第十八話「置いてあったことについて」
【私の日記】
帰ってきてから、二十四日目。
机に、飴があった。
透明な袋。
黄色。
レモン味。
私は立ったまま見た。
自分で置いた覚えはない。
隣の同僚が椅子を回した。
「食べないの?」
「これ、何ですか」
「飴」
「それは分かります」
笑われた。
「昨日、甘いの飲んでたから」
私は飴を見る。
「私に?」
「うん。もらいものだけど」
昨日のカフェオレ。
見られていたらしい。
「いらなかった?」
「まだ分かりません」
「飴一個に?」
「はい」
同僚はまた笑った。
「じゃあ置いとく。私のじゃなくなったから、好きにして」
そう言って仕事へ戻った。
私は座った。
飴は、キーボードの左。
仕事を始める。
九時。
十時。
十一時。
飴はそこにある。
十一時四十七分。
電話が長引いた。
喉が乾いた。
水筒は空だった。
自販機まで行くほどではない。
飴を見る。
レモン。
食べた。
酸っぱい。
そのあと甘い。
袋を丸める。
隣から声。
「やっぱり食べた」
「はい」
「好きでしょ、そういうの」
私は返事をしなかった。
同僚がこちらを見る。
「あ、ごめん。また前からみたいに言った」
「いえ」
少し考える。
「今日は、好きでした」
「今日だけ?」
「明日は分かりません」
「便利な言い方だね」
「私もそう思います」
二人で笑った。
何も起きなかった。
昼休み。
同僚がコンビニの袋を机に置いた。
中から、小さな飴の袋が見えた。
同じ黄色。
五個入り。
私は見た。
同僚も見た。
「あ」
「買ったんですか」
「うん」
「私に?」
「……半分」
「半分」
「私も食べようと思って」
袋を開ける。
一個取る。
自分の口へ入れた。
「ほら」
「何がですか」
「あなた専用じゃない」
私は少し笑った。
同僚は袋を机の間に置いた。
「食べたかったらどうぞ」
「はい」
今度は取らなかった。
午後。
一個。
二個。
同僚が食べた。
私はゼロ。
三時二十分。
同僚が会議へ行った。
袋には三個。
私は一個取った。
食べた。
理由。
眠かった。
口に何か入れたかった。
レモン味がそこにあった。
昨日、カフェオレを飲んだ。
それを見た同僚が、今日飴を置いた。
私が食べた。
同僚が、昼に同じ飴を買った。
それをまた私が食べた。
昨日にはなかった理由が。
今日、生まれた。
でも。
何もないところから生まれたわけではなかった。
机の間の黄色い袋を見る。
誰かが置いた。
それが、次の私の理由になった。
【真意の調査記録】
三十八日目。
助手から、写真が一枚届いた。
黄色い飴の袋。
説明は短い。
《昨日の選択を見た同僚が、今日これを買いました。》
その下。
《私も二個食べました。》
私は最初、意味が分からなかった。
昨日の記録を開く。
未発生の理由は、取得できない。
横に自分で書いた。
明日は変わる可能性あり。
変わった。
正確には。
足りなかった。
未発生の理由は取得できない。
でも。
理由が発生する場所は、先に作れる。
私はそこでペンを止めた。
違う。
「作れる」も強すぎる。
同僚は助手に飴を食べさせるためだけに買ったわけではない。
自分も食べている。
助手は置かれたから必ず食べたわけでもない。
昼には取らなかった。
午後には取った。
私は一度、前提を外した。
事実。
助手がカフェオレを選んだ。
第三者がそれを見た。
第三者が翌日、甘いものを置いた。
助手がその一部を選んだ。
その選択を見た第三者が、さらに同じものを買った。
助手がまた選んだ。
輪になっている。
再構成だけではない。
人間同士でも。
昨日の誰かが、今日の選択肢を変える。
今日の選択が、明日の誰かを変える。
その中で理由が生まれる。
白紙は動かなかった。
私は少し待った。
まだ動かない。
珍しい。
【私の日記】
退勤前。
同僚が飴の袋を持ち上げた。
残り二個。
「これ、置いとく?」
私は答えようとした。
止まる。
置いておけば。
明日、食べるかもしれない。
持って帰れば。
明日は机にない。
捨てれば。
もちろんない。
たった二個。
でも。
どれも明日の条件になる。
「どうします?」
私が聞いた。
「え、私?」
「買ったのはあなたなので」
「でも二個食べたでしょ」
「二個です」
「じゃあ共同所有?」
「飴で共同所有って言いますか」
「知らない」
同僚が笑った。
私も笑った。
「一個ずつ持って帰る?」
私は考えた。
「それで」
一個もらった。
同僚も一個取った。
空袋を捨てる。
私は自分の一個を鞄に入れた。
明日。
食べるかもしれない。
食べないかもしれない。
誰かにあげるかもしれない。
忘れるかもしれない。
でも。
明日の鞄に飴があることだけは。
今、私と同僚が決めた。
駅へ向かう途中。
真意さんから電話が来た。
「今、話せる?」
「はい」
「昨日の記録、訂正する」
「未発生の理由ですか」
「そう」
信号が赤になる。
私は止まった。
「取れました?」
「取れてない」
「じゃあ」
「でも、まだない理由の周りに、先に物を置くことはできる」
私は鞄を見る。
中に飴が一個。
「それ、怖いですね」
「うん」
即答だった。
「でも、普通でもありますね」
電話の向こうが静かになる。
「……そうね」
青信号。
人が歩き出す。
私はまだ動かなかった。
「同僚が飴をくれたのは、嫌じゃなかったです」
「うん」
「明日の私に影響すると思います」
「うん」
「それを全部、再構成と同じにしたくないです」
真意さんは、すぐには答えなかった。
「一致しないなら、どちらかを捨てる必要はない」
私は少し驚いた。
「何ですか、それ」
「今、思っただけ」
「前からじゃなくて?」
「違う」
笑っている声だった。
私は横断歩道を渡った。
【真意の調査記録】
三十八日目。
最終追記。
昨日の記録を訂正。
《未発生の理由は、取得できない。》
これは今日も反証されていない。
ただし。
未発生の理由に影響する条件は、過去から持ち越される。
本人が作る場合。
他者が作る場合。
偶然残る場合。
再構成が作る場合。
区別が必要。
全部を汚染と呼べば。
人と人が関わることまで汚染になる。
全部を自然な影響と呼べば。
再構成による誘導を見失う。
どちらも早い。
白紙。
整合率:75%
変化なし。
その下に。
初めて見る項目が出た。
《環境予測:開始》
私はしばらく見た。
理由は取れない。
なら。
理由が生まれやすい場所を作る。
そういうことかもしれない。
まだ断定できない。
でも。
昨日より危険になった。
助手の未来を直接書けなくても。
明日の机に何を置くかは決められる。
私はペンを持った。
書こうとして。
やめた。
代わりに助手へメッセージを送った。
《明日、鞄の飴をどうするか、報告しなくていい。》
送信。
すぐ既読になった。
返事。
《それも明日の条件になりますよ。》
私は画面を見た。
「あ」
声が出た。
その通りだった。
もう一通。
《でも、ありがとうございます。》
私は返さなかった。
返さないことも。
たぶん。
何かを置く。
そう思ったら。
少し怖くて。
少しだけ。
笑った。




