが知りたかったもの」とその子は言った。「でもね——」と少し続けた。「あなたが知りたいと思っていた子しか映らない。会ったことがない子は映せない。鏡はあなたの中にあるものしか返さないから」


「怖いより悲しい、ってなかなかいないよ。知りたいと思って見ると、そこにいる子が見える。そういう見方、たまに正しいことがある」


夢幻ちゃんが少し、笑い方が変わった。小悪魔的な笑い方から、少し違う笑い方になった。


「……あなたのこと、知りたいな」とその子は言った。「でも鏡に映らない人は、映しても意味がないから」


「どういうことですか」


「自分の欲望が読める人間は、鏡を見た後も自分でいられる」と夢幻ちゃんは言った。「そういう人は、私の出番がない。あなたもそっちみたい」


それだけ言って、夢幻ちゃんが消えた。


夢が静かになった。


廊下に一人でいた。


懺悔ちゃんの部屋の前を通り過ぎた。部屋の中から「……誰の、だっけ」という声が聞こえた。


空無ちゃんの部屋の前を通り過ぎた。「よしよし」という声が聞こえた。


憂起ちゃんの部屋の前を通り過ぎた。「……これは誰のだろ」という声が聞こえた。それから「まあいっか」という声が聞こえた。でもまた「誰のだろ」という声が続いた。


万寿ちゃんの部屋の前を通り過ぎた。「美しいわ」という声が聞こえた。静かな声だった。


続かなかった。


廊下がまた長くなった。歩き続けた。


どこかに出口がある気がした。でも見えなかった。


歩き続けた。




【私の日記・続き】


目が覚めた。


探偵事務所だった。


真意さんがまだタイプライターを打っていた。


「眠れた?」


「眠れました」


「夢幻ちゃんは来た?」


「来ました」


真意さんが少し手を止めた。振り返った。


「覚えている?」


「覚えています」


「残ったのね」と真意さんは言った。「何を見た?」


懺悔ちゃんのことを話した。郷愁ちゃんのことを話した。黄昏ちゃんのことを話した。空無ちゃんのことを話した。


真意さんがメモを取った。途中で手を止めた。


「……怖かった?」と聞いた。


「悲しかったです」


「悲しい」と真意さんが繰り返した。


「夢幻さんも同じことを言ってました。怖いより悲しい人は少ない、と」


真意さんがまたメモに何かを書いた。長く書いた。


「夢幻ちゃんは普段何を言う?」と私は聞いた。


「いい夢見せてあげる、と言う。それだけ」


「私には違うことを言いました」


「知ってる」と真意さんは言った。「夢幻ちゃんが来た痕跡を調査するのが、今日の午前中の調査だった。夢幻ちゃんが何を見せたかを記録する」


「……事前に知っていたんですか」


「夢幻ちゃんが来る可能性は高いと思っていた」


「だから眠らせたんですか」


真意さんが少し止まった。


「……半分は調査のため」と言った。「もう半分は——眠れないと消耗するから」


「半分調査のためだったんですか」


「そう」


「夢幻ちゃんに私の夢を見せることが、調査に必要だったんですか」


真意さんが少し間を置いた。


「夢幻ちゃんに見せることで、あなたが何を知りたがっているかがわかると思った。それは調査に使える情報よ」


「……私のことを調べるために、私を眠らせたんですか」


「使っているとは思っていない」と真意さんは言った。「あなたに害が及ぶとは考えていなかった。でも——事前に言わなかったのは事実ね」


私は少しの間、何も言わなかった。


「怒ってる?」と真意さんが聞いた。


「……少しだけ」と言った。


「そう」と真意さんは言った。


それだけだった。謝らなかった。でも「そう」と言った。


その言い方が、否定も肯定もしない、でも聞こえていると伝える言い方だった。


「……夢幻さんが言ってました」と私は言った。「私は欲しいものじゃなくて知りたいものを見た、と」


「そうね」


「真意さんも同じだと思います」


真意さんが少し止まった。


「欲しいものがなくて、知りたいものがある、という意味では」と私は続けた。「だから調べ続けているんだと思います」


真意さんが何も言わなかった。


タイプライターを打ち始めた。


しばらく音が続いた。


「……そう、かもしれない」と、かなり後で言った。




【真意の調査記録】


**〇月×▲日**

**五日目**


夢幻ちゃんの介入を確認。

助手の夢への侵入:あり。

助手の夢の内容:残存確認。助手本人から聴取。


助手が見たもの:懺悔ちゃん、空無ちゃん、憂起ちゃん、万寿ちゃんの「内側」。


夢幻ちゃんが鏡を向けた結果、助手はこれまで会ったことがあるクルーの「知りたかった部分」を見た。欲望の鏡が機能しなかった——助手の欲望が「対象への知りたい」という形をとっていたため、自分のための幻覚が生成されなかった。なお夢幻ちゃんが明言したとおり、会ったことがない子は鏡に映らない。また輪廻ちゃんは夢幻ちゃんの鏡でも砂嵐になるため、今回は映らなかった。映ったのは助手の中にあったものだけだ。


これは稀なケースだ。夢幻ちゃんの鏡が「知りたい」に反応するのは珍しい。通常は「欲しい」に反応する。


夢幻ちゃんのコメント(助手への発言として報告されたもの):

「あなたのこと、知りたいな」


これは夢幻ちゃんが興味を持った時の言い方だ。夢幻ちゃんが「知りたい」と言うのは輪廻ちゃん以外にはほとんどないと聞いている。


記録しておく。




助手が「怖いより悲しかった」と言った。


懺悔ちゃんが何を贖うかわからないまま贖い続けていることを。

空無ちゃんが内側の声を聞こうとしても聞き取れないことを。

憂起ちゃんがの感情が自分のものかわからないことを。

万寿ちゃんが愛する者達の死を待ち続けていることを。


全部、私も知っている。


知っていて——恐怖として記録していた。


助手は悲しみとして受け取った。


同じ情報が、違う感情になった。


どちらが正確か、という問いではない。見ている角度が違う。


私は調査対象として見ていた。助手は——何として見ていたのか。


「怖いより悲しい」という言い方が、頭に残っている。




助手に「調査のために眠らせた」と言った後、「少しだけ怒っている」と言われた。


「そう」と言った。謝らなかった。


謝らなかった理由を考えた。


謝ることは正確ではない、と判断したから。私は嘘をついていない。害を与えようとしていない。でも事前に伝えなかった。それは私の判断で、間違えたとは思っていない。


でも助手が「少しだけ怒っている」と言ったことを、正しいと思っている。


だから「そう」と言った。


これは謝罪ではなく、「あなたが感じたことは正確だ」という確認だ。


助手はそれを理解したと思う。何も言わなかったから。




助手が最後に「真意さんも欲しいものがなくて知りたいものがある」と言った。


「だから調べ続けている」と言った。


その観察は——正しい可能性がある。


欲しいものがない、という前提が正しいかどうかはまだわからない。


でも「知りたい」という動機は正確だ。


4層目の一文字を見た時から、止まらない。




一点だけ、記録に追加する。


助手の夢の記録を取りながら、途中で気づいたことがある。


私は今、助手が夢で見たことを記録している。


でも記録しながら——助手が悲しいと言ったクルーたちのことを、私も少し止まって考えていた。


考えることと、調査することは、違う。


今日は少し、違う方をしていた。


**備考:助手、現在生存。五日目。夢に侵入されたが残留なし——記憶は残った。残ったが害はなかった。**


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