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第七話「名前では足りないことについて」


【私の日記】


帰ってきてから、十三日目。


昨日から、


私は自分の名前を呼んでいる。


朝。


「私」


昼。


「私」


夜。


「私」


馬鹿みたいだと思う。


でも、


名前を呼ぶと、


少し安心する。


それだけは確かだった。


朝食を食べた。


パン。


卵。


コーヒー。


普通の朝。


私はパンを見た。


何も起きない。


昨日まで怖かった。


でも今日は、


少しだけ違った。


パンを食べる。


私は人間。


パンはパン。


それぞれに名前がある。


それだけのこと。


私はそう考えた。


会社へ行った。


駅のホームで、


電車を待っている人たちを見る。


誰も、


自分の名前を呼んでいない。


当たり前だ。


そんな必要はない。


私は昨日まで、


名前を呼ばないと消えてしまうような気がしていた。


でも、


誰もそんなことをしていない。


なら、


名前がなくても存在できる。


そう思った。


少し安心した。


その時、


隣にいた女性が電話をしていた。


「もしもし?」


「うん」


「今、駅」


「名前?」


「……誰?」


女性は電話を切った。


私は何となく聞いていた。


名前を聞かれていたらしい。


でも、


女性は自分の名前を答えなかった。


私はそのことが、


なぜか気になった。


会社に着いた。


仕事を始めた。


メール。


資料。


会議。


いつも通り。


昼休み。


私は同僚と食堂へ行った。


「今日も定食?」


「うん」


「最近ずっと定食だな」


「そうだね」


私は笑った。


食事をした。


何も起きない。


名前を呼ばなくても、


私は存在している。


そう思った。


午後三時。


パソコンの画面に、


一瞬だけ文字が出た。


「真意」


私は手を止めた。


一秒。


それだけだった。


画面は元に戻った。


私は周囲を見た。


誰も気づいていない。


私は画面を閉じた。


もう一度開く。


普通の画面。


私は検索欄に、


「真意」


と入力した。


検索。


結果は、


何も出なかった。


昨日と同じ。


私は少し考えた。


そして、


自分の名前を入力した。


検索結果が出た。


私は、


少しだけ怖くなった。


帰宅した。


机の上に紙があった。


白紙。


私は触らなかった。


しばらく見ていた。


何も起きない。


私は、


自分の名前を言った。


何も起きない。


「真意さん」


何も起きない。


もう一度。


「真意さん」


何も起きない。


三度目。


「真意さん」


紙の中央に、


文字が浮かんだ。


「確認」


私は息を止めた。


続いて、


「接続」


と出た。


私は紙に触れた。


その瞬間、


耳元で声がした。


「……聞こえる?」


私は動けなかった。


「真意さん?」


返事はない。


もう一度、


声がした。


「……聞こえるなら、名前を言って。」


私は、


自分の名前を言った。


すると、


紙に文字が浮かんだ。


「確認。」


次に、


「助手。」


私は、


その文字を見つめた。


「真意さん?」


「……うん。」


返事があった。


私は椅子から立ち上がった。


「本当に真意さん?」


「たぶん。」


「たぶん?」


少し沈黙があった。


「今の私は、


真意という名前を持っている。」


私は息を止めた。


「今の?」


「そう。」


「どういう意味ですか」


「わからない。」


私は、


その答えを聞いて、


少しだけ安心した。


真意さんが、


「わからない」


と言ったからだった。


以前の真意さんなら、


何かを調べて、


仮説を立てて、


答えを出そうとしたはずだ。


でも今は、


わからない。


そう言っている。


「真意さん」


「うん」


「怖いですか」


沈黙。


長かった。


「……うん。」


私は何も言えなかった。


「何が怖いんですか」


「名前。」


「名前?」


「名前があることも。」


「……ないことも?」


「そう。」


私は紙を見た。


「じゃあ、名前を呼べばいいんですか」


「それだけじゃない。」


「どうして?」


真意さんの声が少し小さくなった。


「名前を呼ばれるたびに、


私は戻る。」


「戻る?」


「真意に。」


私は少し安心した。


「じゃあ、ずっと呼びます。」


「やめて。」


私は黙った。


「どうして?」


「戻るたびに、


違うものが消える。」


私は息を止めた。


「何が?」


「わからない。」


少し間があった。


「昨日は、


記憶だった。」


私は、


ノートを見た。


「今日は?」


「感情。」


「……何が消えたんですか」


「怖いという感情。」


私は何も言えなかった。


「だから、


今、


私は少しだけ怖くない。」


「それは……いいことじゃないんですか?」


「わからない。」


真意さんが言った。


「怖いことを怖いと思えなくなったら、


それは、


助かったことになるのかな。」


私は返事ができなかった。


「助手。」


「はい。」


「あなたは、


まだバーガーを覚えてる?」


私は少し迷った。


「はい。」


「味は?」


「……覚えてます。」


「匂いは?」


「覚えてます。」


「食べた時の感覚は?」


「覚えています。」


「じゃあ、


その記憶を大切にして。」


「どうして?」


真意さんは、


少しだけ笑ったような声で言った。


「名前より、


そっちのほうが残るかもしれないから。」


通信が切れた。


私はしばらく、


紙を見ていた。


紙には、


「接続」


とだけ残っていた。


私は、


真意さんの名前を書いた。


真意。


残った。


もう一度。


真意。


残った。


三度目。


真意。


残った。


私は少し安心した。


それから、


その下に、


「怖い」


と書いた。


文字は残った。


「悲しい」


残った。


「嬉しい」


残った。


「覚えている」


残った。


最後に、


「真意さんは怖い」


と書いた。


文字が、


少しだけ揺れた。


そして、


「真意」


だけを残して、


後ろの文字が全部消えた。


私は、


紙を見た。


名前だけが残った。


その時、


ようやくわかった。


名前は、


存在を残す。


でも、


その人を残すとは限らない。


【真意の調査記録】


二十七日目。


助手帰還後、七日。


通信成立。


記録上、


助手からの接続要求を確認。


こちらから接続したのではない。


これは重要。


これまでは、


私が助手を観測していた。


現在、


助手が私を観測している。


観測方向が逆転した。


通信時間、


約三分四十二秒。


音声状態、


不安定。


記憶状態、


不明。


感情状態、


不明。


人格状態、


判定不能。


助手が、


「怖いですか」


と質問した。


私は、


「うん」


と答えた。


これは記録しておく。


怖い。


私は、


まだ怖い。


しかし、


同時に、


恐怖が減っている。


原因は不明。


正確には、


「怖い」という感情を認識する時間が短くなっている。


以前は、


処理対象になることを考えるだけで、


手が震えた。


今は、


考えても、


少ししか震えない。


これは改善ではない。


そう判断した。


なぜなら、


恐怖がなくなった理由が、


「安全になったから」


ではないからだ。


仮説。


感情そのものが、


保存対象へ変換されている。


恐怖。



情報。



記録。



固定。


もしそうなら、


恐怖を失うことは、


恐怖から解放されることではない。


恐怖が、


私から切り離されることになる。


私は、


それを嫌だと思った。


しかし、


「嫌だ」


という感情も、


いつか消えるのかもしれない。


私は、


自分の名前を書いた。


真意。


その下に、


一行。


「私は怖い。」


さらに一行。


「私は嫌だ。」


さらに一行。


「私は変わりたい。」


文字はすべて残った。


私は、


最後に一つだけ書いた。


「私は、まだ決めていない。」


その文字だけ、


白紙に残らなかった。


私は、


しばらく何もせずに座っていた。


そして、


初めて理解した。


白紙が消しているのは、


間違った言葉ではない。


確定した言葉でもない。


もしかすると、


「変化できる言葉」なのかもしれない。


「真意」


は名前。


名前は、


今の私を固定する。


だから残る。


「私は怖い」


は、


今の状態。


だから、


まだ残せる。


しかし、


「私は、まだ決めていない」


は違う。


これは、


未来そのものだ。


白紙に残せないのなら、


私は、


未来を記録できない。


そのことが、


怖かった。


タイプライターを見た。


私は、


手を伸ばした。


そして、


打たなかった。


【私の日記】


夜。


私は今日のことを考えた。


真意さんと話した。


本当に話したのかは、


まだわからない。


でも、


声は聞こえた。


真意さんは、


怖いと言った。


そして、


怖くなくなってきていると言った。


それが、


一番怖かった。


私は、


名前を呼べば助けられると思った。


でも、


違った。


名前を呼ぶ。



存在が安定する。



でも、


別のものが消える。


なら、


どうすればいい。


私は考えた。


考えて。


考えて。


考えた。


そして、


一つだけ、


思いついた。


名前を呼ばない。


それも違う。


名前を呼ぶだけでも、


足りない。


なら、


名前を呼びながら、


名前以外のものも覚えている。


真意さんが、


怖かったこと。


笑ったこと。


わからないと言ったこと。


調査を続けたこと。


私を助けたこと。


白紙を嫌がったこと。


タイプライターを打ったこと。


ルーペを持っていたこと。


それらを全部、


覚えておく。


名前が残るから、


その人が残るのではない。


名前以外のものが残っているから、


その名前に意味がある。


私は、


そう思った。


紙を一枚出した。


何も書かない。


ただ、


声に出した。


「真意さん。」


紙には何も起きない。


もう一度。


「真意さん。」


何も起きない。


三度目。


「真意さん。」


何も起きない。


でも、


私はもう、


それでいいと思った。


その時、


部屋のどこかで、


タイプライターが鳴った。


カタ。


一文字。


私は振り返らなかった。


紙を見る。


何もない。


それでも、


私は言った。


「おやすみなさい、真意さん。」


少しして、


紙の端に、


小さな文字が浮かんだ。


「おやすみ。」


私は、


その文字を消さなかった。


消えるまで、


見ていた。

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