第十三話「前からそうだったことについて」
【私の日記】
帰ってきてから、十九日目。
砂糖を一包、鞄に入れて会社へ行った。
白い袋。
青い文字。
昨日、机に残っていたもの。
証拠、と呼ぶのはやめた。
証拠にした瞬間、何かが始まりそうだったから。
会社に着く。
同僚はもういた。
「おはよう」
「おはようございます」
鞄を机の下へ置いた。
砂糖のことは聞かなかった。
午前十時。
資料を一つ渡された。
「これ、見てもらえる?」
「何をですか」
「変なところ。いつものやつ」
私は紙を見た。
数字が一箇所ずれている。
見出しの表記が二種類ある。
三ページ目だけ日付の形式が違う。
三つ。
口に出す前に、同僚が笑った。
「早いなあ。やっぱそういうの得意だよね」
私は顔を上げた。
「前からですか」
「何が?」
「こういうのを見つけるの」
「前からじゃん」
すぐに答えた。
私は資料を置いた。
「どのくらい前からですか」
「え」
「覚えてる範囲で」
同僚が少し考える。
「最初からじゃない?」
「最初」
「入った頃から。細かい違い見つけて、すぐ決めないで。確認してからって」
私は何も言えなかった。
それは、私のことではない。
少なくとも。
昨日までは。
鞄の中の砂糖を触った。
袋の角が指に当たる。
まだある。
昼。
同僚がコーヒーを買ってきた。
私の机に置く。
砂糖はなかった。
私は待った。
「砂糖は?」
「いるの?」
「昨日は」
言いかけて止めた。
同僚が首を傾げる。
「ブラックだったよね?」
私は鞄から砂糖を出した。
机に置く。
「これ、昨日あなたがくれたものです」
同僚は袋を見る。
「私が?」
「はい」
「なんで?」
「二本持ってきてくれました。一本入れて、一本残した」
同僚は笑わなかった。
「ごめん。覚えてない」
私は砂糖を見た。
「そうですか」
「でも、それ私が持ってくるやつだね」
袋を指す。
「下の売店の」
「はい」
「じゃあ渡したのかな」
「分かりません」
言ってから気づいた。
今は「不明」でいい。
真意さんの言い方が、頭の中に続いた。
私は続きを言わなかった。
同僚が私を見る。
「最近、前よりそれ言うね」
「何をですか」
「分からないって。前はもっと、たぶんこうですって言ってた気がする」
私は息を止めた。
「前は?」
同僚の眉が寄った。
「……あれ」
数秒。
「いや。前からか」
その瞬間、スマホが震えた。
机の下。
見ない。
もう一度。
見た。
《履歴整合:進行中》
その下。
《外部参照:接続》
私は画面を伏せた。
昨日までは、記録が変わった。
今日は、人が変わっている。
違う。
人が変わったと決めるのも早い。
私は同僚を見た。
「一つ、お願いしていいですか」
「何?」
「今日のことを、あなたの言葉で一つだけ書いてください」
「今日のこと?」
「私のことじゃなくていいです」
同僚は困った顔をした。
それから付箋を一枚取った。
《昼、コーヒーを二つ買った。片方はブラック。》
「これでいい?」
「はい」
私は受け取らなかった。
「持っていてください」
「私が?」
「はい」
「何のため?」
私は答えようとした。
答えを作れば、その答えも取られるかもしれない。
でも。
「明日、同じことを覚えているか知りたいです」
同僚はしばらく私を見た。
「怖いこと言うね」
「すみません」
「いいけど」
付箋を手帳に挟んだ。
「じゃあ明日、答え合わせね」
私は頷いた。
その言葉だけ、少し嬉しかった。
【真意の調査記録】
三十二日目。
助手から連絡。
昨日の砂糖について、共有記憶が変化。
助手本人のみ二本を記憶。
物証一包が残存。
同僚は二本を渡したことを記憶していない。
追加。
同僚は助手の現在の判断傾向を「前から」と認識。
これは重要。
書いてから消した。
重要、という評価は後。
事実。
助手側の変化だけではない可能性。
外部の人物が、現在の助手に合わせて過去を認識している。
白紙を見る。
外部参照
一件
その下。
整合率:68%
昨日の身体適合率は65%。
同じ指標かは不明。
私は助手へ電話した。
出る。
「真意さん」
「今、話せる?」
「はい」
「同僚の人に、何か頼んだ?」
少し間。
「今日のことを、自分の言葉で書いてもらいました」
私は目を閉じた。
「どこにある?」
「その人の手帳です」
「あなたは持ってない?」
「はい」
「写真は?」
「撮ってません」
「内容は覚えてる?」
「覚えてます」
私は言いかけて止まった。
確認しないで。
また命令するところだった。
「明日、どうするつもり?」
「その人に決めてもらいます」
「何を?」
「付箋を見るかどうか」
私は返事をしなかった。
助手が続ける。
「私が見せてって言ったら、私の確認になります」
「そうね」
「だから、明日その人が覚えていたら、その人から話してもらいます」
「覚えていなかったら?」
「その時考えます」
私は少し笑った。
「その言い方は、私に似てない」
電話の向こうで、助手も笑った。
「よかったです」
白紙が動いた。
私は見た。
会話
取得中
その下。
第三者記録
取得待機
私は紙を伏せた。
【私の日記】
帰宅した。
砂糖を机に置く。
一包。
昨日から残っている。
ノートを開く。
《二本だった。》
残っている。
その下に書く。
《今日は、あの人に書いてもらった。》
少し考える。
何を書いたかは書かなかった。
私が複製しない方がいい気がした。
午後十時十三分。
スマホが震えた。
《外部参照:一件》
《接続待機》
私は画面を消した。
十時四十分。
また震えた。
《接続失敗》
起き上がった。
もう一度見る。
《外部参照:一件》
《接続失敗》
《原因:所有者不一致》
私はしばらく画面を見た。
所有者。
私ではない。
真意さんでもない。
あの人のもの。
手帳も。
付箋も。
今日の記憶も。
スマホが震えた。
《再試行》
《接続失敗》
私は笑った。
小さく。
「そこは、私のじゃないから」
通知は来なかった。
翌朝。
会社へ行く。
同僚はまだ来ていなかった。
私は何も聞かないと決めた。
九時十二分。
同僚が来た。
「おはよう」
「おはようございます」
鞄を置く。
パソコンをつける。
何も言わない。
同僚も何も言わない。
九時二十分。
私は仕事を始めた。
九時二十三分。
隣で手帳を開く音がした。
「あ」
私は見なかった。
「これ」
同僚が言う。
それでも待った。
「昨日の答え合わせ」
そこで初めて振り向いた。
同僚が付箋を持っていた。
文字は残っている。
《昼、コーヒーを二つ買った。片方はブラック。》
「覚えてるよ」
同僚が言った。
「昨日、変なお願いされたことも」
私は息を吐いた。
「よかった」
「何が?」
「残ってたので」
同僚は付箋を見た。
「これ、捨てていい?」
私は答えなかった。
同僚が笑う。
「私のだから、私が決めていいんだよね?」
私は頷いた。
「はい」
同僚は付箋を剥がした。
丸める。
ゴミ箱へ投げた。
私は思わず目で追った。
「捨てるんですか」
「覚えてるから」
同僚は普通に言った。
「紙がないと覚えてられないわけじゃないし」
スマホが震えた。
《外部参照:消失》
続けて。
《整合対象:なし》
私はゴミ箱を見た。
丸まった付箋。
拾おうと思えば拾える。
拾わなかった。
その人が捨てたから。
昼。
同僚がコーヒーを二つ持ってきた。
私の机に一つ置く。
「はい」
今日は砂糖も一本置いた。
私はそれを見る。
同僚が言った。
「昨日ブラックだったけど、今日はどうする?」
昨日。
ちゃんと昨日がある。
「一本入れます」
「了解」
私は袋を破った。
コーヒーに入れる。
飲む。
甘い。
少し苦い。
でも昨日とは違う味だった。
それでよかった。
【真意の調査記録】
三十三日目。
第三者が自分で作成し、自分で保持した記録は取得に失敗。
翌日まで記憶も維持。
その記録は、第三者自身の判断で廃棄された。
助手は回収しなかった。
結果。
外部参照:消失
整合対象:なし
仮説。
助手の差分を助手だけで保存すると、再構成情報になる。
他者が助手を記録しても、助手のために所有した時点で同じ可能性がある。
しかし。
他者自身の生活として持つ記憶までは、まだ助手の所有物ではない。
まだ。
その言葉は残す。
助手を守る方法が見つかった、とは書かない。
一件だけ、取得できなかった。
それだけ。
ただ。
昨日まで、助手は自分が消えないために記録していた。
今日は違う。
自分のことを、他人が自分の都合で覚えたり、忘れたり、捨てたりすることを許した。
それは私なら、できただろうか。
分からない。
今は「不明」でいい。
そう書いてから。
私はその一文を消さなかった。




