第二話「名前を失ったものについて」
【私の日記】
朝、目が覚めた。
昨日の夜は、あまり眠れなかった。
「バーガー」という言葉が頭から離れなかった。
検索しても存在しない。
辞書にもない。
画像もない。
動画もない。
それなのに、私は知っている。
知っているという感覚だけが残っている。
朝食を食べながら、私はそれについて考えないようにした。
トースト。
卵。
コーヒー。
普通の朝だった。
テレビをつけた。
ニュースが流れていた。
天気予報。
電車の遅延。
海外のニュース。
新商品の紹介。
その中に、食品メーカーの新商品が映った。
「新しいサンドイッチが発売されます」
画面にパンが映った。
具材が挟まっていた。
私は何となく見ていた。
「パンに具材を挟んだ食品は、現在ますます人気が——」
そこで映像が切り替わった。
一瞬だけだった。
パン。
肉。
野菜。
丸いパン。
それが画面に映った。
私は立ち上がった。
「……」
名前が出てこなかった。
何かを知っている。
でも、その名前だけが出てこない。
画面では別の商品に切り替わっていた。
「新商品は全国のコンビニエンスストアで——」
私はテレビを消した。
胸が少し苦しかった。
理由はわからなかった。
ただ、さっき画面に映ったものを見て、
「これは違う」
と思った。
何が違うのかは、説明できなかった。
パンが違う。
肉が違う。
形が違う。
食べ物としては普通だった。
でも私が知っているものではなかった。
私はテーブルの上にあった紙を取った。
ペンを持った。
そして、記憶を頼りに絵を描いた。
丸いパン。
その間に肉。
野菜。
ソース。
紙の包み。
描き終わった。
見た。
知っている。
確かに知っている。
でも名前だけが出ない。
紙の上には、ただの食べ物の絵があった。
私はその下に名前を書こうとした。
「バー」
そこで手が止まった。
「ガー」
まで書いた。
バーガー。
書けた。
私は息を止めた。
文字としてなら書ける。
検索すると存在しない。
でも自分の手では書ける。
そのことが、昨日より怖かった。
私は紙を裏返した。
そして、もう一度書いた。
バーガー。
今度は何も起きなかった。
白く点滅もしなかった。
ただ、そこに文字があった。
私は少し安心した。
それから、五分ほど経ってから、もう一度紙を見た。
「バーガー」と書いたはずだった。
でも紙には、
「バー」
としか書かれていなかった。
「……え?」
私はペンを持った。
続きを書いた。
「ガー」
紙には、
「バーガー」
と書かれた。
私は手を離した。
数秒後。
また見た。
「バー」になっていた。
何度書いても同じだった。
書いた直後は「バーガー」。
少し時間が経つと、「バー」。
さらに時間が経つと、
「バー」
という文字すら薄くなった。
最後には、何も残らなかった。
紙は白紙になった。
私は会社へ行った。
仕事をしている間は、なるべく考えなかった。
メールを処理した。
会議に出た。
資料を確認した。
昼休みになった。
同僚と食堂へ向かった。
「今日は何食べる?」
「適当に」
食堂には定食が並んでいた。
カレー。
ラーメン。
焼き魚。
丼。
サンドイッチ。
私はサンドイッチの前で止まった。
「……」
同僚が振り返った。
「どうした?」
「いや」
私はサンドイッチを見ていた。
パンの間に具材が挟まっている。
でも、何かが違う。
「これ、昔からありました?」
「何が?」
「こういう食べ物です」
「サンドイッチ?」
「はい」
同僚は笑った。
「何言ってんの。昔からあるでしょ」
「……そうですよね」
「寝不足?」
「少し」
それ以上は聞かれなかった。
私はサンドイッチを買った。
食べた。
おいしかった。
普通だった。
普通すぎた。
私は途中で食べるのをやめた。
午後三時。
会社の売店に行った。
レジの横に、小さな商品棚があった。
新商品。
そこに、一つだけ空いた場所があった。
値札だけが残っていた。
商品名の部分が白く塗り潰されていた。
私は店員に聞いた。
「ここ、何があったんですか」
店員が見た。
「ああ、それですか」
「はい」
「昨日まで何かあったんですけどね」
「何が?」
店員が少し考えた。
「……何でしたっけ」
「食品ですか?」
「たぶん」
「パンですか?」
「そうだったような」
「肉は?」
店員が私を見た。
「……どうしてわかるんですか?」
「なんとなく」
店員は棚を見た。
「変ですね」
「何がですか」
「ここに商品があったことは覚えているんです。でも、何の商品だったか思い出せない」
私は黙った。
店員は値札を剥がした。
その瞬間、値札の裏側に文字が見えた。
一瞬だけ。
「BUR——」
そこで文字が消えた。
店員は何も気づかなかった。
私は見ていた。
確かに見た。
「……すみません」
「はい?」
「その値札、少し見せてもらえますか」
「いいですよ」
受け取った。
表には何もない。
裏にも何もない。
ただ、私の指先だけが少し震えた。
店員が言った。
「そんなに気になります?」
「……はい」
「変なの」
笑った。
「商品が一つなくなっただけですよ」
「そうですね」
私は値札を返した。
帰宅した。
パソコンを開いた。
検索画面を開いた。
「バーガー」
入力。
検索。
結果なし。
昨日と同じ。
でも今日は違った。
検索欄の下に、候補が出た。
「バーガー」
私は息を止めた。
候補に存在している。
検索結果はない。
でも検索語としては認識されている。
私はクリックした。
画面が白くなった。
まただ。
何もない。
真っ白な画面。
その中央に、黒い文字が一つだけ現れた。
「未」
私は画面を見た。
「未」。
それだけだった。
次の瞬間、文字が消えた。
検索画面に戻った。
候補も消えていた。
私は椅子から立ち上がった。
その夜。
眠れなかった。
布団の中で目を閉じた。
すると、音がした。
タイプライターの音だった。
カタ。
カタ。
カタ。
カタ。
私は目を開けた。
部屋には何もない。
音もしない。
目を閉じる。
カタ。
カタ。
カタ。
また聞こえた。
私は起き上がった。
部屋の隅を見る。
何もない。
机にも何もない。
でも音は続いている。
カタ。
カタ。
カタ。
その音を聞いていると、頭の中に一つの光景が浮かんだ。
窓のない部屋。
赤い糸。
タイプライター。
そして、白紙。
真意さん。
私は息を止めた。
「……真意さん」
声に出した。
返事はなかった。
当然だった。
ここにいるはずがない。
でも、もう一度呼んだ。
「真意さん」
その瞬間。
タイプライターの音が止まった。
代わりに、
紙を一枚めくる音がした。
私は動けなかった。
次に聞こえたのは、
小さな声だった。
「……まだ、書けない」
私は布団の中で固まった。
誰の声なのかわからない。
真意さんの声に似ていた。
でも、少し違った。
「……誰?」
返事はなかった。
しばらくして、
紙に何かを書く音がした。
さら。
さら。
さら。
そして、最後に一文字だけ聞こえた。
「未」。
そこで音が消えた。
翌朝。
机の上に紙があった。
私は昨日の夜、紙を置いていない。
でも一枚だけ置いてあった。
真っ白な紙だった。
私はそれを持ち上げた。
何も書いていない。
裏も白い。
ただ、指で触れた瞬間。
紙の中央に、文字が浮かんだ。
一文字。
「帰」。
私はそれを見た。
その文字は数秒で消えた。
次に、
「還」。
また消えた。
そして最後に、
「帰還」。
その文字だけが残った。
私はしばらく動けなかった。
その下に、もう一行が浮かんだ。
「未確認」。
私は紙を落とした。
【真意の調査記録】
〇月〇日
助手帰還後、八日目。
異常を確認。
ぱんでむ側における助手の反応は依然として消失状態。
ただし、本日午前二時十七分。
白紙に変化あり。
白紙そのものが書いたものではない。
外部から情報が侵入した形跡。
文字列:
「未」
のみ。
二時十八分。
消失。
二時十九分。
再発。
文字列:
「帰」
二時二十分。
消失。
その後、発生なし。
現時点では、助手からの通信とは断定できない。
理由は一つ。
助手がこちらへ送信したのであれば、通常の「観測者」経路を通る。
今回は経路が存在しない。
つまり——
こちらから見えているのに、
こちらからは届かない。
逆方向の通信に近い。
記録をここで止める。
……いや。
追記する。
今日、フロアに一つ異常があった。
妄執ちゃんがカウンターの前で、
「何か足りない気がしますわ」
と言った。
何が足りないのか尋ねた。
妄執ちゃんは答えられなかった。
ただ、メニュー表を何度も見ていた。
メニュー表には、
本来存在しないはずの空欄が一つあった。
そこだけ、何も書かれていない。
バーガーの名前があった場所なのか。
それとも——
最初から何もなかった場所なのか。
私には判断できない。
ただ一つだけ、
今日初めてわかったことがある。
助手が向こうから消えたのではない。
こちらから、
「帰ったことにされた」
可能性がある。
それならば。
今、助手がいる場所は、
「帰還先」ではない。
処理途中の場所だ。
そして——
処理が終わっていないなら、
まだ書ける。
白紙が残っている限り。
私はタイプライターの前に座った。
何を書くべきか考えた。
「助手について」。
違う。
「帰還について」。
違う。
「バーガーについて」。
そこまで打ったところで、
タイプライターが勝手に止まった。
紙を見る。
文字が一つだけ印字されていた。
「未」。
私はその文字を見た。
そして初めて、
白紙が怖いのではないと思った。
怖いのは、
白紙がまだ終わっていないことだった。




