第十二話「二本だったことについて」
【私の日記】
帰ってきてから、十八日目。
朝、鏡の前で右手が止まった。
歯ブラシは左手にある。
右手は空いている。
その右手が、親指と人差し指で小さな円を作っていた。
何も持っていない。
でも、その形を知っている。
真意さんがルーペを持つ時の手だった。
私はすぐに手を下ろした。
水を吐く。
鏡を見る。
もう普通だった。
机に戻って、昨日のノートを開いた。
「観察対象:私」
その下に書く。
午前七時十二分。
右手。
ルーペ保持動作に類似。
実物なし。
意図なし。
五行を書いてから止まった。
昨日までなら、文章にしていた。
私はペンを置いた。
書き方まで似てきている。
その下に、わざと一行だけ文章で書いた。
「でも、これに気づいたのは私だと思う。」
思う。
断定できなかった。
会社へ行った。
午前中は普通だった。
会議が一つ。
メールが六通。
資料修正が三箇所。
三箇所、と数えたところで少し嫌になった。
昼休み。
同僚が紙コップを二つ持って戻ってきた。
私の机に一つ置く。
その横に、砂糖を二本。
「はい。いつもの」
私は砂糖を見た。
「いつもの?」
「二本。毎回入れるじゃん」
「毎回」
「甘すぎるって、前も言った」
同僚は自分の席へ戻った。
私は一本目を入れた。
二本目をつまむ。
止まる。
今日は、入れたくなかった。
理由はない。
二本目を机に置いた。
飲む。
甘い。
でも、少し苦かった。
私はスマホを出して、ノートに書いた。
《私はコーヒーに砂糖を二本入れていたらしい。》
「らしい」にした。
自分では、はっきり覚えていなかったから。
その時、画面の上に通知が出た。
《身体情報:取得中》
続けて。
《嗜好差分:取得》
私は紙コップを見た。
一本入れたことを見られた。
二本だったことも、見られたのかもしれない。
違えば違いを取る。
似れば似た部分を取る。
それなら、どうすれば取られないのか。
考えかけてやめた。
その考え方が、もう真意さんに似ている気がした。
午後三時。
もう一度通知。
《身体_01:適合率 61%》
私は画面を閉じた。
午後五時。
《63%》
駅へ向かう途中、知らないうちに歩道の人の流れを三つに分けて見ていた。
速い人。
遅い人。
立ち止まりそうな人。
気づいた瞬間、やめた。
通知。
《視線傾向:取得》
私は笑った。
少しだけ。
「何でも取るんだ」
声に出した。
通知は来なかった。
それが少し嬉しかった。
【真意の調査記録】
三十一日目。
助手へ連絡しない。
昨日そう決めた。
理由。
私の判断、筆跡、記録形式が助手側へ取得されている。
会話も取得対象である可能性が高い。
私が話すほど、助手の中に私の情報が増える可能性がある。
だから話さない。
合理的。
ここまで書いて、止めた。
合理的だから選んだのか。
怖いから選んだのか。
区別できない。
区別するために調べれば、その判断も情報になる。
白紙を見る。
午前。
変化なし。
午後。
変化なし。
夕方。
一文字。
声
私は書き写さなかった。
白紙に増えた。
声
取得待機
席を立った。
話さない判断が正しかった可能性がある。
そう考えた瞬間。
沈黙
取得
私は少し笑った。
「それも取るのね」
声に出した。
白紙。
声
取得開始
遅かった。
【私の日記】
家に着いた。
机の上にコップが二つある。
片方は私のもの。
もう片方は空。
昨日から置いてある。
今日は片付けることにした。
手を伸ばす。
スマホが震えた。
《身体_01》
《動作待機》
私はそのままコップを掴んだ。
流しへ持っていく。
洗う。
棚へ戻す。
また震える。
見なかった。
夕飯を作った。
冷凍うどん。
卵。
ねぎ。
食べる。
皿を洗う。
風呂に入る。
髪を乾かす。
その間、スマホは机の上で何度も震えた。
午後十一時。
十九件。
身体情報。
行動傾向。
回避傾向。
食事。
歩行。
利き手。
視線。
沈黙。
全部、取得済み。
最後だけ違った。
《身体_01:適合率 63%》
その下。
《不足:声》
部屋のどこかで、タイプライターの音がした。
かたん。
机の上にはない。
もう一度。
かたん。
「真意さん」
呼んだ。
スマホが震える。
《音声取得:開始》
63%。
64%。
私は口を閉じた。
背後から声がした。
「返事しないで。」
真意さんだった。
振り向かなかった。
真意さんも黙った。
長い沈黙。
それでもスマホは震えた。
《沈黙:取得》
「……真意さん」
「何?」
「黙っても取られました」
「そうね。」
「話しても取られます」
「そう。」
「だったら」
私は一度、言葉を止めた。
真意さんの答えを待ちそうになったから。
待たなかった。
「話してください」
スマホが震えた。
「似るかもしれなくても、話さないで一人になる方は選びません」
震動が止まった。
数字も止まった。
65%。
新しい項目。
《差分:自発選択》
その下。
《取得不可》
私は何度も読んだ。
「真意さん」
「何?」
「今のは取れなかったみたいです」
少し間。
「……そう。」
声が少し近かった。
私は机に座った。
朝のノートを開いた。
昼に書いた行を見る。
《私はコーヒーに砂糖を二本入れていたらしい。》
そこにあった。
私は安心した。
その瞬間。
スマホが一度震えた。
《履歴整合:開始》
ノートの文字が変わった。
二本。
その「二」だけが薄くなった。
消えた。
《私はコーヒーに砂糖を 本入れていたらしい。》
私は指で紙を擦った。
鉛筆でも消しゴムでもない。
紙そのものから、字だけがなくなっていた。
スマホで昼のメッセージを開く。
同僚とのやり取り。
検索。
「甘すぎる」
該当なし。
「砂糖」
今日の一件だけ。
《一本、机に置いといたよ》
私は画面を見た。
違う。
二本だった。
確かに二本あった。
一本目を入れた。
二本目を机に置いた。
机を見る。
包装された砂糖が一本、残っている。
それだけは残っていた。
私はそれを掴んだ。
「真意さん」
「何?」
「二本だったんです」
返事はすぐには来なかった。
「……何が?」
「砂糖です。今日、二本ありました。あの人も毎回二本だったって言いました」
「記録は?」
「変わりました」
「相手は?」
「まだ確認してません」
「確認しないで。」
真意さんが言った。
少し間を置いて。
「……違う。」
言い直した。
「私が決めることじゃない。」
私は残った一本を見た。
同僚へ電話はしなかった。
代わりに、ノートの空いた場所へ書いた。
《二本だった。》
今度は「らしい」と書かなかった。
スマホは震えなかった。
文字も消えなかった。
【真意の調査記録】
三十一日目。
助手と話した。
結果。
声は取得された。
身体適合率、65%。
助手が自分で会話継続を選択した後、適合率上昇停止。
差分:自発選択
取得不可
その後。
助手の既往履歴に整合処理が発生。
コーヒーへ砂糖を二本入れていたという習慣の記録が消失。
助手本人は覚えている。
物証として砂糖一包が残存。
周辺記録は変化。
これは再構成の成功と、助手固有履歴の消失が同時進行している可能性を示す。
仮説はまだ確定しない。
ただし、一つ修正する。
昨日。
「助手は私ではない」
そうであってほしいという判断を含んでいた。
今日。
取得できなかった選択がある。
消えた履歴を、助手だけが「二本だった」と言った。
だから観測結果として書く。
助手は私ではない。
そして。
私ではない部分から先に、消えている。




