第五話「身体について」
【私の日記】
帰ってきてから、十一日目。
朝起きて、
最初に思ったことは、
「身体はある」
だった。
昨日からずっと、
それを確認している。
手。
足。
顔。
髪。
爪。
心臓。
全部ある。
鏡を見る。
私がいる。
普通だ。
何も変わっていない。
だから今日は、
身体を調べることにした。
最初に体重を測った。
昨日とほとんど同じ。
少し安心した。
次に身長。
変わっていない。
脈拍。
正常。
体温。
正常。
血圧。
正常。
私はスマホのメモに書いた。
「身体に明らかな異常なし」
書き終わったところで、
少し嫌な感じがした。
「明らかな」
という言葉を使ったからだ。
明らかではない異常なら、
あるかもしれない。
私はメモを消した。
もう一度書いた。
「身体に異常なし」
今度は消さなかった。
会社へ行った。
いつも通り仕事をした。
昼休み。
同僚と食事をした。
今日は定食だった。
ご飯。
味噌汁。
焼き魚。
普通だった。
食べ終わった。
私は箸を置いた。
その時、
ふと思った。
昨日から、
食べることを怖がっている。
でも、
何を食べても何も起きない。
パンも。
ご飯も。
肉も。
野菜も。
全部普通だ。
私は安心した。
それから、
少し考えた。
「食べられるもの」
という言葉について。
ぱんでむでは、
人間も、
感情も、
記憶も、
食べられる。
でも、
ここでは違う。
そう思った。
ここは普通の世界だ。
バーガーがない世界。
ぱんでむがない世界。
だから、
大丈夫なのだと思った。
午後。
会社の健康管理システムを開いた。
過去の健康診断結果を見る。
身長。
体重。
血液検査。
視力。
聴力。
全部残っている。
去年の結果。
一昨年の結果。
さらにその前。
私は一つずつ確認した。
名前。
生年月日。
社員番号。
全部同じ。
私は安心した。
私は、
私だった。
でも、
一つだけおかしかった。
健康診断の画像データ。
胸部レントゲン。
去年のものを開いた。
自分の身体が写っている。
普通だった。
今年のもの。
普通だった。
そして、
帰ってきた後に撮影されたもの。
当然、そんなものはない。
私はそこで気づいた。
帰ってきてから、
健康診断を受けていない。
当たり前だ。
まだそんな時期ではない。
私は画像を閉じた。
帰宅してから、
スマホの写真を見た。
自分の顔。
昨日。
一昨日。
今日。
並べた。
変化はない。
でも、
一枚だけ気になった。
帰ってきた翌日の写真。
私は駅前に立っている。
普通の写真。
その写真の中で、
私の手だけが少しぼやけていた。
手ブレだと思った。
拡大した。
手だけではなかった。
腕。
肩。
身体の輪郭。
全部少しだけぼやけている。
顔は鮮明だった。
私は写真を閉じた。
もう一度開いた。
今度は、
身体全体が鮮明だった。
顔だけがぼやけていた。
私はスマホを置いた。
その夜。
私は紙を一枚出した。
「私はここにいる」
と書いた。
文字は消えなかった。
次に、
「私は人間である」
と書いた。
これも消えなかった。
少し安心した。
そして、
「私は帰還した」
と書いた。
残った。
昨日までなら、
ここで終わっていた。
でも今日は、
もう一つ書いた。
「私は、帰還した場所に存在する」
文字は、
書いた瞬間に薄くなった。
私は手を止めた。
数秒後。
消えた。
私はその紙を見つめた。
「帰還した」
は残る。
「帰還した場所に存在する」
は消える。
つまり、
出来事は残る。
場所は残らない。
私はもう一枚紙を出した。
今度は、
「私は渋谷にいる」
と書いた。
残った。
「私は自宅にいる」
残った。
「私はこの世界にいる」
少し薄くなった。
でも残った。
最後に、
「私は、帰ってきた」
と書いた。
残った。
私は少し笑った。
何も問題ない。
そう思った。
その瞬間。
紙の下に、
小さな文字が浮かんだ。
「どこから?」
私は笑うのをやめた。
【真意の調査記録】
二十五日目。
助手帰還後、五日。
本日、
助手の存在状態について再確認。
現在確認できるもの。
身体。
記憶。
名前。
生活履歴。
社会的記録。
これらはすべて正常。
現時点で、
身体的異常は確認できない。
しかし、
一点だけ問題がある。
「帰還元」が存在しない。
助手は、
ぱんでむから帰還した。
これは記録されている。
しかし、
「どこから帰還したか」
を記録しようとすると、
対象が存在しない。
ぱんでむ?
違う。
正確には、
ぱんでむという名称は、
助手の記憶には存在する。
しかし現在の世界側の記録には存在しない。
検索不能。
住所不能。
映像記録不能。
地図情報不能。
したがって、
「ぱんでむから帰還した」
という文章だけが成立し、
「ぱんでむという場所から帰還した」
という文章は成立しない。
これは矛盾している。
私はルーペを使った。
白紙を見る。
一層目。
記録。
二層目。
記憶。
三層目。
認識。
四層目。
存在履歴。
ここまでは以前と同じ。
だが、
助手についてだけ、
四層目に空白がある。
私はしばらく見ていた。
空白の中に、
薄い文字があった。
「到着」
その文字は、
すぐに消えた。
代わりに、
「帰還」
と出た。
そして、
「未確認」。
私はタイプライターを止めた。
帰還した。
到着していない。
そんなことが可能なのか。
普通なら不可能。
しかし、
ここは普通ではない。
問題は、
なぜ身体だけが存在しているのか。
私は仮説を立てる。
仮説A。
助手は本当に帰還した。
しかし帰還元だけが失われた。
仮説B。
助手は別の世界線へ到着した。
その世界線が現在の世界と完全に一致しているため、
本人だけでは区別できない。
仮説C。
助手は帰還したのではなく、
「帰還した状態」が生成された。
仮説D。
助手の身体は帰還した。
しかし、
存在履歴は帰還していない。
仮説E。
「助手」という存在だけが帰還した。
人間としての履歴は、
別の場所に残っている。
現時点では、
どれも否定できない。
ただし、
一つだけ共通している。
「到着」という証拠がない。
私は、
その言葉を記録した。
その時。
タイプライターのキーが一つだけ沈んだ。
私は触れていない。
カタ。
紙が動いた。
新しい文字が出た。
「食材」。
私は息を止めた。
その文字の下に、
さらに一文字。
「未」。
そして、
二文字。
「未処理」。
私はタイプライターを見た。
「処理対象:確定」
ではない。
「未処理」。
私はルーペを取った。
白紙を見る。
四層目。
「未処理」
その文字は確かに存在していた。
その下に、
もっと小さい文字。
「身体」
私は目を凝らした。
その下。
「記憶」
さらに、
「感情」
さらに、
「名前」
そして最後に、
「存在履歴」。
私は手を止めた。
全部、
まだ処理されていない。
では、
何が処理されたのか。
私はルーペをさらに近づけた。
一番下に、
小さな文字があった。
「帰還」。
私はしばらく、
その意味を考えた。
帰還だけが、
処理されている。
私は、
初めて怖くなった。
【私の日記】
その夜。
私は鏡の前に立った。
自分を見る。
普通だった。
身体もある。
顔もある。
名前もある。
記憶もある。
私は指を一本ずつ動かした。
動く。
私は声を出した。
「私はここにいる」
声が返ってくる。
普通だった。
私は鏡に手を当てた。
鏡の中の私も、
同じように手を当てた。
私は少し安心した。
その時、
鏡の中の私が、
ほんの少しだけ笑った。
私は笑っていなかった。
私は手を離した。
鏡の中の私も手を離した。
もう一度見る。
普通の私。
何もおかしくない。
気のせいだった。
そう思った。
ベッドに入った。
電気を消した。
目を閉じる。
しばらくして、
眠気が来た。
その直前。
耳元で、
声がした。
「……身体は、帰ってる。」
私は目を開けた。
部屋には誰もいない。
声は続かなかった。
私は布団の中で、
動けなかった。
しばらくして、
もう一度、
声がした。
今度は、
真意さんだった。
「……だから、まだ調べられる。」
私は息を止めた。
「真意さん?」
返事はない。
代わりに、
タイプライターの音がした。
カタ。
カタ。
カタ。
そして、
最後に一文字。
「名」。
そこで音が止まった。
翌朝。
机の上に紙があった。
白紙だった。
私は紙を持ち上げた。
何も書かれていない。
裏も白い。
でも、
昨日までと違った。
紙を持っている私の手に、
白い粉がついていた。
私は指先を見た。
粉をこすった。
落ちない。
匂いを嗅いだ。
何の匂いかわからない。
でも、
どこかで嗅いだことがある。
甘い。
少し塩辛い。
そして、
焼けた匂い。
私は、
紙を見た。
その瞬間、
白紙の中央に、
一文字だけ浮かんだ。
「肉」。
私は紙を落とした。




