↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
22/39

第二話「名前を失ったものについて」


【私の日記】


朝、目が覚めた。


昨日の夜は、あまり眠れなかった。


「バーガー」という言葉が頭から離れなかった。


検索しても存在しない。


辞書にもない。


画像もない。


動画もない。


それなのに、私は知っている。


知っているという感覚だけが残っている。


朝食を食べながら、私はそれについて考えないようにした。


トースト。


卵。


コーヒー。


普通の朝だった。


テレビをつけた。


ニュースが流れていた。


天気予報。


電車の遅延。


海外のニュース。


新商品の紹介。


その中に、食品メーカーの新商品が映った。


「新しいサンドイッチが発売されます」


画面にパンが映った。


具材が挟まっていた。


私は何となく見ていた。


「パンに具材を挟んだ食品は、現在ますます人気が——」


そこで映像が切り替わった。


一瞬だけだった。


パン。


肉。


野菜。


丸いパン。


それが画面に映った。


私は立ち上がった。


「……」


名前が出てこなかった。


何かを知っている。


でも、その名前だけが出てこない。


画面では別の商品に切り替わっていた。


「新商品は全国のコンビニエンスストアで——」


私はテレビを消した。


胸が少し苦しかった。


理由はわからなかった。


ただ、さっき画面に映ったものを見て、


「これは違う」


と思った。


何が違うのかは、説明できなかった。


パンが違う。


肉が違う。


形が違う。


食べ物としては普通だった。


でも私が知っているものではなかった。


私はテーブルの上にあった紙を取った。


ペンを持った。


そして、記憶を頼りに絵を描いた。


丸いパン。


その間に肉。


野菜。


ソース。


紙の包み。


描き終わった。


見た。


知っている。


確かに知っている。


でも名前だけが出ない。


紙の上には、ただの食べ物の絵があった。


私はその下に名前を書こうとした。


「バー」


そこで手が止まった。


「ガー」


まで書いた。


バーガー。


書けた。


私は息を止めた。


文字としてなら書ける。


検索すると存在しない。


でも自分の手では書ける。


そのことが、昨日より怖かった。


私は紙を裏返した。


そして、もう一度書いた。


バーガー。


今度は何も起きなかった。


白く点滅もしなかった。


ただ、そこに文字があった。


私は少し安心した。


それから、五分ほど経ってから、もう一度紙を見た。


「バーガー」と書いたはずだった。


でも紙には、


「バー」


としか書かれていなかった。


「……え?」


私はペンを持った。


続きを書いた。


「ガー」


紙には、


「バーガー」


と書かれた。


私は手を離した。


数秒後。


また見た。


「バー」になっていた。


何度書いても同じだった。


書いた直後は「バーガー」。


少し時間が経つと、「バー」。


さらに時間が経つと、


「バー」


という文字すら薄くなった。


最後には、何も残らなかった。


紙は白紙になった。


私は会社へ行った。


仕事をしている間は、なるべく考えなかった。


メールを処理した。


会議に出た。


資料を確認した。


昼休みになった。


同僚と食堂へ向かった。


「今日は何食べる?」


「適当に」


食堂には定食が並んでいた。


カレー。


ラーメン。


焼き魚。


丼。


サンドイッチ。


私はサンドイッチの前で止まった。


「……」


同僚が振り返った。


「どうした?」


「いや」


私はサンドイッチを見ていた。


パンの間に具材が挟まっている。


でも、何かが違う。


「これ、昔からありました?」


「何が?」


「こういう食べ物です」


「サンドイッチ?」


「はい」


同僚は笑った。


「何言ってんの。昔からあるでしょ」


「……そうですよね」


「寝不足?」


「少し」


それ以上は聞かれなかった。


私はサンドイッチを買った。


食べた。


おいしかった。


普通だった。


普通すぎた。


私は途中で食べるのをやめた。


午後三時。


会社の売店に行った。


レジの横に、小さな商品棚があった。


新商品。


そこに、一つだけ空いた場所があった。


値札だけが残っていた。


商品名の部分が白く塗り潰されていた。


私は店員に聞いた。


「ここ、何があったんですか」


店員が見た。


「ああ、それですか」


「はい」


「昨日まで何かあったんですけどね」


「何が?」


店員が少し考えた。


「……何でしたっけ」


「食品ですか?」


「たぶん」


「パンですか?」


「そうだったような」


「肉は?」


店員が私を見た。


「……どうしてわかるんですか?」


「なんとなく」


店員は棚を見た。


「変ですね」


「何がですか」


「ここに商品があったことは覚えているんです。でも、何の商品だったか思い出せない」


私は黙った。


店員は値札を剥がした。


その瞬間、値札の裏側に文字が見えた。


一瞬だけ。


「BUR——」


そこで文字が消えた。


店員は何も気づかなかった。


私は見ていた。


確かに見た。


「……すみません」


「はい?」


「その値札、少し見せてもらえますか」


「いいですよ」


受け取った。


表には何もない。


裏にも何もない。


ただ、私の指先だけが少し震えた。


店員が言った。


「そんなに気になります?」


「……はい」


「変なの」


笑った。


「商品が一つなくなっただけですよ」


「そうですね」


私は値札を返した。


帰宅した。


パソコンを開いた。


検索画面を開いた。


「バーガー」


入力。


検索。


結果なし。


昨日と同じ。


でも今日は違った。


検索欄の下に、候補が出た。


「バーガー」


私は息を止めた。


候補に存在している。


検索結果はない。


でも検索語としては認識されている。


私はクリックした。


画面が白くなった。


まただ。


何もない。


真っ白な画面。


その中央に、黒い文字が一つだけ現れた。


「未」


私は画面を見た。


「未」。


それだけだった。


次の瞬間、文字が消えた。


検索画面に戻った。


候補も消えていた。


私は椅子から立ち上がった。


その夜。


眠れなかった。


布団の中で目を閉じた。


すると、音がした。


タイプライターの音だった。


カタ。


カタ。


カタ。


カタ。


私は目を開けた。


部屋には何もない。


音もしない。


目を閉じる。


カタ。


カタ。


カタ。


また聞こえた。


私は起き上がった。


部屋の隅を見る。


何もない。


机にも何もない。


でも音は続いている。


カタ。


カタ。


カタ。


その音を聞いていると、頭の中に一つの光景が浮かんだ。


窓のない部屋。


赤い糸。


タイプライター。


そして、白紙。


真意さん。


私は息を止めた。


「……真意さん」


声に出した。


返事はなかった。


当然だった。


ここにいるはずがない。


でも、もう一度呼んだ。


「真意さん」


その瞬間。


タイプライターの音が止まった。


代わりに、


紙を一枚めくる音がした。


私は動けなかった。


次に聞こえたのは、


小さな声だった。


「……まだ、書けない」


私は布団の中で固まった。


誰の声なのかわからない。


真意さんの声に似ていた。


でも、少し違った。


「……誰?」


返事はなかった。


しばらくして、


紙に何かを書く音がした。


さら。


さら。


さら。


そして、最後に一文字だけ聞こえた。


「未」。


そこで音が消えた。


翌朝。


机の上に紙があった。


私は昨日の夜、紙を置いていない。


でも一枚だけ置いてあった。


真っ白な紙だった。


私はそれを持ち上げた。


何も書いていない。


裏も白い。


ただ、指で触れた瞬間。


紙の中央に、文字が浮かんだ。


一文字。


「帰」。


私はそれを見た。


その文字は数秒で消えた。


次に、


「還」。


また消えた。


そして最後に、


「帰還」。


その文字だけが残った。


私はしばらく動けなかった。


その下に、もう一行が浮かんだ。


「未確認」。


私は紙を落とした。


【真意の調査記録】


〇月〇日


助手帰還後、八日目。


異常を確認。


ぱんでむ側における助手の反応は依然として消失状態。


ただし、本日午前二時十七分。


白紙に変化あり。


白紙そのものが書いたものではない。


外部から情報が侵入した形跡。


文字列:


「未」


のみ。


二時十八分。


消失。


二時十九分。


再発。


文字列:


「帰」


二時二十分。


消失。


その後、発生なし。


現時点では、助手からの通信とは断定できない。


理由は一つ。


助手がこちらへ送信したのであれば、通常の「観測者」経路を通る。


今回は経路が存在しない。


つまり——


こちらから見えているのに、


こちらからは届かない。


逆方向の通信に近い。


記録をここで止める。


……いや。


追記する。


今日、フロアに一つ異常があった。


妄執ちゃんがカウンターの前で、


「何か足りない気がしますわ」


と言った。


何が足りないのか尋ねた。


妄執ちゃんは答えられなかった。


ただ、メニュー表を何度も見ていた。


メニュー表には、


本来存在しないはずの空欄が一つあった。


そこだけ、何も書かれていない。


バーガーの名前があった場所なのか。


それとも——


最初から何もなかった場所なのか。


私には判断できない。


ただ一つだけ、


今日初めてわかったことがある。


助手が向こうから消えたのではない。


こちらから、


「帰ったことにされた」


可能性がある。


それならば。


今、助手がいる場所は、


「帰還先」ではない。


処理途中の場所だ。


そして——


処理が終わっていないなら、


まだ書ける。


白紙が残っている限り。


私はタイプライターの前に座った。


何を書くべきか考えた。


「助手について」。


違う。


「帰還について」。


違う。


「バーガーについて」。


そこまで打ったところで、


タイプライターが勝手に止まった。


紙を見る。


文字が一つだけ印字されていた。


「未」。


私はその文字を見た。


そして初めて、


白紙が怖いのではないと思った。


怖いのは、


白紙がまだ終わっていないことだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。