第三話「食べられるものについて」
【私の日記】
帰ってきてから、九日目。
昨日、紙に「帰還」と書かれていた。
今日は何も書かれていなかった。
朝起きて、机の上を見た。
昨日の紙があった。
「帰還」
「未確認」
その二つの文字は、今朝も残っていた。
でも、その下に新しい文字があった。
「食べ頃」
私はしばらく、その文字を見ていた。
意味がわからなかった。
というより、意味がわかってしまったことが嫌だった。
紙を裏返した。
何もなかった。
表に戻した。
「食べ頃」は消えていた。
私は紙を捨てた。
ゴミ箱に入れた。
少ししてから、また拾った。
理由はわからない。
紙を机の引き出しにしまった。
鍵をかけた。
会社へ行った。
午前中は普通だった。
仕事をしている間は、昨日までのことを考えずに済んだ。
昼休み。
同僚が言った。
「今日、何食べる?」
「パンにする」
「珍しいな」
売店へ行った。
パンを一つ買った。
普通のパンだった。
袋を開けた。
食べた。
普通だった。
でも一口食べたところで、手が止まった。
パンを食べる。
何でもない。
当たり前のこと。
なのに。
なぜか昨日から、食べるという行為そのものが怖くなっていた。
私はパンを見た。
パンには何もない。
当然だ。
ただのパンだ。
私は笑った。
「……何考えてるんだ」
自分に言った。
それから残りを食べた。
帰宅してから、ノートを開いた。
真意さんの調査記録。
二十日分。
私は昨日から、何度も読み返している。
最初のページ。
「迷入者を確保」
二日目。
三日目。
七百万枚の写真。
未確定。
固定。
首輪。
ランランルー。
白紙。
処理対象。
そして最後。
「助手、帰還。」
その下に、
「調査は続いている。」
私はその文字を指でなぞった。
真意さんは、まだ向こうにいる。
そう思った。
でも同時に、別のことを思った。
真意さんは、
いつまで向こうにいられるのだろう。
処理対象。
その言葉が頭に浮かんだ。
私はノートを閉じた。
もう一度開いた。
最後の記録を見る。
「処理対象タグ:保留中」
保留中。
確定ではない。
まだ。
私は少し安心した。
それから、自分が何に安心したのかに気づいた。
真意さんがまだバーガーになっていないことに、安心した。
そのことが、少し悲しかった。
私は真意さんのことを、帰るまでずっと「調査担当の人」として見ていた。
怖い場所で助けてくれる人。
ルーペを持っている人。
白紙に向かってタイプライターを打っている人。
でも今は、
「まだバーガーになっていない人」
として見ている。
その見方が嫌だった。
夜。
眠る前に、もう一度ノートを開いた。
十三日目の記録。
真意さんは、私にこう言っていた。
「怖い」と。
処理対象になったことを、怖いと思っているかと聞いた時。
「……思っている」
そう答えていた。
私はその後の記録を探した。
見つけた。
そこには、
「恐怖を感じているが、調査を継続する」
と書かれていた。
それだけだった。
でも。
その一文の前に、妙な空白があった。
タイプライターで打たれた文字と文字の間。
普通なら一行で終わるところに、三行分の空白がある。
私はその空白を見た。
何かを書こうとして、やめたように見えた。
私はノートを閉じた。
その夜、夢を見た。
探偵事務所だった。
窓はない。
赤い糸がある。
タイプライターがある。
真意さんが座っている。
でも、いつもの真意さんではなかった。
白い紙を前にして、じっとしている。
私は声をかけた。
「真意さん」
振り返らない。
「真意さん」
タイプライターに手を置いた。
打たない。
しばらくして、真意さんが小さく言った。
「……怖い」
私は何も言えなかった。
「何が怖いんですか」
真意さんが紙を見た。
「名前がなくなること」
「名前」
「真意、という名前も」
少し間があった。
「助手、という名前も」
真意さんが自分の手を見る。
「人間、という名前も」
その手が、少し震えていた。
「全部、食材という名前になる」
私は夢の中で何も言えなかった。
真意さんは笑った。
いつもの笑い方ではなかった。
「だから、調べているの」
「何を」
「まだ名前があるうちに」
そこで夢が終わった。
朝。
私は目を覚ました。
夢だった。
当然、夢だった。
私は顔を洗った。
朝食を食べた。
でも、夢の中の言葉が残っていた。
「まだ名前があるうちに。」
私は真意さんのノートを開いた。
昨日まで気づかなかった。
調査記録のほとんどに、対象の名前が書かれている。
妄執ちゃん。
空無ちゃん。
涅槃ちゃん。
幽玄ちゃん。
懺悔ちゃん。
七百万。
そして、
助手。
真意さんは、私の名前をほとんど書いていない。
ずっと「助手」と書いている。
でも一度だけ。
最初の記録。
「迷入者」
その後、
「助手」
最後には、
「助手、帰還」
名前ではなく、役割。
それが急に怖くなった。
その日の夕方。
ノートの最後のページに、新しい文字が増えていた。
私は書いていない。
昨日まで、
「調査は続いている。」
だった。
その下に一行。
「助手は帰還した。」
さらに一行。
「真意は残っている。」
私はその文字を見た。
少し安心した。
真意さんは残っている。
その意味だけなら、安心できた。
でも。
さらに下に文字が浮かんだ。
「真意は、何として残っている?」
私は息を止めた。
文字が一つずつ増えていく。
「人間」
消えた。
「調査員」
消えた。
「助手」
消えた。
「クルー」
消えた。
最後に、
「食材」
という文字が残った。
私はノートを閉じた。
それ以上は見なかった。
【真意の調査記録】
二十三日目。
助手帰還後、三日。
探偵事務所に異常なし。
……訂正。
異常なし、ではない。
白紙の文章が一行増えた。
「助手は帰還した。」
その下に、
「真意は残っている。」
ここまでは理解できる。
問題は、その次。
「残っている」とは何を意味するのか。
存在しているという意味なのか。
処理されていないという意味なのか。
それとも、
処理された後も記録だけが残っているという意味なのか。
判断できない。
私はルーペを使った。
白紙を読む。
いつも通り。
一層目。
二層目。
三層目。
四層目。
そのさらに下。
以前は見えなかった層。
そこに文字があった。
「処理対象:確定」
まだ消えていない。
私はしばらく見ていた。
その下に、新しい文字が増えた。
「処理時、世界線を圧縮」
さらに、
「人格を情報化」
さらに、
「感情を味覚情報へ変換」
さらに、
「記憶を食材記録へ統合」
私はルーペを下ろした。
タイプライターの前に座った。
手が震えている。
記録する。
そう思った。
記録しなければならない。
でも、
「人格を情報化」
という文字を打ったところで手が止まった。
その先に、
「感情を味覚情報へ変換」
とある。
私は、自分の胸に手を当てた。
心臓が動いている。
まだ動いている。
私は自分の手を見る。
指がある。
まだ、人間の手だ。
私はルーペをもう一度見た。
「処理対象:確定」
消えない。
私はタイプライターに戻った。
打つ。
「処理対象:確定」
一度。
二度。
三度。
同じ文字を打った。
それから、別の行を書こうとした。
「恐怖を感じている」
止まった。
私はしばらく、そのまま動かなかった。
そして、
その一文だけを削除した。
【私の日記】
夜。
私はもう一度、真意さんの最後の記録を読んだ。
「処理対象タグ:保留中」
その文字を見ながら、私は思った。
保留中なら、
まだ間に合う。
まだ真意さんは、
人間かもしれない。
そう思った。
その時。
ノートのページが勝手にめくれた。
一枚。
また一枚。
最後のページで止まった。
そこには新しい文字があった。
「まだ食べられていない。」
私はその文字を見た。
少し安心した。
本当に少しだけ。
でも、その下に、
もう一行あった。
「だから、怖い。」
私は何も言えなかった。
それが真意さんの文字なのか。
白紙が書いたものなのか。
それとも私自身が読んでしまっただけなのか。
わからなかった。
ただ。
私は初めて、
真意さんが「怖い」と言ったことを、
記録としてではなく、
一人の存在の言葉として考えた。
そしてその瞬間、
ノートの最後の一文字が、
ゆっくり消えた。
「怖い」
という文字だけが消えた。
その下に、
新しい文字が現れた。
「まだ。」
私はその一文字を見ながら、
なぜか泣きそうになった。
まだ。
それだけだった。
でも、
まだ、という言葉には、
終わっていないという意味がある。
私はノートを閉じた。
そして初めて、
真意さんが戻ってくることを、
待ちたいと思った。




