第四話「この場所が成立している理由について」
【私の日記】
今日は真意さんが「午前中は一人でいて」と言った。
調査で上の区画に行くらしかった。私は連れていけない、とだけ言った。なぜかは教えてくれなかった。
探偵事務所に一人でいた。
壁の張り紙を眺めた。赤い糸が交差している。真意さんが毎日書き足している記録がある。字が細かくて全部は読めないが、いくつかは読めた。
「ぱんでむ設計者:不明」「設計目的:調査中」「バーガーの素材:クルー本人から採取の可能性」「4層目:アクセス不可」
読んでいるうちに、お腹が空いた。
真意さんに「食べ物を渡されても食べるな」と言われている。渡されたもの、という話だ。自分で取りに行く分はどうなのか、は聞いていなかった。
でも動く気にはなれなかった。
扉を開けたら何かに会う可能性がある。今日は一人だ。
結局、お腹を空かせたまま壁を見続けていた。
真意さんが戻ってきたのは昼過ぎだった。
「待てた?」と聞いた。
「待てました。お腹は空きました」
真意さんが少し止まった。それからポケットから何か出した。小さな包みだった。
「これは私が持っていたもの。渡された、ではなく私が持っていたもの」
受け取った。開けた。てりたまバーガーだった。小さいやつ。
「真意さんの担当バーガーですか」
「そう」
「食べていいんですか」
「食べても何も起きない。私が担当するバーガーは私自身から採取されている可能性があるけど、それはまだ確認中」
「……確認中のものを食べていいんですか」
「あなたに害が及ぶ可能性は今のところゼロよ」
「今のところ」
「今のところ」
食べた。おいしかった。普通においしかった。
「……普通においしいです」
「そう」と真意さんは言った。少し、何か考えている顔をした。
午後、外が少し騒がしくなった。
廊下から音がした。何かが爆発するような音。壁が少し揺れた。
「……何ですか」
「上の区画が崩れた」と真意さんは言った。ルーペを磨きながら、気にしていない様子で言った。
「崩れた」
「渾沌ちゃんが何かをした。よくあること」
「よくあること、なんですか」
「週に三回は何かが崩れる」
壁がまた揺れた。今度は少し長かった。
「……危なくないんですか」
「秩序ちゃんが直すから大丈夫」
「直せるんですか。崩れた宇宙を」
「直す。それが秩序ちゃんの仕事だから」
二十分後、廊下を誰かが歩く音がした。
複数の足音だった。
真意さんが立ち上がった。「少し外を見てくる」と言った。「ついてきて」
廊下に出た。
廊下の奥から、三人が歩いてきた。
先頭は、白と青の服を着た女の子だった。書類を抱えていた。表情が固かった。
その後ろを、黒いツインテールの女の子が歩いていた。少し肩を縮めていた。
一番後ろに、緑と紫の和服を着た小さい子がいた。のんびりした顔で歩いていた。
三人が私たちの前を通り過ぎようとした。
白と青の子が私を見た。一瞬だけ。それから真意さんを見た。
「真意さん。助手はまだいるんですか」
「います」と真意さんは言った。
「……わかりました。記録しておきます」と言って、また歩き出した。
黒いツインテールの子が私を見た。
「新しい子!」と言った。声が明るかった。「面白そう!(一緒に遊——)」
「姉さん」と白と青の子が前から言った。振り返りもせず言った。
ツインテールの子が口を閉じた。
「(……秩序ちゃんが怖い)」と小声で言った。聞こえていた。本人は聞こえていないと思っているらしかった。
緑と紫の小さい子が私の前で止まった。
見上げてきた。小さい子なのに、とても深い感じがした。
「……新入りじゃのう」とその子は言った。
「……はい」
「ここは怖いか」
「怖いです」
「そうじゃろ」と言って、またのんびり歩いていった。
三人が角を曲がった。
また廊下の奥から、くぐもった爆発音がした。
探偵事務所に戻ってから、私は聞いた。
「さっきの三人は何者なんですか」
「管理職」と真意さんは言った。「渾沌ちゃん、秩序ちゃん、理性ちゃん。ぱんでむの運営本部」
「管理職」
「渾沌ちゃんが店長で、秩序ちゃんが統括。理性ちゃんがトレーナーで最古参」
「……さっきの爆発は渾沌ちゃんが」
「渾沌ちゃんが面白そうだと思ったことをやると、何かが壊れる。今日は上の区画の世界線が三つ崩壊した」
「世界線が三つ」
「一日で三つは少ない方よ」
私はそれを聞いた。少ない方、という言葉が頭の中で転がった。
「……秩序ちゃんが直すんですよね」
「直す」
「毎回?」
「毎回」
「疲れないんですか」
「疲れると思うけど、やめない」と真意さんは言った。「やめたらぱんでむが終わるから」
夜になって、また廊下が騒がしくなった。
今度は怒鳴り声だった。女の子の声。
「姉さん!!」
壁越しに聞こえた。秩序ちゃんの声だと思った。
「エントロピーの増大にも限度があります!今日だけで世界線を何個潰したんですか!始末書を——」
「ひえぇ!りせちー助けてぇ!」
別の声。渾沌ちゃんだと思った。泣き声に近かった。
「よしよし、渾沌は良い子じゃ——」
理性ちゃんの声。のんびりしていた。
壁越しに三人のやりとりが聞こえてきた。しばらく続いた。
怒鳴り声が続いた。泣き声が続いた。のんびりした声が続いた。
「……あの三人は毎日こういう感じなんですか」と私は聞いた。
「毎日」と真意さんは言った。
「渾沌ちゃんが壊して、秩序ちゃんが怒って、理性ちゃんが仲裁する」
「そう」
「それが続いている」
「ずっと続いている」
壁越しに、渾沌ちゃんの声が聞こえた。泣いている。「ごめんなさい、足しびれたぁ」と言っていた。
秩序ちゃんが「もう少し正座してください」と言った。
理性ちゃんが「まあまあ」と言った。
それが続いた。
「……渾沌ちゃんは、なんで壊すんですか。毎日怒られるのに」
「面白いから」と真意さんは言った。
「ただそれだけ?」
「ただそれだけ」
「なんで秩序ちゃんは直し続けるんですか。毎日怒り続けて、疲れないんですか」
「直さないとぱんでむが終わるから」と真意さんは言った。「でもそれだけじゃないと思う」
「なぜ」
真意さんが少し間を置いた。
「秩序ちゃんは渾沌ちゃんが好きよ。隠しているけど、誰でも知っている」
「好きなのに毎日怒るんですか」
「好きだから怒る、という構造もある」
壁越しに、また声がした。秩序ちゃんが「……少し、だけ待ってください」と言った。何か飲んでいるような音がした。胃薬を飲んでいる音かもしれなかった。
「秩序ちゃんには胃薬が必要」と真意さんは言った。「渾沌ちゃんのせいで胃が痛い。でも渾沌ちゃんと秩序ちゃんの関係が崩れると、ぱんでむが成立しなくなる」
「なぜ」
「渾沌ちゃんは楽しくなければ作れない。壊すだけになる。秩序ちゃんが渾沌ちゃんを怒りながら甘やかし続けることで、渾沌ちゃんは楽しい状態が維持される。それがぱんでむの継続条件」
私はその説明を聞いた。
「……秩序ちゃんが渾沌ちゃんを甘やかすのは、好きだからじゃなくて、ぱんでむのためなんですか」
「両方」と真意さんは言った。「好きだから甘やかす、という動機とぱんでむを維持しないといけないという理由が、たまたま同じ行動を生んでいる。どちらが本当かは秩序ちゃん自身にもわからないかもしれない」
私は黙った。
壁越しに、渾沌ちゃんの声がした。正座がつらいらしかった。
秩序ちゃんが「もう少しです」と言った。さっきより少しだけ、声が柔らかかった気がした。
深夜になった。
廊下が静かになった。
「……ここは、誰かが維持しようとしているんですね」と私は言った。
「維持している」と真意さんは言った。
「渾沌ちゃんが壊して、秩序ちゃんが直して、理性ちゃんが仲裁して。それがぱんでむという場所の構造」
「そう」
「渾沌ちゃんが壊すのをやめたら?」
「ぱんでむは作られなくなる。維持だけされて、新しいものが生まれない場所になる」
「秩序ちゃんが直すのをやめたら?」
「壊れるだけで再生できなくなる。渾沌ちゃんが楽しくなくなって、壊すこともできなくなる可能性がある」
「理性ちゃんがいなくなったら?」
「二人が続けられなくなる。バランスが崩れる」
「三人がいなかったらぱんでむは?」
「存在しない」
三人の声が壁越しに聞こえていた。怒鳴り声と泣き声とのんびりした声。それが混ざっている。
私はその音を聞きながら、変な気持ちになった。
「……宇宙規模で壊れたり直したりしているのに、日常なんですね。あの三人にとっては」
「日常よ」と真意さんは言った。「ずっと続いている日常」
「怖くないんですか。ぱんでむが終わるかもしれない、って」
真意さんが少し間を置いた。
「渾沌ちゃんは怖がらない。秩序ちゃんは怖いと思っていると思う。でも怖いから直し続けている」
「理性ちゃんは」
「理性ちゃんは——」と真意さんは言いかけて、止まった。
「全部わかった上で、のんびりしているように見える。何が怖いか、全部把握しているから、今更怖がらない、という種類の存在かもしれない」
壁の向こうで、渾沌ちゃんが「わーい、正座終わった!」と言った。
秩序ちゃんが「明日また始末書を書いてください」と言った。
理性ちゃんが「三人でおやつにしようとするかの」と言った。
翌朝。
廊下で三人とまたすれ違った。
昨日と同じ順番で歩いていた。
秩序ちゃんが私を見た。
「……調子はどうですか」と聞いた。
「問題ないです」
「そうですか」と言って、また歩き出した。でも少し止まった。「……真意さんのそばにいれば、今のところは安全です。今のところは」
それだけ言って行ってしまった。
渾沌ちゃんが私の前で止まった。
「(あの子、面白そう。真意ちゃんの助手っていうのがまた——)」
「姉さん」と秩序ちゃんが前から言った。
渾沌ちゃんがまた口を閉じた。
「(……秩序ちゃんに聞こえてる……なんで……)」と言いながら歩いていった。
理性ちゃんが私の前を通り過ぎる時、立ち止まった。
「昨日の壁越しの会話、聞こえておったかの」とのんびり言った。
「聞こえていました」
「そうじゃろ」と言った。「聞こえていて、何か思ったか」
少し考えた。
「……続いているんだなと思いました」
「何が」
「三人が、ずっと続いている。壊れて直してを繰り返しながら、それでも続いている」
理性ちゃんが少し目を細めた。
「うむ」と言った。「続いていることの意味を知りたければ、もう少し長くここにいるといい」
「……帰れますか、私は」
理性ちゃんが私を見た。
しばらく何も言わなかった。
「それは真意ちゃんに聞くがよい」と言った。
「真意さんは『調べている』としか言わないんです」
「そうじゃろ」と理性ちゃんは言った。「調べているのは本当じゃから」
それだけ言って、また歩いていった。
廊下の角を曲がった。
どこかでまた何かが崩れる音がした。
どこかで秩序ちゃんが「姉さん!!」と言った。
どこかで渾沌ちゃんが「ひえぇ!」と言った。
どこかで理性ちゃんが「よしよし」と言った。
また始まった。
【真意の調査記録】
**〇月△△日**
**四日目**
渾沌ちゃんが世界線三つを崩壊させた。秩序ちゃんが修復。通常業務。
助手が三人と接触した。
渾沌ちゃん——声をかけようとして秩序ちゃんに止められた。渾沌ちゃんの「面白そう」という関心は、人を傷つけないこともある。でも渾沌ちゃんが「面白い」と思った対象に何が起きるか、予測できないことが多い。今日は接触を避けた方がよかった。
秩序ちゃん——助手に「今のところ安全」と言った。秩序ちゃんが「今のところ」という留保を使った。これは秩序ちゃんが「今後の保証はできない」と判断していることを意味する。秩序ちゃんは正確な言葉を使う。
理性ちゃん——「続いていることの意味を知りたければもう少し長くいるといい」と言った。これは「もう少し長くいる」ことを肯定している。つまり理性ちゃんの目線では、助手がもう少し長くここにいることは——問題ない、ということかもしれない。
あるいは、問題があるとわかった上で言っている可能性もある。
理性ちゃんの言葉は常に複数の意味を持つ。本来の口調は鋭いが、のじゃ口調に変換されている。変換によって何が削られているか、私には読めない。
助手に渾沌ちゃんたちの構造を説明した。
説明しながら、少し考えた。
「好きだから甘やかす」と「ぱんでむのために甘やかす」が同じ行動を生んでいる、と私は言った。
それは秩序ちゃんについての観察だ。
でも——私が助手に「あなたが困るから止めていない」と言った時。あれも、似た構造があった。
「助手が困るから」と「調査の管轄として管理する必要があるから」が、同じ行動を生んでいた。
どちらが本当かは、今日のところ保留にしておく。
助手が「帰れますか」と理性ちゃんに聞いた。
理性ちゃんは「真意ちゃんに聞くがよい」と言った。
助手が「調べているとしか言わない」と返した。
理性ちゃんは「調べているのは本当じゃから」と言った。
それは本当だ。調べている。
でも理性ちゃんが「帰れる」とも「帰れない」とも言わなかったのには、理由があると思う。
理性ちゃんは全部わかっている、という種類の存在だと私は思っている。
だとすれば——理性ちゃんが答えを言わなかったということは。
今、私が伝えられる答えが、まだない、ということかもしれない。
あるいは、伝えた場合に助手の行動が変わる可能性を考えて、保留にした、という可能性もある。
どちらの場合でも、今日私にできることは調査を続けることだ。
助手が「続いているんだなと思った」と言った。
三人が壊れて直してを繰り返しながら続いている、ということを。
その感想を聞いた時、私は少し止まった。
続いていることの意味——私も毎日見ている。見ていて、どう思っているか。
壊れて直してを繰り返しながら続いている、という構造を、私は「調査対象」として見ていた。
助手は「続いている」という事実の方を見ていた。
同じものを見て、見ている部分が違った。
これは記録しておく。意味があるかもしれない。
**備考:助手、現在生存。四日目。今日はてりたまを食べた。何も起きなかった。**




