第21話「覚えていない約束について」
【私の日記】
帰ってきてから、二十七日目。
朝。
知らない人に、
「久しぶり」
と言われた。
私は返事ができなかった。
相手は笑っていた。
五十歳くらい。
右手に紙袋。
左手に傘。
雨は降っていない。
「やっぱり忘れてる?」
「すみません」
「謝らなくていいよ」
その人は。
私の机の前まで来た。
迷わなかった。
「真意さん、いる?」
「います」
「あなたじゃなくて」
そこで。
少しだけ困った顔をした。
「……いや。あなたも真意さんなのか」
私は何も言わなかった。
「もう一人の方」
「呼んできます」
立とうとすると。
止められた。
「待って」
紙袋が机に置かれた。
中から。
小さな缶が出てきた。
青い蓋。
傷が一つ。
「これ、覚えてる?」
「覚えていません」
「即答だね」
「分からないので」
「そっか」
相手は缶を開けた。
中には。
飴が三つ。
黄色。
赤。
透明。
「昔、真意さんに助けてもらった」
私は黙った。
「大したことじゃないよ」
その人は言った。
「大したことじゃなかったから、助かった」
意味が分からなかった。
聞こうとした。
やめた。
昨日なら。
記録を調べたかもしれない。
今日は。
本人がいる。
「何をしたんですか」
「毎週、ここで昼飯食ってくれた」
「それだけ?」
「それだけ」
その人は笑った。
「妻が死んでから、家で一人で飯食うのが嫌でさ」
私は。
缶を見る。
「真意さんは?」
「黙って食ってた」
「会話は?」
「ほとんどしない」
「それで助かったんですか」
「うん」
分からなかった。
でも。
分からないままで。
少し分かった。
「今日もですか」
「そのつもりだった」
時計を見る。
十一時四十八分。
「約束していたんですか」
「毎週水曜」
今日は水曜だった。
「何時に?」
「十二時」
「何を?」
「飯を食う」
「いつまで?」
「決めてない」
私は。
また答えられなくなった。
◇
真意さんを呼んだ。
相手は。
真意さんを見ると。
少しだけ安心した顔をした。
「久しぶり」
「……久しぶり?」
「覚えてない?」
「ごめん。分からない」
「二人ともか」
笑った。
でも。
今度は少しだけ違った。
「じゃ、しょうがないな」
紙袋を持つ。
帰ろうとした。
私は聞いた。
「帰るんですか」
「約束した相手が覚えてないならね」
真意さんが言った。
「待って」
相手が止まる。
「記録を調べれば、たぶん分かる」
昨日と。
同じ言葉だった。
でも。
昨日とは違った。
私は真意さんを見る。
真意さんも。
私を見る。
「調べますか」
私が聞いた。
「私は、見てもいいと思ってる」
「はい」
「助手は?」
「私は」
少し考えた。
「見なくてもいいと思います」
相手が笑った。
「意見割れたね」
「はい」
「じゃ、どうする?」
私は答えなかった。
真意さんも答えなかった。
相手が時計を見る。
十一時五十四分。
「六分あるよ」
「何がですか」
「約束の時間まで」
◇
十二時。
三人で。
店の端の席に座った。
真意さん。
知らない人。
私。
「なんで三人?」
相手が聞いた。
「私も分かりません」
私は答えた。
真意さんが。
紙袋を見る。
「お昼、それ?」
「うん」
「私たちは?」
「知らないよ」
真意さんが私を見る。
「買ってこようか」
「私が行きます」
「なんで?」
「今、何もしてないので」
「私もしてないよ」
「では、一緒に行きますか」
「行く」
相手が笑った。
「そこから?」
「何がですか」
「毎週ここで食べてた真意さんは、絶対に席を立たなかった」
私たちは。
止まった。
◇
「じゃあ、座りますか」
私が聞いた。
真意さんは。
少し考えた。
「嫌」
「私もです」
「じゃ買いに行こう」
「はい」
相手は声を出して笑った。
「変わったなあ」
私は振り返った。
「誰がですか」
笑い声が止まった。
相手は。
答えなかった。
◇
三人分を買った。
戻る。
相手はまだいた。
「帰らなかったんですね」
「十二時だから」
四人分の席に。
三人で座る。
食べる。
最初の一分。
誰も喋らなかった。
二分。
相手が言った。
「前と同じだ」
真意さんが聞く。
「何が?」
「静かなとこ」
「それだけ?」
「それがよかったんだよ」
また食べる。
三分。
真意さんが。
ソースを服に落とした。
「あ」
私は紙ナプキンを渡した。
「ありがとう」
「前の真意さんも、よくこぼしてた」
相手が言った。
真意さんが。
手を止めた。
私は。
自分の紙ナプキンを見る。
渡したことを。
少し後悔した。
理由は。
分からなかった。
◇
食べ終わった。
相手は缶から。
黄色い飴を一つ取った。
真意さんへ差し出す。
「いつもの」
真意さんは受け取らなかった。
「ごめん。それは分からない」
「黄色、好きだったよ」
「そうなんだ」
「食べない?」
真意さんは。
私を見る。
見ないでほしかった。
だから。
私は窓を見た。
しばらくして。
缶の音がした。
真意さんは取らなかった。
「今日はいい」
「そっか」
相手は。
黄色い飴を缶へ戻した。
◇
帰る前。
その人が聞いた。
「来週も来ていい?」
真意さんは答えなかった。
私も。
答える必要はないと思った。
でも。
相手は私も見ていた。
「私にも聞いてますか」
「うん」
「どうして?」
「今日、あなたもいたから」
困った。
今日。
私は。
昔の約束を知らなかった。
昼食の理由も。
黄色い飴も。
知らなかった。
でも。
今日ここで食べたことは知っている。
「来週」
私は言った。
「私は、いるか分かりません」
「うん」
「真意さんも、分かりません」
「うん」
「でも、来てもいいと思います」
相手は少し笑った。
「約束?」
私は首を振った。
「今日の返事です」
「来週のこと聞いたんだけど」
「来週になったら、もう一度聞いてください」
「面倒だな」
「たぶん」
その人は。
缶を机に置いた。
「じゃ、これは置いてく」
「いいんですか」
「来週取りに来る」
「約束では?」
「違う」
紙袋を持つ。
「忘れ物」
帰った。
◇
【真意の記録】
午後。
青い缶が残った。
助手は触らない。
私も触らない。
「黄色、好きだったらしいよ」
「そうみたいですね」
「助手は?」
「何がですか」
「飴」
「透明がいいです」
「どうして?」
「色が薄いので」
「理由、それ?」
「今は」
私は笑った。
助手が缶を見る。
「真意さん」
「うん」
「来週、あの人が来たらどうしますか」
「分からない」
「私もです」
「じゃ、その時決めよう」
「はい」
助手は席を立った。
二歩。
戻る。
缶を開ける。
透明な飴を一つ取った。
「食べるの?」
「はい」
「今日?」
「今日です」
包みを開く。
口へ入れる。
少しだけ。
助手の顔が変わった。
「どう?」
「甘いです」
「それだけ?」
「今は」
助手は出ていった。
机には。
黄色と赤。
二つ残った。
昔は三つだった。
来週。
同じ缶を開けても。
もう。
同じ中身には戻らない。




