↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
26/30

第六話「名前を呼ぶことについて」


【私の日記】


帰ってきてから、十二日目。


昨日の朝。


紙に、


「肉」


と書かれていた。


今日は、


何も書かれていなかった。


私は少し安心した。


紙は普通の白紙だった。


何も起きない。


何も書かれない。


それだけで、こんなに安心するとは思わなかった。


私は昨日の紙を捨てようとした。


ゴミ箱を開ける。


中を見る。


紙がない。


確かに入れたはずだった。


私はゴミ袋を取り出した。


中身を全部出した。


ない。


昨日の紙だけが、


どこにもなかった。


私はしばらく探した。


見つからなかった。


諦めた。


その時、


机の上に紙が一枚あった。


昨日の紙だった。


「肉」


私は紙を見た。


今度は、


文字が少し違っていた。


「肉」


その下に、


小さく、


「未」


と書いてあった。


私は紙を裏返した。


何もない。


表に戻した。


「未」も消えていた。


私はペンを持った。


「私」


と書いた。


文字は残った。


「人間」


と書いた。


残った。


「助手」


と書いた。


残った。


最後に、


自分の名前を書いた。


文字は、


少しだけ震えた。


それでも残った。


私は安心した。


まだ、


名前がある。


その日から、


私は自分の名前を何度も書くようになった。


紙に。


スマホに。


パソコンに。


手帳に。


どれも消えなかった。


私は名前を書いたあと、


必ず声に出した。


「私は、私です」


馬鹿みたいだと思った。


でも、


やめられなかった。


昼休み。


同僚が言った。


「今日、何食べる?」


私は少し考えた。


「名前のついているもの」


「……何それ」


「なんでもない」


私は笑った。


結局、


定食を食べた。


食堂で、


隣の席の人が言った。


「この魚、おいしいな」


その言葉を聞いて、


私は魚を見た。


魚。


名前がある。


魚。


その名前で呼ばれている。


だから、


まだ魚だ。


そんなことを考えている自分がおかしかった。


私は箸を置いた。


午後。


仕事をしていた。


メールを書いている途中で、


自分の名前を入力した。


宛先ではない。


ただ、


検索欄に。


名前を入力する。


検索結果が出る。


会社の記録。


社員情報。


過去のメール。


全部出てくる。


私は安心した。


名前はある。


記録もある。


私はここにいる。


その時、


検索結果の一番下に、


見覚えのない項目が出た。


「分類情報」


私はクリックした。


画面が白くなった。


一瞬だけ、


何も表示されなかった。


その後、


黒い文字が一行だけ出た。


「人間」


私は息を吐いた。


正常。


そう思った。


でも、


その下に、


もう一行あった。


「食材候補」


私は画面を閉じた。


すぐに開き直した。


何もない。


検索結果は普通だった。


分類情報もない。


私は何度も確認した。


何もない。


見間違いだった。


そう思った。


帰宅した。


玄関を開ける。


いつもの部屋。


いつもの机。


いつもの椅子。


私は靴を脱いだ。


そして、


何となく、


玄関の鏡を見た。


自分が映っている。


普通だった。


私は鏡に向かって、


自分の名前を言った。


「私は――」


そこで、


声が止まった。


名前が出てこなかった。


私は固まった。


もう一度。


「私は――」


出てこない。


頭の中では、


わかっている。


知っている。


でも、


声にしようとすると、


そこだけ空白になる。


私は鏡を見た。


鏡の中の私が、


口を動かした。


私より先に。


名前を言った。


私は聞き取れなかった。


私は鏡を殴った。


割れなかった。


手が痛かった。


鏡の中の私を見る。


今度は、


ちゃんと私が動いている。


私は何度も名前を言った。


今度は言えた。


一度。


二度。


三度。


言える。


言える。


私はその場に座り込んだ。


その夜。


私はノートを開いた。


真意さんの調査記録。


ページをめくる。


文字を追う。


「迷入者」


「助手」


「未確定」


「帰還」


「処理対象」


「保留中」


そして、


「食材」。


私はそこまで読んで、


ノートを閉じた。


もう読みたくなかった。


でも、


最後のページが勝手に開いた。


白紙。


何もない。


私はペンを置いた。


触らない。


書かない。


何も起こさない。


そう思った。


数秒後。


文字が浮かんだ。


「名前を呼んで。」


私は息を止めた。


その下に、


「早く。」


と出た。


私は、


自分の名前を言った。


一度。


何も起きない。


もう一度。


何も起きない。


三度目。


白紙の文字が消えた。


代わりに、


「確認」


と出た。


私は少し安心した。


そして、


その下に、


別の文字が出た。


「人間」


私は息を吐いた。


まだ。


まだ大丈夫。


その時、


紙の端に、


小さな文字が浮かんだ。


「真意」


私は固まった。


自分の名前ではない。


真意さんの名前。


私はその文字を見つめた。


すると、


「真意」


の下に、


もう一行。


「確認できません」


私は、


その文字を見ていることしかできなかった。


【真意の調査記録】


二十六日目。


助手帰還後、六日。


本日、


助手側からの反応を確認。


白紙への文字入力ではなく、


音声による認識反応。


助手が自分の名前を発声すると、


白紙の一部が安定する。


名前。


識別子ではない。


存在分類を維持するための情報である可能性が高い。


仮説。


名前を失う。



分類が不安定になる。



「人間」という分類から、


別の分類へ遷移する。



処理対象。



食材。



バーガー化。


この仮説は、


まだ確定できない。


しかし、


第三層「認識」と第四層「存在履歴」の間で、


何らかの接続が発生している可能性がある。


私はここで記録を止めた。


「食材」という文字を書くことに、


強い抵抗があった。


理由は、


自分でもわかっている。


以前、


私は助手に、


「処理対象になったことを怖いと思う?」


と聞かれた。


私は、


「思っている」


と答えた。


あの時、


私は嘘をついていない。


ただし、


本当のことを全部言ったわけでもない。


怖いのは、


バーガーになることだけではない。


名前がなくなること。


分類されること。


「真意」という名前が、


別の言葉に置き換えられること。


そして、


その置き換えが完了した後、


「真意だったもの」が、


完全に保存されること。


保存される。


そう書いたところで、


私はタイプライターから手を離した。


保存。


消えない。


失われない。


忘れられない。


それなら、


良いことではないのか。


私は少し考えた。


違う。


違うと思う。


私は、


変わりたい。


まだ、


調べたい。


まだ、


間違いたい。


まだ、


知らないものを知りたい。


まだ、


「真意」と呼ばれた時に、


振り向きたい。


完全に保存されるということは、


それ以上、


何者にもなれないということだから。


私は最後に、


一行だけ書いた。


「名前を呼ぶ。」


そして、


その下に、


自分の名前を書いた。


真意。


私はしばらく、


その文字を見ていた。


消えなかった。


【私の日記】


夜。


私は机の前に座っていた。


自分の名前を書いた紙。


その横に、


真意さんの名前を書いた紙。


二枚並べた。


どちらも消えない。


私は少し安心した。


でも、


しばらくして、


気づいた。


真意さんの紙だけ、


少し重い。


持ち上げた。


紙そのものが重いわけではない。


何かが入っているような感触があった。


私は裏返した。


何もない。


表に戻した。


文字が変わっていた。


「真意」


ではなく、


「真」。


私は息を止めた。


一文字しか残っていない。


私は慌てて、


「真意」


と書き直した。


残った。


でも、


数秒後。


「真」


になった。


私はもう一度書く。


「真意」。


「真」。


また書く。


「真意」。


「真」。


何度やっても、


同じだった。


私は、


その紙を握った。


そして、


声に出した。


「真意さん」


紙の文字が、


一瞬だけ、


「真意」


に戻った。


私はもう一度言った。


「真意さん」


戻った。


三度目。


「真意さん」


今度は、


文字が消えなかった。


私は少しだけ笑った。


その時、


部屋の隅から、


タイプライターの音が聞こえた。


カタ。


カタ。


カタ。


私は振り返らなかった。


音は続いた。


カタ。


カタ。


カタ。


そして、


最後に一文字。


「肉」。


私は紙を見た。


そこには、


「真意」


と書かれている。


私はその文字を見ながら、


なぜか思った。


名前を呼べば、


人間でいられる。


そういうことなのかもしれない。


でも、


それなら。


名前を呼んでくれる人がいなくなったら、


どうなるのだろう。


その瞬間、


紙の下に、


新しい文字が浮かんだ。


「だから、まだ。」


私は息を止めた。


それが、


真意さんの言葉なのか。


白紙の言葉なのか。


私にはわからなかった。


ただ、


その一文字だけは、


しばらく消えなかった。


「まだ。」


私は紙を閉じた。


そして、


眠る前に、


もう一度だけ、


名前を呼んだ。


「真意さん。」


返事はなかった。


でも、


どこか遠くで、


タイプライターが一度だけ鳴った。


カタ。


それだけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。