第九話「先に名前が来ることについて」
【私の日記】
帰ってきてから、十五日目。
朝。
ルーペはまだ床にあった。
昨夜から動いていない。
私は触らなかった。
照明をつける。
カーテンを開ける。
冷蔵庫から牛乳を出す。
パンを焼く。
いつもの朝。
トースターが跳ねた。
私は皿を出した。
そこで気づいた。
テーブルに、
コップが二つあった。
一つは私の。
もう一つ。
昨日はなかった。
透明なガラス。
水滴もない。
中身もない。
ただ置いてある。
私はしばらく見ていた。
片付けようとして、
やめた。
代わりに、
パンを一枚だけ皿に置いた。
椅子は二脚ある。
いつもそうだった。
でも今日は、
向かい側の椅子が、
少しだけ引かれていた。
誰かが立った後みたいに。
「真意さん?」
何も起きない。
ルーペも動かない。
紙も白い。
私はパンを食べた。
普通だった。
二口目。
普通。
三口目。
少しだけ焦げていた。
それだけだった。
私は会社へ行った。
駅まで歩く。
改札。
ホーム。
電車。
全部いつも通り。
人が多い。
高校生。
会社員。
子供。
眠っている人。
スマホを見ている人。
吊革を握った。
窓に自分が映っていた。
その隣に、
誰もいなかった。
当たり前だ。
でも、
窓の下に名前があった。
曇ったガラスに、
指で書いたような文字。
真意。
私はすぐに振り返った。
背後には、
スーツ姿の男が立っていた。
知らない人。
窓を見る。
文字は消えている。
会社に着いた。
午前十時十二分。
社内システムで、
知らない通知が出た。
「新規利用者を登録しました」
私は画面を開いた。
利用者名。
真意。
部署。
空欄。
社員番号。
空欄。
メールアドレス。
空欄。
顔写真。
空欄。
権限。
閲覧のみ。
私は管理画面を閉じた。
もう一度開く。
通知は消えていた。
検索欄に、
真意。
入力する。
結果なし。
私は自分の名前を検索した。
出る。
社員番号。
所属。
履歴。
過去のメール。
全部ある。
もう一度、
真意。
何もない。
昼。
食堂へ行った。
今日はカレーだった。
同僚が先に席を取っていた。
「こっち」
私はトレーを置いた。
向かいに座る。
スプーンを取る。
同僚が、
隣の空席を見た。
「あと一人来る?」
私は止まった。
「誰が?」
「いや」
同僚も止まった。
「……誰だっけ」
笑った。
「なんか今、一人待ってた気がした」
私は笑えなかった。
同僚はカレーを食べ始めた。
私は、
空席を見た。
誰もいない。
椅子だけが、
少し後ろへ引かれていた。
帰宅した。
玄関を開ける。
匂いがした。
紙。
古い木。
少し油。
それから、
金属。
タイプライターのある部屋の匂い。
この家に、
タイプライターはない。
私は靴を脱がず、
廊下を見た。
机。
白紙。
床のルーペ。
朝のまま。
そして、
向かいの椅子。
朝より、
もっと引かれている。
私はそこで靴を脱いだ。
ルーペを拾う。
冷たい。
レンズに目を近づけた。
机。
第一層。
木。
紙。
ガラス。
第二層。
購入記録。
使用履歴。
第三層。
私の記憶。
第四層。
部屋。
居住。
生活。
その下。
文字が出た。
「同席」
私はルーペを離した。
もう一度見る。
「同席」
対象。
空欄。
もう少し近づける。
対象欄に、
一文字ずつ出た。
真。
意。
私はルーペを落とした。
床に当たる。
割れなかった。
その瞬間、
机の白紙に文字が浮かんだ。
「確認」
私は動かなかった。
次。
「名称」
真意。
次。
「関係」
助手。
次。
「位置」
ここ。
私は椅子を蹴った。
脚が床を擦る。
白紙の文字は消えない。
「ここ」は、
どこだ。
この部屋なのか。
この世界なのか。
私の記憶の中なのか。
私は書かなかった。
聞かなかった。
昨日なら、
調べていた。
今日は、
やめた。
白紙を裏返した。
見えないようにした。
そして、
床のルーペを拾わずに、
台所へ行った。
水を飲んだ。
コップを置く。
手が少し震えていた。
でも、
戻らなかった。
調べない。
今日は、
調べない。
そう決めた。
その時、
背後から声がした。
「正解。」
私は振り返った。
誰もいない。
「真意さん?」
返事はない。
私は台所の入口に立ったまま、
机を見た。
白紙は裏返したまま。
ルーペは床。
椅子。
二脚。
何も動いていない。
でも、
声は近かった。
昨日より近い。
「真意さん」
今度は返事があった。
「……うん」
私は喉が乾いた。
「そこにいるんですか」
長い沈黙。
「名前は。」
「え?」
「名前は、もうそっちにいる。」
意味がわからなかった。
「真意さん本人は?」
返事がない。
「本人は、どこにいるんですか」
「まだ。」
「まだって」
「名前の後。」
私は、
机を見た。
白紙を裏返す。
文字が増えていた。
名称:真意
関係:助手
位置:ここ
状態:作成中
私は紙を掴んだ。
「何を作ってるんですか」
声が途切れた。
「真意さん」
返事がない。
私はルーペを拾った。
もう一度、
白紙を見る。
第一層。
紙。
第二層。
記録。
第三層。
認識。
第四層。
存在履歴。
その下。
昨日見えた、
「未完成」。
今日は違った。
「名称:完了」
次。
「関係:完了」
次。
「記憶:転送中」
次。
「感情:照合中」
私は息を止めた。
さらに下。
「外形:不要」
私はルーペを離した。
昨日、
真意さんの顔を思い出せなくなった。
不要だから。
そう書かれていた。
では、
本当に不要だったのか。
誰にとって。
私は、
紙にペンを置いた。
書こうとした。
止めた。
調べるな。
自分で決めたばかりだった。
でも、
ひとつだけ。
ひとつだけなら。
私は書いた。
「真意さんは人間です」
文字は残った。
一秒。
二秒。
三秒。
その下に、
返事。
「分類競合」
私はペンを離した。
次。
「既存分類」
処理対象。
次。
「追加分類」
人間。
次。
「優先判定」
空欄。
私は紙を見つめた。
やめればよかった。
名前だけが来た。
関係も来た。
記憶も来ている。
感情も。
そして、
私が、
人間という分類まで送った。
私が、
真意さんを作っている。
「ごめんなさい」
返事はなかった。
私は紙を伏せた。
今度こそ、
何も見ない。
部屋の灯りを消した。
ベッドに入った。
目を閉じた。
しばらくして、
廊下で音がした。
椅子が、
床を擦る音。
ギィ。
少し間。
もう一度。
ギィ。
誰かが、
椅子へ座った音だった。
私は起きなかった。
見ない。
確認しない。
名前も呼ばない。
ただ、
布団の中で待った。
そのうち、
音は止んだ。
朝。
机の向かい側の椅子が、
きれいに収まっていた。
テーブルの上には、
コップが二つ。
一つは、
昨日私が使ったもの。
もう一つには、
水が半分入っていた。
私は近づかなかった。
床を見る。
ルーペがない。
代わりに、
白紙の上に一行だけあった。
「外形情報を取得しました」
その下に、
もっと小さな文字。
「情報源:本人」
私は、
しばらく意味がわからなかった。
それから、
洗面所へ走った。
鏡を見る。
私がいる。
顔。
髪。
目。
口。
全部、
私。
でも、
鏡の端。
私の肩のすぐ後ろに、
知らない女の目が、
片方だけ映っていた。
振り返る。
誰もいない。
鏡へ戻る。
もういない。
白紙のところへ戻った。
文字が一行増えていた。
「不足情報:身体」
その下。
「代替可能」
さらに、
一行。
「食材検索開始」




