第二話「ここにいる人たちについて」
【私の日記】
昨日から、探偵事務所に泊まっている。
帰れないから仕方がない。真意さんが「今夜は動かない方がいい」と言った。理由は教えてくれなかった。でも顔を見たら、理由を聞く気がなくなった。
床にブランケットを敷いてくれた。枕もあった。
「用意してあったんですか」と聞いたら、「前にも同じことがあった」と言った。それだけだった。
前にも。
ということは、私が初めてではないらしい。
前に来た人は帰れたのか、と聞きたかった。でも聞けなかった。夜中に聞く話じゃない気がした。
朝になった。
真意さんはすでに起きていた。タイプライターの前に座って、何かを打っていた。
「おはようございます」と言ったら、「起きたの」と言った。振り向かなかった。
「はい」
「今日、少し動く。ついてきて」
「はい」
それだけだった。
朝食はなかった。お腹が空いた。でも「食べ物を渡されても食べるな」と言われているので、何も言わなかった。
廊下に出た。
昨日よりにおいがした。バーガーのにおいがする。どこからか聞こえる音がある。声のようなもの。音楽のようなもの。複数の方向から来ている。
「……ここ、広いんですか」と私は聞いた。
「無限に近い」と真意さんは言った。「正確に測定できたことがない」
「無限」
「今いる区画だけで、おそらく渋谷区全体より広い」
渋谷区全体、という言葉が頭で処理されるのに少し時間がかかった。
「……何がある、んですか」
「クルーの部屋。フロア。厨房。ダンジョン。廃棄区画。その他」
「ダンジョン」
「今日は近づかない」
近づかない、という言い方だった。存在はある、ということだ。
聞きたいことが増えたが、歩きながら全部聞けそうになかったので、一つだけにした。
「クルーは何人いるんですか」
「三十人以上」
「全員……ここで生活してるんですか」
「している」
「……危ない人は、何人くらい」
真意さんが少し間を置いた。
「全員」とその子は言った。
廊下の角で、何かの気配がした。
真意さんが止まった。私も止まった。
角の向こうから、声がした。
「——罪、ある?」
真意さんが私の前に出た。
角から、女の子が現れた。
ぼんやりした顔をしていた。どこを見ているかわからない目だった。でも確かに私の方を向いていた。
右手がおかしかった。
毛が生えていた。爪が長かった。指の関節の数が——多かった。それが手だと認識するまで少し時間がかかった。
「懺悔ちゃん」と真意さんが言った。「この子は私の管轄ね」
「でも罪があるよ」とその子は言った。のんびりした声だった。「感じる。罪のにおい」
「後で私が処理する」
「真意ちゃんが食べるの?」
「処理する、と言ったわ」
懺悔ちゃんが少し考えた。それから「そっか」と言って、廊下を戻っていった。
真意さんが振り返った。「怪我はない?」
「……あの子の右手が」
「懺悔ちゃんは罪を食べる」と真意さんは言った。「食べた罪の形が身体に出る。今日の手は暴力の罪を食べた後。昨日の手とは違う形をしているはずよ」
「毎日、変わるんですか」
「食べるものによって変わる」
私は自分の手を見た。
「……私の罪を食べたら、どうなりますか」
真意さんが少し止まった。
「今日はここまで」と言った。
フロアの前を通った。
扉のガラス越しに中が見えた。
昨日私を出迎えたカウンターの子がいた。客の対応をしていた。笑顔だった。客も笑顔だった。普通の、ファストフード店の光景に見えた。
客がダブルチーズバーガーを食べていた。
「あの客の人は」と私は聞いた。「帰れますか」
真意さんがガラスの向こうを一瞬見た。
「ダブルチーズバーガーを食べたら、南の出口を出た瞬間に写真になる」
「写真に」
「妄執ちゃんの個室の壁に貼られる。七百万枚以上、すでにいる」
「七百万人が」
「写真の中で生活している。幸せそうにしている」
幸せそう、という言葉が引っかかった。
「幸せそう、というのは」
「笑顔で手を振る。居心地がいいと言う。帰りたいと思っていない」
「でもそれは」
「知らないから、という可能性がある」と真意さんは言った。「自分が写真の中にいることを知らないまま、幸せな人がいる」
「……知っていたら」
「知っていて幸せな人もいるかもしれない。それが一番、どう判断すればいいかわからない」
ガラスの向こうで、客が最後の一口を食べた。
「止めないんですか」と私は聞いた。
真意さんが私を見た。
「私が止めたら、妄執ちゃんが私を管轄から外す。そうしたら——」と言って、少し間を置いた。「あなたが困る」
あなたが困る。
私のために、止めていない、ということだった。
「……私がいなかったら、止めましたか」
真意さんが少し、違う方向を向いた。
「今日はここまで」と言った。
探偵事務所に戻ってから、真意さんがタイプライターで何かを打った。
私は壁の張り紙を眺めた。全部、調査記録らしかった。数字と名前と疑問符が混ざっている。赤い糸が複数の張り紙をつないでいる。中央に向かって収束している。中央の一枚だけ、何も書いていない白紙だった。
「……あの白紙は」と聞いた。
「まだ書けていないもの」と真意さんは言った。
「何を書く予定の紙ですか」
「わかった時に書く」
「何がわかったら」
タイプライターが止まった。
「ぱんでむが何のために作られたか」と真意さんは言った。「それがわかった時に書く」
「……わかりそうですか」
「一文字だけ、わかった」
「一文字」
「ルーペが割れた時に、一瞬見えた。その一文字から毎日調べている」
一文字から逆算して、全体を推理している、ということだった。
私はもう一度、白紙を見た。
「……怖くないんですか」とつい言ってしまった。「わかったら」
真意さんが少し考えた。
「怖いかどうかより、知りたい」とその子は言った。
それが全部の答えだった。
夜になった。
廊下の向こうから、複数の声が聞こえた。
「……あの声は」
「写真の中の人の声が、壁から漏れている」と真意さんは言った。「妄執ちゃんの個室の方向ね。今日来た人たちの声がもう混ざっている」
「あの声の人たちは、今日来た人たちなんですか」
「昨日来た人も、三年前に来た人も、みんないる。七百万人分の声が重なっている。今夜は少し多い。昼間に何人か来たから」
七百万人分の声が、壁を通して届いている。
私は聞いた。
楽しそうな声だった。
穏やかな声だった。
怖がっていない声だった。
「……幸せそう」と私は言った。
「そう」と真意さんは言った。
「それが問題なの」
【真意の調査記録】
**〇月△日**
**二日目**
助手、生存確認。
午前中、廊下で懺悔ちゃんと接触。介入により問題なし。
懺悔ちゃんの今日の獣化部位——右手(暴力の罪)、右肩付近に毛(孤独の罪)。
今日だけで二種類の重い罪を処理している。
懺悔ちゃんは止まらない。客がいる限り食べ続ける。止まったら客の罪がそのまま客の中に残るから、と言う。
その判断は正しい。
正しいまま、懺悔ちゃんはどんどん獣に近づいている。
正しさが、壊していく。
これはぱんでむのどのクルーにも共通していることかもしれない。
フロア前を通過。
助手が「止めないんですか」と聞いた。
答えた。「あなたが困るから」
正確には半分だけ正しい。
もう半分は——私がここにいる限り、私には止める権限がない。
止める権限を持つのは秩序ちゃんか渾沌ちゃんだ。
私は調査担当だ。調査担当が判断するのは「何が起きているか」であって「止めるかどうか」ではない。
でも助手に「権限がないから」と言うのは、正確だが助手にとって意味がない情報だ。
「あなたのために止めていない」の方が、助手の行動に影響しない。
この判断が正しかったかどうかは、後でわかる。
妄執ちゃんの個室からの声が今夜も届いている。
今日は七人分、新しく加わった。
七人の声が七百万の声に混ざって、同じ声になっていく。
「また来たい」
「ここが好き」
「居心地がいい」
全員、本当にそう思っている。
本当にそう思っているから、なおさら——
何も書けない。
助手が壁の白紙について聞いた。
「ぱんでむが何のために作られたか、わかった時に書く」と答えた。
「怖くないですか」と助手が聞いた。
怖いかどうかより、知りたい、と答えた。
これも半分だけ正しい。
もう半分は——怖いから、知りたい。
わからないものは止められない。
止められないものに、助手が飲み込まれる可能性がある。
白紙のままにしておく理由は、まだわかっていないからだ。
わかってしまったら、書かなければならない。
書いたら——その先に何があるか。
それが、少しだけ、怖い。
少しだけ。
**備考:助手、現在生存。二日目。**




