第十一話「書いていないことについて」
【私の日記】
帰ってきてから、十七日目。
朝。
写真アプリを開いた。
候補_01.jpg。
昨夜から、名前は変わっていない。
私は画像を開かなかった。
代わりに、紙のノートを出した。
白紙ではない。
コンビニで買った、罫線のある普通のノート。
一ページ目に日付を書く。
その下に、
「私について」
と書いた。
手が止まった。
真意さんのことを決めるなと言われた。
なら、自分のことを残しておけばいい。
そう思った。
好きな飲み物。
会社までの道。
苦手な食べ物。
よく使う言葉。
右の靴から履くこと。
目覚ましを二回止めること。
書いてから、最後の二つを消した。
本当に毎回そうだったか、自信がない。
代わりに、
「確認できていない」
と書いた。
そこで、少し嫌な感じがした。
私はその言葉を普段、あまり使わない。
ページを閉じた。
会社へ行った。
午前九時四十分。
修正した資料を同僚へ送った。
五分後、返事が来た。
「助かった。あと、このメモ何?」
添付した覚えのないファイルが一つあった。
テキストファイル。
開く。
資料A。
修正前との差分、七箇所。
うち意味変更、二。
表記変更、五。
未確認、一。
私は画面を見た。
内容は正しい。
七箇所。
数え直した。
正しい。
でも、私は数えていない。
ファイルの作成者を見る。
私の名前。
作成時刻。
午前九時二十七分。
その時間、私は資料を直していた。
「丁寧になったね」
隣から同僚が言った。
「前からこんなメモ作ってたっけ」
「……作ってないです」
「じゃあ今日から?」
私は答えなかった。
テキストの最後に一行あった。
原因はまだ別。
指がマウスから離れた。
その文を知っている。
意味ではなく、置き方を。
結論の直前で止める言い方を。
私はファイルを削除した。
ゴミ箱も空にした。
三十秒後。
同じファイルが、資料の隣に戻っていた。
ファイル名だけ変わっていた。
差分記録_02.txt
私は開かなかった。
昼。
食堂には行かなかった。
コンビニでおにぎりを二つ買った。
鮭と梅。
普通に食べた。
何も見えなかった。
何も書かれていなかった。
少し安心した。
二つ目を食べ終わった時、レシートの裏に文字があるのに気づいた。
候補:一
その下。
情報取得中
私は丸めた。
捨てようとして、やめた。
捨てることも判断になる。
そんな考えが自然に浮かんだ。
私はレシートを開き直した。
今の考えは、誰のものだ。
考えた瞬間、文字が一行増えた。
判断傾向:一致
私はレシートを破った。
今度は、戻らなかった。
【真意の調査記録】
三十日目。
記録しない。
昨日、そう決めた。
だから今日は、調査記録を書かない。
ここまで書いて、矛盾に気づいた。
これも記録だ。
紙を閉じる。
三分後。
開く。
白紙に文字。
候補:一
見ない。
紙を伏せる。
タイプライターにも触れない。
ルーペはない。
できることが減った。
違う。
減らした。
私が選んで減らした。
そのまま二十分待った。
何も起きない。
少し安心した。
その時、机の端から紙が落ちた。
白紙ではない。
助手の字だった。
私は助手の字を知っている。
少なくとも、そう思っている。
紙には一行。
「確認できていない」
その下に、別の文字。
筆跡照合:一致
私は紙を裏返した。
裏にも書いてある。
判断傾向:取得中
私は見なかったことにしようとした。
できなかった。
助手の字がここにある。
助手が書いたのか。
私が書いたのか。
何かが助手の字を使ったのか。
三つとも未確認。
今はそれでいい。
私は紙を引き出しへ入れた。
白紙に触れず、別のメモ用紙を出した。
書かないつもりだった。
でも、一つだけ必要だった。
助手を守るために。
「助手は私ではない」
書いた。
文字は残った。
白紙が、伏せたまま動いた。
紙の下から音がした。
かさ。
私は裏返さない。
もう一度。
かさ。
そして止まった。
十分後。
私は負けた。
白紙を返した。
そこには、
差分情報:取得
とだけあった。
私はペンを落とした。
同じではないと書いた。
それで、違いを教えた。
【私の日記】
帰宅した。
玄関を開ける前に、今日は何を見てもすぐに調べないと決めた。
鍵を回す。
扉を開ける。
部屋は普通だった。
机。
椅子が二脚。
コップが二つ。
白紙。
朝のノート。
それだけ。
私は靴を脱いだ。
鞄を置く。
手を洗う。
冷蔵庫を開ける。
昨日の卵はない。
食べたから。
当たり前だ。
牛乳を出した。
コップを一つ取る。
棚を閉める。
もう一つのコップは、テーブルに置かれたままだった。
水は入っていない。
私は自分のコップに牛乳を注いだ。
飲む。
冷たい。
普通だった。
机に座った。
朝のノートを開く。
一ページ目。
「私について」
その下に書いた内容は残っていた。
好きな飲み物。
会社までの道。
苦手な食べ物。
よく使う言葉。
その下。
朝にはなかった文章。
資料A。
修正前との差分、七箇所。
うち意味変更、二。
表記変更、五。
未確認、一。
会社で見たものと同じ。
私はページをめくった。
二ページ目。
空白。
三ページ目。
空白。
四ページ目。
文字があった。
私の字だった。
日付。
今日。
その下。
「観察対象:私」
私は書いていない。
続き。
朝、候補画像を開かなかった。
九時二十七分、差分を記録。
昼、判断傾向の一致を確認。
帰宅後、異常を確認。
最後の一行だけ、途中で止まっていた。
「原因は」
私は読まなかった。
ノートを閉じた。
背後で声がした。
「その続き、書かないで。」
近い。
私は振り向かなかった。
「真意さんですか」
少し間。
「たぶん。」
その答えに、安心しそうになった。
安心してはいけないと思った。
その考えにも、私は止まった。
「今のは、私の考えですか」
返事はない。
「真意さん」
「それを私に聞いたら。」
声が、少し遠くなった。
「私が決めることになる。」
私は黙った。
机の上で、スマホが震えた。
写真アプリの通知。
新しい画像が一枚あります。
私は画面を伏せた。
見ない。
通知がもう一度震えた。
ファイル名だけ、ロック画面に出た。
候補_01.jpg
その下。
名称変更。
私は触らなかった。
数秒後、画面が暗くなる直前に、
新しい名前だけが見えた。
身体_01.jpg
【真意の調査記録】
三十日目。
書かない。
ただし一件のみ。
助手は私ではない。
これは仮説ではない。
そうであってほしい、という判断を含む。
だから、証拠にはしない。
白紙。
差分情報:取得済
その下に、新しい項目。
身体情報:取得開始
私はそれ以上、読まなかった。




