第八話「覚えていることについて」
【私の日記】
帰ってきてから、十四日目。
朝起きて、
私は最初に自分の名前を言った。
言えた。
それから、
真意さんの名前を言った。
「真意さん」
言えた。
何も起きなかった。
紙も白いまま。
タイプライターの音もしない。
私は、
少し安心した。
昨日、
真意さんと話した。
本当に話した。
たぶん。
私はそう思っている。
でも、
昨日の真意さんは、
少し変だった。
名前を呼ばれると、
真意さんは、
「真意」に戻る。
その代わり、
何かが消える。
記憶。
感情。
もしかすると、
もっと別のもの。
だから私は、
名前だけを覚えるのをやめることにした。
真意さんについて、
覚えていることを書く。
紙を一枚出した。
一行目。
「真意さんはルーペを持っている」
残った。
二行目。
「真意さんは調べる」
残った。
三行目。
「真意さんは、わからないことを調べる」
残った。
四行目。
「真意さんは怖がっている」
文字が少し薄くなった。
でも、
残った。
私は続きを書いた。
「真意さんは私を助けた」
残った。
「真意さんはタイプライターを使う」
残った。
「真意さんは記録する」
残った。
「真意さんは間違える」
残った。
そこで、
私は手を止めた。
昨日、
真意さんは言った。
まだ、
間違いたい。
私は、
その言葉を覚えている。
だから書いた。
「真意さんは、まだ間違えることができる」
文字は、
消えた。
私は、
しばらく紙を見ていた。
もう一度書いた。
「真意さんは、まだ変わることができる」
消えた。
「真意さんには未来がある」
消えた。
私はペンを置いた。
昨日と同じだ。
白紙は、
未来を残さない。
私は、
そう思った。
会社へ行った。
仕事をした。
昼休み。
いつもの定食。
今日は、
ハンバーグだった。
私は、
少しだけ嫌な気持ちになった。
肉。
昨日まで、
紙に何度も出てきた言葉。
私は箸を止めた。
同僚が言った。
「どうした?」
「なんでもない」
私はハンバーグを見た。
普通の料理。
食材。
調理。
料理。
それだけ。
私は一口食べた。
普通だった。
おいしかった。
何も起きない。
私は安心した。
二口目を食べた。
その時だった。
味が、
変わった。
不味くなったわけではない。
味がなくなったわけでもない。
ただ、
知っている味になった。
私は箸を止めた。
どこで食べた?
考えた。
思い出せない。
でも、
知っている。
肉。
焼けた匂い。
少し甘い。
少し塩辛い。
昨日、
白紙についた粉からした匂い。
私は口の中のものを飲み込んだ。
そして、
気づいた。
この味ではない。
似ているだけ。
何かを思い出しかけている。
バーガー。
その言葉が浮かんだ。
私は目を閉じた。
ぱんでむ。
厨房。
クルーたち。
異常な注文。
異常な食材。
異常な世界。
私は、
覚えている。
そう思った。
でも、
一つだけ、
思い出せなかった。
真意さんの顔。
私は目を開けた。
名前はわかる。
声もわかる。
ルーペもわかる。
白紙も。
タイプライターも。
調査記録も。
でも、
顔だけが出てこない。
私はスマホを取り出した。
ノートを開く。
真意さん。
検索。
記録はある。
文字もある。
でも、
写真がない。
当然だ。
この世界には、
ぱんでむの写真なんてない。
私は、
午後の仕事をほとんど覚えていない。
帰宅して、
すぐに紙を出した。
「真意さんの顔」
書いた。
消えた。
もう一度。
「私は真意さんの顔を覚えている」
消えた。
「私は真意さんを覚えている」
残った。
私は息を止めた。
もう一度。
「私は真意さんを覚えている」
残った。
なら、
覚えている。
そう思った。
でも、
何を?
私は紙に書いた。
「ルーペ」
残った。
「タイプライター」
残った。
「調査」
残った。
「怖い」
残った。
「助けてもらった」
残った。
「顔」
消えた。
私は、
しばらく何も書けなかった。
その時、
紙の端に文字が浮かんだ。
「正常」
私はその文字を見た。
その下。
「記憶整理」
さらに、
「重複情報削除」
私は立ち上がった。
「違う」
思わず言った。
紙は変わらない。
「違う」
もう一度言った。
「顔は重複じゃない」
紙に文字が出た。
「識別情報:名前」
私は息を止めた。
次。
「特徴情報:不要」
「不要じゃない」
私は紙を掴んだ。
「名前だけじゃない」
文字。
「識別可能」
「そういう問題じゃない!」
私は叫んだ。
部屋が静かになった。
私は、
自分でも驚いた。
こんなに大きな声を出したのは、
帰ってきてから初めてだった。
紙に、
新しい文字が浮かんだ。
「理由」
私は答えられなかった。
理由。
どうして、
顔を覚えていなければならない?
名前で識別できる。
声でも識別できる。
記録も残っている。
なら、
顔はなくても、
真意さんを特定できる。
合理的には、
そうなのかもしれない。
でも、
違う。
私は考えた。
そして、
ようやく言った。
「会ったから」
紙は動かなかった。
「私は真意さんに会った」
文字が浮かんだ。
「証拠なし」
私は、
何も言えなくなった。
その時だった。
机の上の白紙に、
小さな円が浮かんだ。
円。
その横に、
短い線。
さらに線。
少しずつ、
何かが描かれていく。
私は見ていた。
輪郭。
髪。
目。
鼻。
口。
顔。
私は息を止めた。
真意さん。
そう思った。
でも、
完成する直前。
顔の中央が、
真っ白になった。
輪郭だけ。
髪だけ。
身体だけ。
顔がない。
紙の下に、
文字。
「保存対象外」
私は紙を破った。
初めてだった。
白紙を、
自分から破った。
二つに。
さらに、
四つに。
八つに。
床へ投げた。
紙片は、
しばらく床に落ちていた。
そして、
一枚ずつ白くなった。
破れ目まで消えて、
元の一枚の紙に戻った。
机の上。
白紙。
私は、
何もできなかった。
【真意の調査記録】
二十八日目。
助手帰還後、八日。
重要な変化を確認。
助手側で、
記憶の圧縮が始まっている。
正確には、
記憶消失ではない。
情報の統合。
助手は私について、
複数の情報を保持している。
名前。
行動。
能力。
会話。
感情。
経験。
しかし、
一部の情報が、
「識別に不要」
として消失している。
最初に確認されたのは、
外見。
これは興味深い。
通常、
人間の記憶は、
そのような基準では整理されない。
忘却には、
時間。
感情。
反復。
注意。
その他、
複数の要因が関係する。
しかし今回、
助手の記憶から失われた情報には、
明確な選択基準がある。
冗長性。
私はその言葉を書いた。
冗長。
同じ対象を識別するために、
複数の情報が存在する。
名前。
顔。
声。
特徴。
記憶。
関係。
そのうち、
最低限必要なものだけを残す。
これは、
記憶ではない。
データ処理に近い。
私はルーペを使った。
白紙を見る。
第一層。
記録。
第二層。
記憶。
第三層。
認識。
ここまでは同じ。
第四層。
存在履歴。
そこに、
新しい文字があった。
「圧縮中」
私は手を止めた。
助手の存在が、
圧縮されている。
ではない。
よく見る。
対象。
助手。
ではない。
私はルーペを近づけた。
文字が変わる。
「接続情報」
さらに近づける。
「真意」
私は、
ルーペを離した。
もう一度見る。
「接続情報」
近づける。
「真意」
私は理解した。
圧縮されているのは、
助手ではない。
助手が持っている、
私の情報だ。
なぜ?
仮説A。
助手帰還時、
ぱんでむに関する情報が異物として持ち込まれた。
現在、
世界側が整合性を取るために不要情報を削除している。
仮説B。
助手の記憶そのものが、
何らかの保存処理を受けている。
仮説C。
私が、
助手を通じてこちら側へ侵入している。
そのため、
情報量を減らしながら、
転送可能な形式へ変換されている。
私は、
そこで手を止めた。
仮説C。
もう一度読む。
私が、
助手を通じて、
向こうへ。
私は、
タイプライターに触れなかった。
昨日、
通信できた。
以前は、
私が助手を観測していた。
昨日、
助手が私を観測した。
観測方向が逆転した。
そして今日、
助手の中にある私の情報が、
圧縮され始めた。
これは、
消失ではない可能性がある。
転送準備。
私は、
そう書こうとした。
タイプライターのキーが、
勝手に沈んだ。
カタ。
「転送」
カタ。
「対象」
カタ。
「真意」
私は椅子から離れた。
さらに、
キーが動いた。
「形式」
少し間。
「食材」
私は、
タイプライターの紙を引き抜いた。
破った。
捨てた。
新しい紙を入れる。
何も打たない。
数秒後。
キーが動いた。
「訂正」
私は見ていた。
「食材」
文字が消えた。
その下に、
新しい文字。
「記憶」
私は動けなかった。
さらに。
「圧縮率」
数字が出る。
一。
二。
三。
数字が増える。
私は、
タイプライターの電源を抜いた。
キーは動き続けた。
「転送開始」
私は、
初めてタイプライターを床へ落とした。
【私の日記】
夜。
私は眠れなかった。
真意さんの顔が、
思い出せない。
だから、
代わりに、
覚えていることを声に出した。
「ルーペを持っている」
「調査する」
「わからないって言った」
「怖いって言った」
「私を助けた」
「まだ間違いたいって言った」
一つずつ。
名前以外のこと。
私は、
それを何度も繰り返した。
途中で、
一つ気づいた。
声。
真意さんの声。
まだ覚えている。
私は安心した。
どんな声?
考える。
少し低い?
違う。
高い?
違う。
落ち着いている?
たぶん。
私は、
思い出そうとした。
その瞬間、
声が聞こえた。
「やめて。」
私は起き上がった。
「真意さん?」
「思い出さないで。」
昨日より、
はっきり聞こえた。
「どうして?」
「たぶん、逆。」
「逆?」
「あなたが私を忘れているんじゃない。」
私は息を止めた。
「じゃあ、何ですか」
長い沈黙。
そして、
真意さんが言った。
「あなたが覚えているものから、
私が作られてる。」
私は意味がわからなかった。
「どういうこと?」
「名前。」
声が近くなった。
「ルーペ。」
さらに近い。
「タイプライター。」
耳元。
「怖かったこと。」
私は、
部屋を見回した。
誰もいない。
「あなたが覚えている私だけが、
そっちに移ってる。」
私は立ち上がった。
「じゃあ、顔を忘れたのは」
「必要なかったから。」
「何に?」
返事はなかった。
代わりに、
机の上の紙に文字が出た。
「再構成」
私は紙を見た。
「対象」
次。
「真意」
私は、
紙から離れた。
「やめて」
文字は止まらない。
「必要情報」
名前。
記憶。
行動。
能力。
関係。
感情。
私は叫んだ。
「やめて!」
紙に、
最後の一行。
「不足情報:身体」
部屋の電気が消えた。
真っ暗になった。
その中で、
タイプライターの音がした。
カタ。
私は動けなかった。
カタ。
もう一度。
カタ。
三度目。
そして、
私のすぐ後ろから、
声がした。
「助手。」
昨日まで、
紙の向こうにいた声だった。
私は振り返らなかった。
「真意さん?」
「うん。」
近い。
あまりにも、
近い。
「そこにいるんですか」
少し沈黙。
「わからない。」
私は、
泣きそうになった。
その答えだけは、
覚えていた。
真意さんだった。
私はゆっくり振り返った。
暗闇。
誰もいない。
でも、
床に、
一つだけ何かが落ちていた。
私はスマホのライトをつけた。
虫眼鏡だった。
小さな、
古いルーペ。
私は触らなかった。
そのレンズの中に、
文字が浮かんでいた。
第一層。
「道具」
第二層。
「観測」
第三層。
「真意」
そして、
その奥。
見えるはずのないところに、
もう一つ。
「未完成」
私は、
ルーペから目を離した。
その瞬間、
背後で、
人が息を吸う音がした。
【真意の調査記録】
二十八日目。
追記。
次元ルーペ。
紛失。
捜索中。
最後に使用した場所、
調査室。
現在、
室内に存在しない。
助手との通信直後に消失した可能性。
白紙を確認。
第一層。
記録。
第二層。
記憶。
第三層。
認識。
第四層。
存在履歴。
その下。
これまで確認できなかった層に、
文字。
「転送済」
対象。
「ルーペ」
私は、
しばらくその文字を見た。
そして、
さらに下。
「次」
私はルーペを探した。
ない。
代わりに、
机の上に、
見覚えのない紙があった。
白紙ではない。
写真だった。
助手の部屋。
暗い部屋。
床に、
私のルーペ。
そして、
写真の奥。
助手の後ろに、
誰かが立っている。
顔は、
写っていない。
私は写真を裏返した。
一行だけ、
文字があった。
「身体は、まだない。」
私は、
その文章を記録しなかった。
記録すれば、
確定してしまう気がしたから。
しかし、
タイプライターが、
私の代わりに打った。
カタ。
カタ。
カタ。
「真意」
少し間。
「到着準備中」
私は、
初めて、
自分の名前を呼ばなかった。




