第十九話「遠い方を選んだことについて」
【私の日記】
帰ってきてから、二十五日目。
朝。
鞄の底に、飴があった。
昨日の一個。
食べなかった。
会社にも持っていった。
食べるためではない。
入っていたから。
それだけ。
駅を出る。
いつもの角を曲がったところで、工事をしていた。
歩道が半分、塞がれている。
黄色い柵。
誘導員。
《歩行者→》
右へ回る矢印。
私は右へ行った。
会社までは、そちらの方が近い。
一本裏の道。
初めてではない。
たぶん。
そう思ってから止まった。
たぶん。
最近、この言葉をあまり使わなくなった。
確認できないなら、分からないと言う。
その方がいいと思っていた。
でも。
道一本にまで確認はいらない。
私は歩いた。
角。
自動販売機。
クリーニング店。
小さな公園。
公園の入口で、足が止まった。
ベンチが二つある。
片方だけ、朝日が当たっている。
何でもない。
なのに。
座りたいと思った。
時計を見る。
八時二十一分。
会社までは七分。
始業まで二十四分。
座れる。
私は座った。
三分。
何もしなかった。
スマホも見なかった。
子供が一人、母親と通った。
犬が木の根元を嗅いでいた。
トラックの音。
風。
それだけ。
八時二十四分。
立つ。
会社へ行った。
何も起きなかった。
午前中も。
何も起きなかった。
昼。
私は気づいた。
朝の三分を。
誰にも説明していない。
記録もしていない。
それなのに。
もう一度、座りたいと思っている。
【真意の調査記録】
三十九日目。
白紙に新しい表示。
朝八時二十一分。
《環境予測:一致》
その下。
《経路変更》
《余剰時間:三分》
《休止行動:成立》
私は順番を確認した。
工事。
迂回。
公園。
ベンチ。
助手が座った。
ここまでは事実。
問題は工事。
私は助手に連絡しなかった。
先に調べた。
道路工事。
区の予定表にある。
二週間前から告知。
施工会社もある。
昨日から始まっている。
再構成が作った証拠はない。
少なくとも今は。
では。
環境予測は何をした?
何もしていない可能性がある。
既にある工事を利用しただけ。
それなら。
予測という名前も正確ではない。
白紙。
《候補環境:既存》
《介入:未確認》
少し安心した。
すぐに、その安心を疑った。
介入しなくても。
候補を知っていればいい。
助手が通りそうな道。
目に入りそうなもの。
空いている時間。
選びそうな場所。
未来の理由を作れなくても。
既にある世界から、理由になりそうなものを拾える。
私は書いた。
《環境予測は環境生成とは限らない。》
その下。
《既存条件の選別でも成立する可能性。》
線は引かなかった。
まだ結論はいらない。
【私の日記】
午後。
同僚に聞かれた。
「今日、ちょっと機嫌いい?」
「そう見えますか」
「なんとなく」
私は考えた。
朝の公園。
三分。
「少し休んだからかもしれません」
「朝から?」
「はい」
「疲れるの早くない?」
「疲れたから休んだわけじゃないです」
「じゃあなんで?」
答えようとして。
分からなかった。
ベンチに日が当たっていた。
時間があった。
座れた。
座りたかった。
全部、本当。
でも。
どれが理由かは分からない。
「座れたので、座りました」
「それ理由?」
「たぶん」
言ってから。
少し笑った。
同僚が眉を上げる。
「たぶんって言った」
「言いましたね」
「最近、分からないって言う方が多かったのに」
「そうですね」
「戻った?」
私は首を振った。
「増えました」
「何が?」
「言い方が」
同僚はしばらく私を見た。
「それ、いいね」
私は。
すぐには答えなかった。
「はい」
今度は言えた。
帰り。
工事はまだ続いていた。
誘導員が朝と反対を指す。
《歩行者→》
右。
朝と同じ迂回路。
私は矢印を見る。
その先に公園がある。
朝、座ったベンチ。
また座るかもしれない。
そう思った瞬間。
嫌になった。
予測されたからではない。
予測されたかもしれないと思ったから。
私は左を見た。
横断歩道を渡れば、別の道がある。
遠い。
会社から家まで、六分くらい余計にかかる。
私は左へ行った。
二分後。
後悔した。
信号が長い。
人が多い。
スーパーの前で自転車が詰まっている。
「面倒」
声に出た。
でも戻らなかった。
少し歩く。
知らない花屋があった。
店先に青い鉢。
猫が寝ていた。
私は猫を見た。
猫も私を見た。
それだけ。
少し先に、小さな本屋。
入らなかった。
パン屋。
入らなかった。
公園もない。
ベンチもない。
六分余計に歩いて。
家に着いた。
疲れた。
鞄を置く。
底から飴が出てきた。
まだ一個。
私は笑った。
朝から持ち歩いて。
結局、食べなかった。
スマホを見る。
通知はない。
ノートを開く。
《今日は遠い方から帰った。》
書く。
理由。
予測された道を避けたかった。
それで終わりそうになった。
違う。
途中からは。
猫を見たかった。
知らない道が少し面白かった。
戻るのが面倒だった。
信号をもう一度待ちたくなかった。
理由が増えた。
私は書き足した。
《避けるために選んだ道でも、途中から別の理由になる。》
その下。
《反抗だけではなかった。》
【真意の調査記録】
三十九日目。
夜。
白紙。
朝。
《環境予測:一致》
帰宅時。
《環境予測:不一致》
私は少しだけ息を吐いた。
助手が予測を外した。
そう書こうとして。
やめた。
電話もしなかった。
助手が何をしたか、私はまだ知らない。
その時。
白紙に続きが出た。
《代替経路:記録》
《新規条件:追加》
《予測モデル:更新》
息が止まった。
外すことも。
次の材料になる。
予測から逃げる。
逃げた道を覚えられる。
さらに違う道へ行く。
それも覚えられる。
これを続ければ。
助手は毎日、予測を壊すために生きることになる。
それは。
助手の自由ではない。
再構成に反対することだけで決まる生活も。
再構成に決められた生活だ。
私はペンを置いた。
何を勧めても条件になる。
何も言わなくても条件になる。
昨日、そう分かった。
だから今日は。
助言ではなく。
質問を一つだけ送った。
《遠い道、嫌だった?》
十分後。
返事。
《最初は。》
それだけ。
私は待った。
もう一通。
《途中からは、そうでもなかったです。》
白紙は動かない。
私は画面を見る。
《何がありました?》
打った。
消した。
聞けば。
猫も花屋も本屋も。
調査情報になるかもしれない。
代わりに。
《分かった。》
送った。
助手から返事。
《真意さん。》
《はい。》
《予測されないようにするの、やめようと思います。》
指が止まった。
《諦めるの?》
送信する前に消した。
違う。
《どうして?》
返事は早かった。
《そればかり考えると、予測のために選ぶことになるので。》
私は白紙を見る。
《予測モデル:更新》
まだ表示されている。
助手から、もう一通。
《近い方に行く日も、遠い方に行く日も作ります。》
《理由がある日も、ない日も。》
《その時に決めます。》
私は少し考えた。
《それも予測されるかもしれない。》
送った。
しばらくして。
《はい。》
《でも、予測されることと、決められることは同じじゃないと思います。》
白紙。
変化。
《環境予測:継続》
《行動確定:不能》
私はその二行を見た。
喜びそうになった。
止めた。
不能。
今は。
今日の範囲では。
それだけ。
まだ断定できない。
私は記録した。
《予測は選択肢を狭める可能性がある。》
《ただし、予測への反抗を新しい規則にすると、それ自体が狭まりになる。》
最後に。
《助手は条件を消すのではなく、自分でも条件を増やすことを選んだ。》
そこでペンを止めた。
少しして。
一行だけ足した。
《自由は、何にも影響されないことではないのかもしれない。》
見た。
線は引かなかった。
明日。
違うかもしれないから。




