第20話「返事を保留したことについて」
【私の日記】
帰ってきてから、二十六日目。
午後三時。
同僚が封筒を持ってきた。
白い。
名前はない。
「これ、どうする?」
「何ですか」
「真意さんに預かったやつ」
私は封筒を見た。
「私に?」
「いや。真意さんから」
少し変だった。
真意さんはいる。
ここにいる。
だから、直接聞けばいい。
「本人に聞けばいいと思います」
「聞いた」
「なんて?」
「『今は決められない』って」
私は封筒を裏返した。
何もない。
「中身は?」
「知らない」
「開けてないんですか」
「預かっただけだから」
同僚は封筒を机に置いた。
「今日中に返事がいるんだけど」
「誰から?」
「それも分からない」
私は封筒を見た。
端に、小さな青い印があった。
見覚えがある気がした。
でも、確信はない。
「昔の記録を見れば分かるかもしれません」
言ってから。
嫌になった。
また。
過去。
真意さんの記録。
私が知らないこと。
知れば、近づく。
「見なくていいです」
私は言った。
「え?」
「返事を待ちましょう」
同僚は時計を見た。
「四時までなんだけど」
「……そうですか」
封筒は机の上に残った。
三十分。
誰も触らなかった。
四時十分。
同僚が戻ってきた。
「もういいって」
「何がですか」
「相手、今日じゃなくてもいいって」
「よかったです」
「よくない」
同僚は椅子に座った。
「今日なら間に合ったのに」
私は何も言えなかった。
「何だったんですか」
「異動前の人が、預けてたもの」
「それだけ?」
「たぶん」
私は封筒を見た。
青い印。
同僚が言った。
「前の真意さんなら知ってたと思う」
胸の奥が少し硬くなった。
「今の真意さんは?」
「分からないって」
そうだった。
分からない。
それは、悪い答えではない。
でも。
分からないまま誰かの時間を使うこともある。
私は封筒を持った。
「少しだけ調べます」
同僚が顔を上げた。
「いいの?」
「はい」
「嫌じゃない?」
「嫌です」
「じゃあ」
「でも、今は必要です」
私は端末を開いた。
検索欄。
《青印 預かり》
結果は多かった。
《旧備品》
《返却》
《個人保管》
《未処理》
全部は見ない。
日付を絞る。
異動前。
一件。
《青印の封筒は、返却不要。本人が必要とした時のみ開封。》
私は止まった。
「これですか?」
同僚が読む。
「たぶん」
また、その言葉。
「でも、開けちゃだめなんじゃない?」
「そうですね」
「じゃあ調べる意味ないじゃん」
「あります」
私はもう一行を見る。
《保管者:真意》
その下。
《代理保管可》
「真意さんに聞いてきます」
私は立った。
今度は。
自分で決めなかった。
【真意の記録】
夜。
助手が来た。
「封筒のこと?」
「はい」
私は驚かなかった。
昼に同僚から連絡があったから。
「開けてないよ」
「分かってます」
「どうして?」
「記録を見ました」
私は少し黙った。
「……見たんだ」
「必要なところだけ」
「何が書いてあった?」
「保管者が真意さん。代理保管可」
「それだけ?」
「それだけです」
私は封筒を見た。
「中身、私も知らない」
「はい」
「じゃあ、どうする?」
助手は答えなかった。
封筒を机に置いた。
「返事は明日でもいいそうです」
「うん」
「今日、間に合わせられませんでした」
「そう」
「すみません」
「助手が謝ることじゃないよ」
少し考えて。
「でも、最初に調べていれば、返事だけは早くできました」
「そうだね」
私は言った。
「でも、調べなかった理由も分かる」
助手が顔を上げる。
「分かりますか」
「分かるよ」
「真意さんだから?」
「それもある」
私は封筒を指で押さえた。
「私の記録を見ることで、助手が私に近づくのが怖いんでしょう」
「はい」
「でも今日、助手は記録を見た」
「はい」
「近づいた?」
助手は少し考えた。
「分かりません」
私は笑った。
「じゃあ、まだ分からないでいい」
白紙を見る。
何も出ていない。
それが少し嬉しかった。
「ただ」
助手が言った。
「調べることを、真意さんになることと同じにしない方がいいのかもしれません」
私は黙った。
それは。
今日初めて聞いた言葉だった。
「どうして?」
「今日、記録に助けてもらったから」
「私の記録に?」
「はい。でも、私が選んだのは、どこまで見るかでした」
私は封筒を見た。
開けない。
でも捨てもしない。
「じゃあ、次も選んで」
「何を?」
「見るかどうか」
「毎回?」
「毎回」
助手は少し笑った。
「面倒ですね」
「うん」
「たぶん、そうします」
私は白紙へ一行だけ書いた。
《調べることは、戻ることではない。》
少し考えて。
消した。
まだ早い。
代わりに。
《今日、助手は記録を使った。》
そこまで残した。
封筒は、まだ開いていない。
明日。
誰かが開けるかもしれない。
開けないかもしれない。
今は。
その選択が残っている。




