表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/12

第二話「ここにいる人たちについて」

【私の日記】


昨日から、探偵事務所に泊まっている。


帰れないから仕方がない。真意さんが「今夜は動かない方がいい」と言った。理由は教えてくれなかった。でも顔を見たら、理由を聞く気がなくなった。


床にブランケットを敷いてくれた。枕もあった。


「用意してあったんですか」と聞いたら、「前にも同じことがあった」と言った。それだけだった。


前にも。


ということは、私が初めてではないらしい。


前に来た人は帰れたのか、と聞きたかった。でも聞けなかった。夜中に聞く話じゃない気がした。




朝になった。


真意さんはすでに起きていた。タイプライターの前に座って、何かを打っていた。


「おはようございます」と言ったら、「起きたの」と言った。振り向かなかった。


「はい」


「今日、少し動く。ついてきて」


「はい」


それだけだった。


朝食はなかった。お腹が空いた。でも「食べ物を渡されても食べるな」と言われているので、何も言わなかった。




廊下に出た。


昨日よりにおいがした。バーガーのにおいがする。どこからか聞こえる音がある。声のようなもの。音楽のようなもの。複数の方向から来ている。


「……ここ、広いんですか」と私は聞いた。


「無限に近い」と真意さんは言った。「正確に測定できたことがない」


「無限」


「今いる区画だけで、おそらく渋谷区全体より広い」


渋谷区全体、という言葉が頭で処理されるのに少し時間がかかった。


「……何がある、んですか」


「クルーの部屋。フロア。厨房。ダンジョン。廃棄区画。その他」


「ダンジョン」


「今日は近づかない」


近づかない、という言い方だった。存在はある、ということだ。


聞きたいことが増えたが、歩きながら全部聞けそうになかったので、一つだけにした。


「クルーは何人いるんですか」


「三十人以上」


「全員……ここで生活してるんですか」


「している」


「……危ない人は、何人くらい」


真意さんが少し間を置いた。


「全員」とその子は言った。




廊下の角で、何かの気配がした。


真意さんが止まった。私も止まった。


角の向こうから、声がした。


「——罪、ある?」


真意さんが私の前に出た。


角から、女の子が現れた。


ぼんやりした顔をしていた。どこを見ているかわからない目だった。でも確かに私の方を向いていた。


右手がおかしかった。


毛が生えていた。爪が長かった。指の関節の数が——多かった。それが手だと認識するまで少し時間がかかった。


「懺悔ちゃん」と真意さんが言った。「この子は私の管轄ね」


「でも罪があるよ」とその子は言った。のんびりした声だった。「感じる。罪のにおい」


「後で私が処理する」


「真意ちゃんが食べるの?」


「処理する、と言ったわ」


懺悔ちゃんが少し考えた。それから「そっか」と言って、廊下を戻っていった。


真意さんが振り返った。「怪我はない?」


「……あの子の右手が」


「懺悔ちゃんは罪を食べる」と真意さんは言った。「食べた罪の形が身体に出る。今日の手は暴力の罪を食べた後。昨日の手とは違う形をしているはずよ」


「毎日、変わるんですか」


「食べるものによって変わる」


私は自分の手を見た。


「……私の罪を食べたら、どうなりますか」


真意さんが少し止まった。


「今日はここまで」と言った。




フロアの前を通った。


扉のガラス越しに中が見えた。


昨日私を出迎えたカウンターの子がいた。客の対応をしていた。笑顔だった。客も笑顔だった。普通の、ファストフード店の光景に見えた。


客がダブルチーズバーガーを食べていた。


「あの客の人は」と私は聞いた。「帰れますか」


真意さんがガラスの向こうを一瞬見た。


「ダブルチーズバーガーを食べたら、南の出口を出た瞬間に写真になる」


「写真に」


「妄執ちゃんの個室の壁に貼られる。七百万枚以上、すでにいる」


「七百万人が」


「写真の中で生活している。幸せそうにしている」


幸せそう、という言葉が引っかかった。


「幸せそう、というのは」


「笑顔で手を振る。居心地がいいと言う。帰りたいと思っていない」


「でもそれは」


「知らないから、という可能性がある」と真意さんは言った。「自分が写真の中にいることを知らないまま、幸せな人がいる」


「……知っていたら」


「知っていて幸せな人もいるかもしれない。それが一番、どう判断すればいいかわからない」


ガラスの向こうで、客が最後の一口を食べた。


「止めないんですか」と私は聞いた。


真意さんが私を見た。


「私が止めたら、妄執ちゃんが私を管轄から外す。そうしたら——」と言って、少し間を置いた。「あなたが困る」


あなたが困る。


私のために、止めていない、ということだった。


「……私がいなかったら、止めましたか」


真意さんが少し、違う方向を向いた。


「今日はここまで」と言った。




探偵事務所に戻ってから、真意さんがタイプライターで何かを打った。


私は壁の張り紙を眺めた。全部、調査記録らしかった。数字と名前と疑問符が混ざっている。赤い糸が複数の張り紙をつないでいる。中央に向かって収束している。中央の一枚だけ、何も書いていない白紙だった。


「……あの白紙は」と聞いた。


「まだ書けていないもの」と真意さんは言った。


「何を書く予定の紙ですか」


「わかった時に書く」


「何がわかったら」


タイプライターが止まった。


「ぱんでむが何のために作られたか」と真意さんは言った。「それがわかった時に書く」


「……わかりそうですか」


「一文字だけ、わかった」


「一文字」


「ルーペが割れた時に、一瞬見えた。その一文字から毎日調べている」


一文字から逆算して、全体を推理している、ということだった。


私はもう一度、白紙を見た。


「……怖くないんですか」とつい言ってしまった。「わかったら」


真意さんが少し考えた。


「怖いかどうかより、知りたい」とその子は言った。


それが全部の答えだった。




夜になった。


廊下の向こうから、複数の声が聞こえた。


「……あの声は」


「写真の中の人の声が、壁から漏れている」と真意さんは言った。「妄執ちゃんの個室の方向ね。今日来た人たちの声がもう混ざっている」


「あの声の人たちは、今日来た人たちなんですか」


「昨日来た人も、三年前に来た人も、みんないる。七百万人分の声が重なっている。今夜は少し多い。昼間に何人か来たから」


七百万人分の声が、壁を通して届いている。


私は聞いた。


楽しそうな声だった。


穏やかな声だった。


怖がっていない声だった。


「……幸せそう」と私は言った。


「そう」と真意さんは言った。


「それが問題なの」




【真意の調査記録】


**〇月△日**

**二日目**


助手、生存確認。


午前中、廊下で懺悔ちゃんと接触。介入により問題なし。


懺悔ちゃんの今日の獣化部位——右手(暴力の罪)、右肩付近に毛(孤独の罪)。

今日だけで二種類の重い罪を処理している。

懺悔ちゃんは止まらない。客がいる限り食べ続ける。止まったら客の罪がそのまま客の中に残るから、と言う。


その判断は正しい。

正しいまま、懺悔ちゃんはどんどん獣に近づいている。

正しさが、壊していく。


これはぱんでむのどのクルーにも共通していることかもしれない。




フロア前を通過。

助手が「止めないんですか」と聞いた。


答えた。「あなたが困るから」


正確には半分だけ正しい。


もう半分は——私がここにいる限り、私には止める権限がない。

止める権限を持つのは秩序ちゃんか渾沌ちゃんだ。

私は調査担当だ。調査担当が判断するのは「何が起きているか」であって「止めるかどうか」ではない。


でも助手に「権限がないから」と言うのは、正確だが助手にとって意味がない情報だ。

「あなたのために止めていない」の方が、助手の行動に影響しない。


この判断が正しかったかどうかは、後でわかる。




妄執ちゃんの個室からの声が今夜も届いている。

今日は七人分、新しく加わった。


七人の声が七百万の声に混ざって、同じ声になっていく。


「また来たい」

「ここが好き」

「居心地がいい」


全員、本当にそう思っている。

本当にそう思っているから、なおさら——


何も書けない。




助手が壁の白紙について聞いた。


「ぱんでむが何のために作られたか、わかった時に書く」と答えた。


「怖くないですか」と助手が聞いた。


怖いかどうかより、知りたい、と答えた。


これも半分だけ正しい。


もう半分は——怖いから、知りたい。

わからないものは止められない。

止められないものに、助手が飲み込まれる可能性がある。


白紙のままにしておく理由は、まだわかっていないからだ。

わかってしまったら、書かなければならない。

書いたら——その先に何があるか。


それが、少しだけ、怖い。


少しだけ。


**備考:助手、現在生存。二日目。**


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ