第六話「名前を呼ぶことについて」
【私の日記】
帰ってきてから、十二日目。
昨日の朝。
紙に、
「肉」
と書かれていた。
今日は、
何も書かれていなかった。
私は少し安心した。
紙は普通の白紙だった。
何も起きない。
何も書かれない。
それだけで、こんなに安心するとは思わなかった。
私は昨日の紙を捨てようとした。
ゴミ箱を開ける。
中を見る。
紙がない。
確かに入れたはずだった。
私はゴミ袋を取り出した。
中身を全部出した。
ない。
昨日の紙だけが、
どこにもなかった。
私はしばらく探した。
見つからなかった。
諦めた。
その時、
机の上に紙が一枚あった。
昨日の紙だった。
「肉」
私は紙を見た。
今度は、
文字が少し違っていた。
「肉」
その下に、
小さく、
「未」
と書いてあった。
私は紙を裏返した。
何もない。
表に戻した。
「未」も消えていた。
私はペンを持った。
「私」
と書いた。
文字は残った。
「人間」
と書いた。
残った。
「助手」
と書いた。
残った。
最後に、
自分の名前を書いた。
文字は、
少しだけ震えた。
それでも残った。
私は安心した。
まだ、
名前がある。
その日から、
私は自分の名前を何度も書くようになった。
紙に。
スマホに。
パソコンに。
手帳に。
どれも消えなかった。
私は名前を書いたあと、
必ず声に出した。
「私は、私です」
馬鹿みたいだと思った。
でも、
やめられなかった。
昼休み。
同僚が言った。
「今日、何食べる?」
私は少し考えた。
「名前のついているもの」
「……何それ」
「なんでもない」
私は笑った。
結局、
定食を食べた。
食堂で、
隣の席の人が言った。
「この魚、おいしいな」
その言葉を聞いて、
私は魚を見た。
魚。
名前がある。
魚。
その名前で呼ばれている。
だから、
まだ魚だ。
そんなことを考えている自分がおかしかった。
私は箸を置いた。
午後。
仕事をしていた。
メールを書いている途中で、
自分の名前を入力した。
宛先ではない。
ただ、
検索欄に。
名前を入力する。
検索結果が出る。
会社の記録。
社員情報。
過去のメール。
全部出てくる。
私は安心した。
名前はある。
記録もある。
私はここにいる。
その時、
検索結果の一番下に、
見覚えのない項目が出た。
「分類情報」
私はクリックした。
画面が白くなった。
一瞬だけ、
何も表示されなかった。
その後、
黒い文字が一行だけ出た。
「人間」
私は息を吐いた。
正常。
そう思った。
でも、
その下に、
もう一行あった。
「食材候補」
私は画面を閉じた。
すぐに開き直した。
何もない。
検索結果は普通だった。
分類情報もない。
私は何度も確認した。
何もない。
見間違いだった。
そう思った。
帰宅した。
玄関を開ける。
いつもの部屋。
いつもの机。
いつもの椅子。
私は靴を脱いだ。
そして、
何となく、
玄関の鏡を見た。
自分が映っている。
普通だった。
私は鏡に向かって、
自分の名前を言った。
「私は――」
そこで、
声が止まった。
名前が出てこなかった。
私は固まった。
もう一度。
「私は――」
出てこない。
頭の中では、
わかっている。
知っている。
でも、
声にしようとすると、
そこだけ空白になる。
私は鏡を見た。
鏡の中の私が、
口を動かした。
私より先に。
名前を言った。
私は聞き取れなかった。
私は鏡を殴った。
割れなかった。
手が痛かった。
鏡の中の私を見る。
今度は、
ちゃんと私が動いている。
私は何度も名前を言った。
今度は言えた。
一度。
二度。
三度。
言える。
言える。
私はその場に座り込んだ。
その夜。
私はノートを開いた。
真意さんの調査記録。
ページをめくる。
文字を追う。
「迷入者」
「助手」
「未確定」
「帰還」
「処理対象」
「保留中」
そして、
「食材」。
私はそこまで読んで、
ノートを閉じた。
もう読みたくなかった。
でも、
最後のページが勝手に開いた。
白紙。
何もない。
私はペンを置いた。
触らない。
書かない。
何も起こさない。
そう思った。
数秒後。
文字が浮かんだ。
「名前を呼んで。」
私は息を止めた。
その下に、
「早く。」
と出た。
私は、
自分の名前を言った。
一度。
何も起きない。
もう一度。
何も起きない。
三度目。
白紙の文字が消えた。
代わりに、
「確認」
と出た。
私は少し安心した。
そして、
その下に、
別の文字が出た。
「人間」
私は息を吐いた。
まだ。
まだ大丈夫。
その時、
紙の端に、
小さな文字が浮かんだ。
「真意」
私は固まった。
自分の名前ではない。
真意さんの名前。
私はその文字を見つめた。
すると、
「真意」
の下に、
もう一行。
「確認できません」
私は、
その文字を見ていることしかできなかった。
【真意の調査記録】
二十六日目。
助手帰還後、六日。
本日、
助手側からの反応を確認。
白紙への文字入力ではなく、
音声による認識反応。
助手が自分の名前を発声すると、
白紙の一部が安定する。
名前。
識別子ではない。
存在分類を維持するための情報である可能性が高い。
仮説。
名前を失う。
↓
分類が不安定になる。
↓
「人間」という分類から、
別の分類へ遷移する。
↓
処理対象。
↓
食材。
↓
バーガー化。
この仮説は、
まだ確定できない。
しかし、
第三層「認識」と第四層「存在履歴」の間で、
何らかの接続が発生している可能性がある。
私はここで記録を止めた。
「食材」という文字を書くことに、
強い抵抗があった。
理由は、
自分でもわかっている。
以前、
私は助手に、
「処理対象になったことを怖いと思う?」
と聞かれた。
私は、
「思っている」
と答えた。
あの時、
私は嘘をついていない。
ただし、
本当のことを全部言ったわけでもない。
怖いのは、
バーガーになることだけではない。
名前がなくなること。
分類されること。
「真意」という名前が、
別の言葉に置き換えられること。
そして、
その置き換えが完了した後、
「真意だったもの」が、
完全に保存されること。
保存される。
そう書いたところで、
私はタイプライターから手を離した。
保存。
消えない。
失われない。
忘れられない。
それなら、
良いことではないのか。
私は少し考えた。
違う。
違うと思う。
私は、
変わりたい。
まだ、
調べたい。
まだ、
間違いたい。
まだ、
知らないものを知りたい。
まだ、
「真意」と呼ばれた時に、
振り向きたい。
完全に保存されるということは、
それ以上、
何者にもなれないということだから。
私は最後に、
一行だけ書いた。
「名前を呼ぶ。」
そして、
その下に、
自分の名前を書いた。
真意。
私はしばらく、
その文字を見ていた。
消えなかった。
【私の日記】
夜。
私は机の前に座っていた。
自分の名前を書いた紙。
その横に、
真意さんの名前を書いた紙。
二枚並べた。
どちらも消えない。
私は少し安心した。
でも、
しばらくして、
気づいた。
真意さんの紙だけ、
少し重い。
持ち上げた。
紙そのものが重いわけではない。
何かが入っているような感触があった。
私は裏返した。
何もない。
表に戻した。
文字が変わっていた。
「真意」
ではなく、
「真」。
私は息を止めた。
一文字しか残っていない。
私は慌てて、
「真意」
と書き直した。
残った。
でも、
数秒後。
「真」
になった。
私はもう一度書く。
「真意」。
「真」。
また書く。
「真意」。
「真」。
何度やっても、
同じだった。
私は、
その紙を握った。
そして、
声に出した。
「真意さん」
紙の文字が、
一瞬だけ、
「真意」
に戻った。
私はもう一度言った。
「真意さん」
戻った。
三度目。
「真意さん」
今度は、
文字が消えなかった。
私は少しだけ笑った。
その時、
部屋の隅から、
タイプライターの音が聞こえた。
カタ。
カタ。
カタ。
私は振り返らなかった。
音は続いた。
カタ。
カタ。
カタ。
そして、
最後に一文字。
「肉」。
私は紙を見た。
そこには、
「真意」
と書かれている。
私はその文字を見ながら、
なぜか思った。
名前を呼べば、
人間でいられる。
そういうことなのかもしれない。
でも、
それなら。
名前を呼んでくれる人がいなくなったら、
どうなるのだろう。
その瞬間、
紙の下に、
新しい文字が浮かんだ。
「だから、まだ。」
私は息を止めた。
それが、
真意さんの言葉なのか。
白紙の言葉なのか。
私にはわからなかった。
ただ、
その一文字だけは、
しばらく消えなかった。
「まだ。」
私は紙を閉じた。
そして、
眠る前に、
もう一度だけ、
名前を呼んだ。
「真意さん。」
返事はなかった。
でも、
どこか遠くで、
タイプライターが一度だけ鳴った。
カタ。
それだけだった。




