第四話「帰還を確認することについて」
【私の日記】
帰ってきてから、十日目。
今日は、帰ってきたことを確認することにした。
今まで、確認していなかった。
渋谷にいる。
家にいる。
会社にも行っている。
同僚もいる。
スマホも使える。
電車にも乗れる。
だから帰ってきたのだと思っていた。
でも。
真意さんの記録には、
「帰還」
と書かれていた。
その下には、
「確認」
と書かれていた。
そして第二部になってから、その言葉が何度も出てくる。
「帰還」
「未確認」
私はそれが気になった。
朝。
駅へ向かった。
いつもの道だった。
コンビニ。
交差点。
信号。
駅前の看板。
何も変わっていない。
私は駅前で立ち止まった。
自分がここにいることを確認する。
足元を見る。
靴。
道路。
影。
影がある。
私は少し安心した。
影があるなら、少なくとも光の中にいる。
そう思った。
でも。
その瞬間、
影が一秒だけ遅れて動いた。
私は立ち止まった。
影も止まった。
右手を上げた。
影も上げた。
もう一度、右手を上げた。
今度は同時だった。
気のせいだった。
そういうことにした。
会社へ行った。
午前中は普通だった。
昼休み。
私は同僚に聞いた。
「私、二十日前って何してました?」
「急だな」
「覚えてます?」
「仕事してたんじゃない?」
「会社にいました?」
「たぶん」
「たぶん?」
「二十日前のことなんて覚えてないよ」
そう言って笑った。
私は笑えなかった。
「じゃあ、昨日は?」
「昨日?」
「昨日、私と話しましたよね」
「話したよ」
「何を話しました?」
同僚は少し考えた。
「仕事の話」
「具体的には?」
「……そこまで覚えてないな」
私は謝った。
「変なこと聞いてすみません」
「寝不足?」
「そうかもしれません」
同僚はそれ以上聞かなかった。
午後。
会社の端末から、自分の勤怠記録を確認した。
二十日前。
出勤。
退勤。
その翌日も。
出勤。
退勤。
ずっと続いている。
私は画面を見た。
二十日前から今日まで、
私は毎日、ここにいたことになっていた。
欠勤はない。
遅刻もない。
休憩時間も正常。
完璧だった。
私は少し安心した。
そして、
その安心が怖かった。
帰宅してから、
昔の写真を探した。
スマホ。
クラウド。
パソコン。
外付けの記憶媒体。
二十日前。
渋谷。
写真があった。
私は開いた。
駅前の写真。
何気ない風景。
人が歩いている。
信号。
店。
そして、
自分。
私は画面を拡大した。
そこに自分がいた。
確かにいた。
二十日前の自分。
普通の顔。
普通の服。
普通に立っている。
私は画面を閉じた。
それから、
もう一度開いた。
写真の端に、
小さな店が写っていた。
赤い看板。
私は知らない店だった。
でも、
なぜか見覚えがあった。
拡大した。
文字を読もうとした。
読めない。
文字がぼやけている。
何度拡大しても、
そこだけ解像度が上がらなかった。
私はスクリーンショットを撮った。
保存。
画像を開く。
今度は、
店そのものが消えていた。
道路だけになっていた。
私は画面を見た。
写真には何もおかしなところがない。
最初から店など存在しなかったように見える。
ただ、
私の指先だけが震えていた。
その夜。
ノートを開いた。
真意さんの調査記録。
二十日目。
最後のページ。
「助手、帰還。」
私はその文字を見た。
その下に、
「白紙を読んだ。」
「出口を通った。」
「帰れた。」
そして、
「処理対象タグ:保留中」
私はそこで止まった。
保留中。
私が帰ったから、
真意さんは保留になった。
そういう意味なのだろうか。
私はページをめくった。
次のページは白紙だった。
何もない。
私はペンを持った。
「帰還」
と書いた。
文字は残った。
「帰還を確認した」
と書いた。
残った。
「私はここにいる」
と書いた。
残った。
私は少し笑った。
何を書いても消えない。
だから、
最後に一つ書いた。
「バーガー」
書いた。
数秒後。
文字が薄くなった。
私は手を止めた。
消えないでほしいと思った。
でも、
文字は少しずつ薄くなった。
「バー」
になった。
それから、
「バ」
になった。
最後には何もなくなった。
私はペンを置いた。
そして気づいた。
「帰還」は消えなかった。
「私はここにいる」も消えなかった。
「バーガー」だけが消えた。
つまり、
世界が消しているのは、
私ではない。
私が覚えているものの一部だけだ。
その瞬間。
紙に文字が浮かんだ。
「確認」
私は息を止めた。
次に、
「帰還」
その下に、
「未確認」
私は紙を見た。
「帰還」
「未確認」
矛盾している。
私はペンを取った。
「私は帰ってきた」
と書いた。
その文字の下に、
新しい文字が浮かんだ。
「誰が?」
私はペンを止めた。
「私です」
そう書いた。
返事はなかった。
代わりに、
「誰の記録に?」
と浮かんだ。
私は何も書けなかった。
【真意の調査記録】
二十四日目。
助手帰還後、四日。
本日、白紙に変化。
文字列:
「確認」
その後、
「帰還」
さらに、
「未確認」
三つの文字列が同一時間帯に存在した。
矛盾している。
通常なら修正されるはずだが、
修正されない。
これは重要。
「未確定」と似ているが、
同じではない。
「未確定」は、
対象そのものの分類が成立していない。
今回の「未確認」は、
対象の存在は想定されているが、
その状態を確認できない。
つまり、
助手は「存在していない」のではない。
存在している。
しかし、
「帰還した」という事実だけが、
確認できない。
私はそう判断した。
記録を続ける。
助手の帰還を確認するため、
出口の記録を再確認。
二十日目。
光が開いた。
助手が入った。
光が閉じた。
以上。
「帰還先」の記録はない。
これは以前から気づいていた。
しかし今日、
別の記録を発見した。
出口の記録の直前。
白紙の下層。
そこに、
一行だけ存在していた。
「帰還先:記録対象外」
私はルーペを下ろした。
記録対象外。
つまり、
帰還先がわからないのではない。
「帰還先」という項目そのものが、
記録する対象として認められていない。
なぜか。
理由は不明。
私はタイプライターに向かった。
「助手は帰還した。」
と打った。
文字は残った。
「助手は渋谷に到着した。」
と打った。
文字は残った。
「助手は帰還した。」
と、
「助手は渋谷に到着した。」
は、
同じ意味ではない。
前者は、
「どこかから帰った」
という出来事。
後者は、
「渋谷に到着した」
という場所の事実。
私はそこで手を止めた。
もし、
助手が本当に帰還したのなら、
帰還先が存在するはずだ。
しかし、
帰還先が記録対象外なら、
私はまだ、
助手がどこへ帰ったのか知らない。
ルーペを白紙に向けた。
下層を見る。
文字があった。
「助手」
その下。
「帰還」
その下。
「未確認」
そして、
さらに深い層。
以前は見えなかった。
私はゆっくりルーペを動かした。
そこに一文字だけあった。
「未」
私は息を止めた。
「未確定」とは違う。
「未確認」とも違う。
ただ、
「未」。
私はしばらく、その文字を見ていた。
その時、
机の上のタイプライターが、
勝手に動いた。
カタ。
一文字。
カタ。
もう一文字。
私は手を伸ばさなかった。
止めなかった。
ただ見ていた。
タイプライターが、
一行を書いた。
「真意は、帰還していない。」
私は動けなかった。
その下に、
もう一行。
「帰還したのは、助手だけではない。」
私はルーペを落とした。
床に当たった。
乾いた音がした。
私は拾おうとした。
でも、
その前に、
白紙の上へ新しい文字が浮かんだ。
「食べ頃」
私は文字を見た。
前よりも、
ずっと怖かった。
【私の日記】
その夜。
私は眠れなかった。
「帰還したのは、助手だけではない。」
あの言葉が頭から離れない。
私は自分の身体を確認した。
手。
足。
顔。
心臓。
全部ある。
普通だ。
何も変わっていない。
私は鏡を見た。
自分が映っている。
鏡の中の自分も、
こちらを見ている。
私は手を上げた。
鏡の中も上げた。
笑った。
鏡の中も笑った。
安心した。
そして、
鏡の端に、
白いものが見えた。
紙だった。
私の後ろに、
白紙が一枚、
浮かんでいた。
振り返った。
何もない。
鏡を見る。
まだある。
私は鏡に近づいた。
白紙に、
一文字だけ書いてあった。
「真」
私はその文字を見た。
次の瞬間、
「真」が消えた。
代わりに、
「未」
になった。
さらに、
「未」が消えた。
最後に、
何もなくなった。
鏡には、
私だけが映っていた。
私はそのまま電気を消した。
布団に入った。
目を閉じた。
眠れない。
しばらくして、
タイプライターの音が聞こえた。
カタ。
カタ。
カタ。
私は目を開けなかった。
怖かったからではない。
見てしまったら、
何かが確定してしまう気がしたからだ。
だから、
聞くだけにした。
カタ。
カタ。
カタ。
最後に、
紙をめくる音。
そして、
小さな声。
今度ははっきり聞こえた。
真意さんの声だった。
「……まだ、書かないで。」
私は目を開けた。
部屋には何もなかった。
でも、
その声だけは、
しばらく消えなかった。




