第三話「廊下の住人たちについて」
【私の日記】
今日、真意さんに言われた。
「調査で少し遠い区画に行く。長い廊下を通るから、覚悟して」
覚悟、という言葉の使い方が不穏だった。
「……廊下を歩くだけですよね」
「廊下を歩くだけよ」と真意さんは言った。「でも廊下の横にクルーの部屋がある」
「それが問題なんですか」
「部屋から出てくることがある」
それだけ言って歩き始めた。ついていった。
最初の十分は何もなかった。
廊下が続いている。どこまでも続いている。曲がり角がある。また曲がる。また廊下。扉がある。表札がついている。表札を読む暇はない。真意さんが止まらないから。
「……ずいぶん広いですね」
「ここはまだ浅い区画」と真意さんは言った。「深い方には行かない」
深い方、という言葉もよくわからなかったが、聞かなかった。
最初に遭遇したのは、廊下の角で膝を抱えている女の子だった。
小さかった。幼稚園児くらいの見た目。白とピンクの服。ウサギ耳。壁にもたれて座っていた。
「あら」とその子は言った。顔を上げた。
おっとりした顔をしていた。全然怖くなかった。
「新しい子ね」と言った。「おいで」
かわいかった。本当に、普通にかわいかった。だから一歩、近づこうとした。
真意さんが私の腕を掴んだ。
「空無ちゃん。通るわね」
「……そう」とその子は言った。少し残念そうだった。「しんどそうな子なのに」
「この子のしんどさは私が処理するから」
「真意ちゃんが?」と空無ちゃんは言った。「うふふ」
何がおかしいのかわからなかった。
真意さんが私を引っ張って歩き続けた。空無ちゃんの前を通り過ぎた。
通り過ぎる瞬間、空無ちゃんが私を見た。
「またいつでも来ていいのよ」と言った。
笑顔だった。おっとりした笑顔だった。
なのに、なぜか——背中が寒かった。
真意さんが小声で言った。「空無ちゃんに『よしよし』してもらうと、自我が溶ける」
「……溶けるんですか」
「最終的には無になる。それ自体は苦しくないらしいけど」
「らしいけど、って」
「無になった後で本人に確認できないから」
次は、廊下の突き当たりの壁から上半身が出ていた。
「上半身が、壁から」
「憂起ちゃん」と真意さんは言った。「実体がない。壁をすり抜けられる」
上半身だけの子が私たちに気づいた。
「……あ」と言った。「新しい子?」
「そうよ」と真意さんが答えた。
「ふうん」と憂起ちゃんは言った。それだけ言って、また壁の中に戻っていった。上半身が壁の中に吸い込まれていった。
少し後で、今度は天井に足だけが出てきた。
「……足だけが天井に」
「憂起ちゃんね」
「さっきと同じ子ですか」
「同じよ。移動しているだけ」
「なんで天井に足が出るんですか」
「壁でも天井でも床でも、関係なく通り抜けられるから」
天井の足がぴくっと動いた。それからゆっくり、天井の中に戻っていった。
「……今、私のことを見ていましたか、あの子」
「たぶん。でも何もしないわ」
「なぜ」
「ダルそうにしているから」と真意さんは言った。
意味がわからなかったが、真意さんは既に歩き続けていた。
廊下の途中に、大きな扉があった。
通り過ぎようとしたら、扉が少し開いた。
においがした。甘いにおい。クッキーのにおい。フルーツのにおい。全部が混ざった、過剰に甘いにおい。
扉の隙間から、女の子が顔だけ出した。
「——罪、持ってる?」
また会った。懺悔ちゃんだ。今日の右手は昨日と違っていた。爪が短くなっていた。でも今度は左手が——指の数が多かった。七本あった。
「懺悔ちゃん」と真意さんが言った。「今日は何を食べたの」
「孤独」とのんびりした声で言った。「あと、怠惰。怠惰は少し苦かった」
「左手は」
懺悔ちゃんが自分の左手を見た。「今日食べた孤独の形かな」と言った。「孤独って、指が増える形をしてることが多いから」
「そう」と真意さんは言った。「この子は私の管轄だから、今日は関係ない」
「そっか」と懺悔ちゃんは言った。「わかった。でも——」
扉の隙間から、私をじっと見た。
「この子、今日、怖いって思ってる。怖いってわりと罪に近い形してることがあるから、気になって」
「後で私が確認する」
「うん」と懺悔ちゃんは言った。扉が閉まった。
廊下を歩きながら、私は自分が怖いと思っていることに気づいた。怖いことが「罪に近い形」というのが、どういう意味かはわからなかった。
「……怖いと思うことは、罪なんですか」
「懺悔ちゃんの感知は比喩よ」と真意さんは言った。「怖いという感情のエネルギーが、罪のエネルギーと似た質感をしているということだと思う」
「食べられますか、私のそれは」
真意さんが少し止まった。
「食べられるかもしれない。だから管轄、と言った」
管轄という言葉がそういう意味だとは思っていなかった。
次の廊下に差し掛かった時、向こうから女の子が歩いてきた。
鎌を持っていた。
紺と紫の服。静かな顔。歩き方がきれいだった。きれいな歩き方で、鎌を持って、こちらに歩いてきていた。
真意さんが少し速度を落とした。
女の子が真意さんを見た。それから私を見た。
「……新しい子」と言った。静かな声だった。「死に方、もう決まってる?」
「まだ帰す予定の子よ」と真意さんは言った。
「そう」と女の子は言った。少し考えている顔だった。「……惜しいわ。死に顔、きれいになりそうなのに」
「万寿ちゃん、通るわね」
「ええ」と万寿ちゃんは言った。鎌を持ったまま、廊下の端に寄ってくれた。
通り過ぎる時、万寿ちゃんが私を見ていた。
「……美しいわ」と言った。「今の顔」
今の顔が何の顔か、私にはわからなかった。たぶん恐怖の顔だったと思う。
「……ありがとうございます」とつい言ってしまった。
言った瞬間に後悔した。でも万寿ちゃんは「うふふ」と言っただけで、行ってしまった。
「……万寿ちゃんは何者なんですか」
「ネクロマンサー」と真意さんは言った。「死体を保存して眷属にする。死に顔に美学を持っている。あなたが死んだら高確率でコレクションにしようとするわ」
「……さっきのは、死に顔が美しくなりそう、という意味だったんですか」
「そうよ」
しばらく黙った。
「……真意さんはコレクションにされないんですか」
「私の死に方は決まっていないから」と真意さんは言った。「万寿ちゃんの『死期の視認』に引っかからない」
「死期の視認、というのは」
「目の前の存在がいつどう死ぬかが見える能力」
「……万寿ちゃんには私の死期が見えた」
「見えたんでしょうね」
「教えてくれませんでしたね」
「聞きたかった?」
聞きたくなかった。黙った。
しばらく歩いて、廊下が少し暗くなった区画に入った。
においが変わった。湿った、古い木のにおいがした。お線香のにおいがした。
扉がある。表札が「忌中」と書いてある。
「通過するだけよ」と真意さんが言った。
その扉の前を通り過ぎようとした時、扉が少し開いた。
光がない。中が暗かった。
でも——見えた。
畳が腐っていた。壁に人形が並んでいた。人形が全部こちらを向いていた。天井の隅に——何かがいた。人の形をしていたが、天井に張り付いていた。
その何かが、ゆっくりこちらを向いた。
「……後ろ、気をつけて」
声がした。
低い声だった。女の子の声だった。
扉が閉まった。
私は前を向いたまま、後ろを振り返れなかった。
「……今の声は」
「幽玄ちゃん」と真意さんは言った。「ホラー担当。首輪を見たでしょう」
「見ました」
「首輪の中に封印された霊の声が聞こえる。その声の中の一つが『後ろ、気をつけて』と言い続けていて、幽玄ちゃんはそれをそのまま繰り返す」
「……後ろ、気をつけて、とは」
「文字通りよ」
「後ろに何かいますか」
「今は何もいない」
「今は」
「今は」と真意さんはもう一度言った。
私はそれ以上聞かなかった。前だけを見て歩いた。
廊下の先に、別の扉があった。
扉ではなかった。扉の形をしていたが、開けると水槽だった。水槽の中に廊下が続いていた。水の中に廊下がある。
「……水槽ですか、これは」
「冥理ちゃんの区画に近い」と真意さんは言った。「空間が歪んでいる。気にしないで」
「水の中の廊下を歩くんですか」
「水は濡れない」
「濡れないんですか」
「冥理ちゃんの空間では物理法則が参考程度にしか機能しない」
水の中の廊下に踏み込んだ。濡れなかった。息ができた。重力の方向が少し違った。斜め下に落ちていく感じがした。
「……床が斜めです」
「慣れて」
慣れた。歩いた。水の中を、斜めの重力で、廊下を歩いた。
途中で、ドアが一つあった。ドアの向こうに池があった。池の中に図書館があった。図書館の中に小さい炎が浮かんでいた。炎が本を読んでいた。
「……炎が本を読んでいますね」
「本を燃やしている可能性もある」と真意さんは言った。「どちらかは確認していない」
水の廊下を抜けたら、また普通の廊下に戻った。床が普通の水平になった。
「……今の区画は何でしたか」
「冥理ちゃんが空間を改修した区画。トリックアートの迷宮と呼ばれている」
「冥理ちゃんというのは」
「マジシャン。物理法則を手品の舞台装置として扱う。今通った水中廊下も、本人は手品のつもりで作ったと言っていた」
「……手品で水中廊下が作れるんですか」
「あの子にとっては手品よ」
それ以上どう反応すればいいかわからなかった。
一番端の廊下まで来た。
突き当たりに扉があった。「実験室」と表札がある。
扉の前に、女の子が倒れていた。
倒れている——というか、崩れていた。右腕がなかった。左足の膝から下がなかった。首が少し、変な方向を向いていた。
死んでいるのかと思った。
「輪廻ちゃん」と真意さんが言った。「起きてる?」
崩れていた子が、ゆっくり顔を上げた。
「あ」と言った。のんびりした声だった。「真意ちゃん。また死んじゃった、てへ」
「今の状態で意識があるの」
「あるよ。でも腕と足が廊下の向こうまで飛んでったから回収しないといけない」
「何で死んだの」
「厨房で鍋が爆発した。今日三回目」
三回目、という言葉を聞いた時、私は何かが頭の中でずれた気がした。
「三回目、なんですか」と聞いた。
輪廻ちゃんが私を見た。赤と緑のオッドアイだった。髪が蛇か触手みたいに動いていた。
「新しい子?」と言った。
「助手よ」と真意さんが答えた。
「そっか。」と輪廻ちゃんは言った。「あ、腕が戻ってきた。よかった」
廊下の向こうから、腕が床を這って戻ってきた。輪廻ちゃんの切断面に、腕がくっついた。音がした。接合する音がした。
「……今のは」
「再生よ」と真意さんは言った。「輪廻ちゃんはバラバラになっても死なない。細胞一個でも残れば再生できる」
「今日三回死んで三回再生したんですか」
「そうなるわね」
輪廻ちゃんが起き上がった。左足がまだなかった。でも気にしていなかった。
「調査ですか?」と輪廻ちゃんは真意さんに聞いた。
「ええ」
「いいなあ」とのんびり言った。「わたしも来たかった。でも今日もう死ぬかも」
「なぜ」
「左足がまだ見つかってないから、探しに行かないといけないけど、足がないから見つけに行くのが大変で、歩いてたらまた何かにぶつかって死ぬかもしれない」
「……なぜ笑っているんですか」と私は聞いた。
輪廻ちゃんが私を見た。
「笑ってますか?」
「笑っています」
「まあいっか、って思ってるから」と輪廻ちゃんは言った。「また死んでも再生するし」
「……また死んでも再生する、ということに恐怖はないんですか」
「ないよ。慣れた」
慣れた、と言った。
三回死んだ今日に慣れた、という顔をしていた。本当に何も感じていない顔だった。
それが一番、怖かった。
調査区画に着いた。
真意さんがルーペを出して、壁のタグを読み始めた。私は少し離れたところに立って、今日会った子たちのことを頭の中で並べた。
自我が溶ける子。壁を通り抜ける子。七本指になる子。死に顔を集める子。天井に張り付いている何かがいる子。水中廊下を作る子。三回死んで気にしていない子。
全員、笑顔だった。全員、普通に話しかけてきた。全員が危険で、全員が本当に危険で、全員が自分の状態を何とも思っていなかった。
「……真意さん」
「何?」
「この場所にいるクルーは、全員こんな感じなんですか」
真意さんがルーペから目を離して、少し考えた。
「大体そうね」と言った。「慣れているから、自分が異常だと思っていないクルーが多い」
「真意さんは」
「私は異常だと思っている」と言った。「だから調べている」
「自分が異常だと思って、怖くないんですか」
真意さんがルーペをポケットにしまった。
「怖いから調べているのよ」と言った。「わからないものは止められない。わからないものの中にいるのは、もっと怖い」
「……でも、調べても全部はわからないんじゃないですか」
「そうね」と真意さんは言った。「それでも、わかる分だけわかった方がいい」
それは正論だった。でも正論が慰めにならない種類の正論だった。
「……私、帰れますか」
真意さんが私を見た。
少し間があった。
「調べているわ」とだけ言った。
帰り道も同じ廊下を通った。
幸い、輪廻ちゃん以外のクルーには会わなかった。
でも「忌中」の扉の前を通り過ぎる時、また声がした。
「後ろ、気をつけて」
今度は振り返った。
廊下には何もいなかった。
それが、何もいないことより少し、怖かった。
【真意の調査記録】
**〇月××日**
**三日目**
廊下の移動中に以下のクルーと接触。
空無ちゃん——「よしよし」を申し出た。阻止。
憂起ちゃん——天井移動を確認。助手への干渉なし。
懺悔ちゃん——「怖い」という感情を「罪に近い形」として感知した。これは精査が必要。助手の感情の質が懺悔ちゃんの感知に引っかかるほどの強度を持っているということ。
万寿ちゃん——助手の死期を視認した模様。「死に顔が美しくなりそう」という言及あり。死期の内容は不明。確認の方法もない。
幽玄ちゃん——「後ろ、気をつけて」。首輪の中の声。通常の挨拶に近い。ただし今日の声は少し音量が大きかった。
冥理ちゃん区画——水中廊下を通過。問題なし。助手が「水の中に床がある」ことに対して混乱したが、通過後に回復した。適応が早い。
輪廻ちゃん——廊下で三回目の死後状態で発見。腕再生を目撃させてしまった。
今日の助手の反応について:
空無ちゃんへの「近づきたい」という衝動——正常な反応。空無ちゃんの引力場は一般人に対して強く作用する。
懺悔ちゃんへの反応——怖いと思いながら、怖いという感情に気づいていた。自己認識が正常。
万寿ちゃんの「美しい」という言葉に「ありがとうございます」と返した——予想外だった。恐怖しながらも礼を言う判断をした。おそらく反射的なものだが、この判断は結果的に良かった。万寿ちゃんが「うふふ」と言っただけで終わったのは、この一言で助手への興味が「コレクション対象」から「会話対象」に少し移動したからだと推測される。
輪廻ちゃんを見て「それが一番怖かった」と言った——正確な判断だ。
慣れている者の無感覚は、見慣れていない者には正確に異常として映る。
助手の感受性はぱんでむの異常を正確に怖がっている。これは希少なことで、同時に危険なことでもある。
正確に怖がれる者は、正確に消耗する。
今日の助手が消耗していないか、明日の朝に確認する。
今日の調査結果については別ファイルに記録する。
ここには一点だけ書く。
壁のタグを読んだ。
一層目から三層目は通常通り。
四層目——今日は読もうとしなかった。
理由:助手が疲れていた。
四層目を読んでルーペが割れると、その音で助手が反応する。今日は余分な刺激を与えない方がいいと判断した。
これは調査の遅延だ。
正当な理由がある遅延と、そうでない遅延の境界が、今日少し曖昧になった。
記録しておく。
**備考:助手、現在生存。廊下を通過した。三日目。**




