第二十話「白紙に書いた日について」
【私の日記】
二十日目の夜明け前、真意さんがタイプライターから立ち上がった。
私は眠っていなかった。
目を閉じていたが、眠れていなかった。昨日フロアで七百万枚が自分を向いた光景が、目を閉じるたびに来た。「帰れる」という口の動きが、来た。
真意さんが立ち上がる音がして、目を開いた。
真意さんが白紙の前に立っていた。
「……真意さん」
「起きてたの」と振り返らずに言った。
「眠れなくて」
「そう」
真意さんが白紙を見たまま、動かなかった。
ルーペを右手に持っていた。
「……書きますか」と私は聞いた。
「書こうとしている」と真意さんは言った。「書けるかどうかは、まだわからない」
「何が書けないんですか」
「書いたら確定する、と言った」と真意さんは言った。「確定させることが、今の時点で正しいかどうかが——まだ、わからない」
「でも書こうとしている」
「書かなければならない何かが——今夜、来た気がする」と真意さんは言った。
「何が来たんですか」
真意さんが少し間を置いた。
「昨日の記録を全部書いた。七百万枚が向いた話。「帰れる」という口の動きの話。妄執ちゃんが「止めようとしたことがある」と言った話。No.441とあなたのにおいが似ている、という話」
「はい」
「全部書いた後で——赤い糸を見た」と真意さんは言った。「収束の先を見た」
「白紙の方向に収束していましたね」
「今夜は違った」
私は体を起こした。
「どう違いましたか」
「糸が——白紙から、外に向かっていた」と真意さんは言った。
「白紙から外に」
「今まで全ての糸が白紙に向かって収束していた。でも今夜は逆だった。白紙から、外に向かって糸が伸びていた。どこに向かっているかは——読めなかった。でも、外に向かっていた」
「それが何を意味しますか」
「白紙に書くべき何かが——白紙の外から来ようとしているかもしれない」と真意さんは言った。「私が白紙に向かって書くのではなく、白紙の外から何かが——書かれようとしているかもしれない」
「外から来るものが何かは、わかりますか」
真意さんがルーペを白紙に向けた。
「今から、読む」と言った。
ルーペが動いた。
白紙の表面に向けた。
長く向けた。
私は何も言わなかった。
真意さんが読んでいた。
一分、二分——
ルーペが揺れた。
今まで見た中で一番大きく揺れた。
でも割れなかった。
「……見えた」と真意さんは言った。
「何が見えましたか」
真意さんがルーペを下げた。
振り返った。
顔が——いつもと違った。
何かを見た後の顔だった。
見てしまった後の顔だった。
四層目に近づいた時の顔でも、設計目的を読んだ夜の顔でも、今日の顔でもない——今まで一度も見たことのない顔だった。
「……白紙は白紙じゃなかった」とだけ言った。
「白紙じゃなかった、というのは」と私は聞いた。
「最初から、書いてあった」と真意さんは言った。
「でも白紙でしたよね。何も書いていなかったはずです」
「ルーペなしでは読めない層に——書いてあった」と真意さんは言った。「ずっと。この部屋に来た最初の日から。ずっと、書いてあった」
「何が書いてありましたか」
真意さんが少し間を置いた。
「文章が一つあった」と言った。「短い文章だ。読める。読めるが——」
止まった。
「読めるが」
「読んだ瞬間に——「処理対象:確定」というタグが、私自身に付与された」と真意さんは言った。
「処理対象」
「今、私のタグに「処理対象:確定」が入っている」と真意さんは言った。「ルーペで確認した。入っている。消えない」
「……何を意味しますか」
「ぱんでむのシステムが、私をバーガーにすることを決定した、ということだ」と真意さんは言った。「今まで調査担当として機能してきたが——何かを「知りすぎた」と判断されたのかもしれない。あるいは——白紙を読んだことが、処理のトリガーだったかもしれない」
「……処理されるとは、どういうことですか」
「私の世界線が圧縮されて、バーガーになる」と真意さんは言った。「私自身がバーガーになる、ということだ」
部屋が静かになった。
タイプライターが静かだった。
赤い糸が揺れていた。
「……いつ処理されますか」と私は聞いた。
「タグに時刻はない」と真意さんは言った。「確定した、ということだけが書いてある。いつかは——わからない」
「止めることはできますか」
「わからない」と真意さんは言った。「タグが付与された後で、外すことができたという記録が——ない」
「私のタグが「未確定」になりましたよね。タグは変わりましたよね」
真意さんが少し止まった。
「……そうね」と言った。
「同じことが起きる可能性はありますか」
「わからない」と真意さんは言った。「でも——今は考えることより、白紙に書いてあった文章を伝えることが先だ」
「何と書いてありましたか」と私は聞いた。
真意さんが白紙を見た。
白紙のままだった。
ルーペなしでは、まだ白紙に見えた。
「文章は短い」と真意さんは言った。「一行だけだ」
「何と書いてありますか」
真意さんが少し間を置いた。
「「この場所は、あなたが帰るために作られた」」と真意さんは言った。
私は何も言えなかった。
「……ぱんでむが、何のために作られたか」と私は言った。「その答えが——それですか」
「そう書いてあった」と真意さんは言った。「ドナルゥトゥへの信仰エネルギー供給——それが設計目的だと読んだ。でも白紙に書いてあったのは、それではなかった。どちらが本当かは——わからない。でも白紙に書いてあったのは——「この場所は、あなたが帰るために作られた」だった」
「あなた、というのは——私のことですか」
「わからない」と真意さんは言った。「でも「あなた」という二人称が書いてあった。誰に向けて書かれた文章か——私には読めなかった。この部屋に来た時から書いてあったとすれば——」
「私がここに来る前から、書いてあった」
「そう」
「私がここに来る前から——「あなたが帰るために作られた」と、書いてあった」
真意さんが何も言わなかった。
「……設計した存在が、知っていたということですか。私がここに来ることを」
「可能性として——ある」と真意さんは言った。
「私が観測者タグを持っていた理由と、繋がりますか」
「繋がる可能性がある」と真意さんは言った。「観測者タグが「ぱんでむが何のために作られたかを理解して外に出られる存在」のタグなら——その「外に出られる存在」のために、この場所が作られた、という解釈が成立する」
「……ぱんでむ全体が——私が帰るための装置だった、ということですか」
「一つの解釈として」と真意さんは言った。「正しいかどうかは——まだわからない。でも白紙にはそう書いてあった」
「七百万人は」と私は言った。「七百万人が写真の中にいることは——」
「わからない」と真意さんは言った。「「あなたが帰るために作られた」が全部の目的なら——七百万人はその副産物かもしれない。あるいは——帰るために必要なプロセスの一部だったかもしれない。どちらが正しいかは、今の私には読めない」
「副産物」という言葉が頭の中に残った。
七百万人が。
副産物。
「……真意さんが処理対象になったのは——白紙を読んだから、という可能性があるんですね」
「ある」
「では——私が白紙を読んだら、どうなりますか」
「わからない」と真意さんは言った。「「未確定」だから。何が起きるかは——誰も知らない」
しばらく、二人で白紙を見た。
白紙のまま、白紙に見えた。
「真意さん」と私は言った。
「何」
「処理対象になったことを、怖いと思っていますか」
長い間があった。
「……思っている」と真意さんは言った。
「それでも白紙を読んだんですか」
「読まなければならなかった」と真意さんは言った。「読んだ後で処理されるとしても——読まなかったら、あなたに伝えられなかった。伝えなかったら——あなたが帰れない可能性があった」
「……私が帰るために、読んだんですか」
真意さんが少し間を置いた。
「そうかもしれない」と言った。「それだけかどうかは——今の私にはわからない」
「もう一つの理由は何ですか」
「知りたかったから」と真意さんは言った。「それだけが私の全部だった。ずっと」
「知りたかったから、処理されることになった」
「知りたかったから、読んだ。読んだ結果として、処理対象になった。それだけだ」
「怖くなかったんですか」
「怖かった」と真意さんは言った。「でも——知ることと、怖いことは、矛盾しない。そう言ったのはあなただったと思う。涅槃ちゃんの言葉を使って」
「……言いましたね」
「覚えていた」と真意さんは言った。
夜明けが近かった。
廊下から音がしてきた。
足音が複数あった。
速い足音だった。
「……来ます」と私は言った。
「わかってる」と真意さんは言った。
「誰が来ますか」
「ぱんでむのシステムが処理を開始した時の対応クルーが来る。おそらく——秩序ちゃんか、摩天ちゃんか、あるいは千姿ちゃんの直接管轄のクルーだ」
「止められますか」
「わからない」と真意さんは言った。
「私に何かできますか」
真意さんが私を見た。
「あなたにできることが一つある」と真意さんは言った。
「何ですか」
「白紙を、読んで」と真意さんは言った。
「私が読んだら、処理対象になるかもしれませんよね」
「「未確定」だから、わからない」と真意さんは言った。「でも——白紙に書いてある文章を、あなたが読む必要がある。「あなたが帰るために作られた」という文章を、あなた自身が読まないと——何も動かないかもしれない」
足音が近づいてきた。
扉の外まで来ていた。
「……読みます」と私は言った。
「ルーペを貸す」と真意さんは言った。
ルーペを渡された。
ひびが入っていた。
最初から、ひびが入っていた。
「割れていますよね」と私は言った。
「割れていても、見える」と真意さんは言った。「歪んで見えるが、歪んだものが正確に見えることもある。そう言ったでしょう」
「言っていましたね」
「行って」
私は白紙の前に立った。
ルーペを向けた。
扉がノックされた。
一回。
二回。
三回。
私はルーペを通して、白紙を見た。
最初は何も見えなかった。
白紙だった。
でも——ルーペを少し傾けた時、見えた。
一行の文章が、白紙に書いてあった。
細い字で。ずっと前から書いてあった字で。
「この場所は、あなたが帰るために作られた」
と書いてあった。
読んだ。
読んだ瞬間に——部屋の空気が変わった。
赤い糸が、全部揺れた。
白紙が光った。
白く光った。
光が広がった。
部屋全体が白くなった。
「真意さん」と私は言った。
「ここにいる」と真意さんは言った。
扉が開いた。
開いた扉の向こうに——光があった。
廊下のはずの場所に、光があった。
廊下ではなかった。
「……これは」
「出口かもしれない」と真意さんは言った。
「真意さんも来ますか」
真意さんが少し間を置いた。
「……処理対象になった存在が出口を通れるかどうかは——わからない」
「通れないんですか」
「わからない」と真意さんは言った。「でも——あなたが行かないと、出口が閉じる可能性がある」
「真意さんを置いていけません」
「調査記録を、持っていって」と真意さんは言った。
「調査記録を」
「二十日分の記録が全部ある。外に出たら——ぱんでむのことを、誰かに伝えてほしい。七百万人のことを。伝え方は——あなたが決めていい」
「真意さん自身は——」
「私はここに残る可能性がある」と真意さんは言った。「でも——残ったとしても。調査は続ける。処理されるとしても。その前に——まだ調べたいことがある」
「何を調べたいんですか」と私は聞いた。
「白紙の文章が——誰が書いたか、まだわからない」と真意さんは言った。「設計した存在が誰か。なぜ「あなたが帰るために」と書いたか。それが——まだわからない」
光が広がっていた。
「……行ってきます」と私は言った。
「行ってきて」と真意さんは言った。
「帰れたら——」
「帰れたら教えてほしい」と真意さんは言った。「帰れた、ということを」
「どうやって伝えますか」
「わかる」と真意さんは言った。「帰れたら——わかる」
光の中に、一歩踏み込んだ。
振り返った。
真意さんが探偵事務所に立っていた。
ルーペを持っていた。
壁の白紙を見ていた。
「……備考」と真意さんは言った。
「何ですか」
「助手、現在生存」と言った。「二十日目」
それが最後の言葉だった。
光が閉じた。
【私の日記・最終記録】
気づいたら、渋谷にいた。
スマホを持っていた。
時刻は、二十日前と同じ時刻だった。
何も変わっていなかった。
でも手の中に、ノートがあった。
真意さんの調査記録だった。
二十日分の記録が、全部書いてあった。
最後のページを開いた。
今夜書いたはずの記録が、書いてあった。
白紙の文章のことが。処理対象になったことが。出口のことが。
全部書いてあった。
最後の行に、こう書いてあった。
「備考:助手、帰還。二十日目。白紙を読んだ。出口を通った。」
その下に、もう一行あった。
書いてあることに気づいたのは、しばらくしてからだった。
インクが、まだ乾いていなかった。
「調査は続いている。」
と書いてあった。
【真意の調査記録・最終記録】
二十日目・夜明け
助手が白紙を読んだ。
出口が開いた。
助手が出口を通った。
確認した。
帰れた。
処理対象タグ:保留中
理由:「処理対象となった存在に、「未確定」タグを持つ存在が接触した場合、処理が保留される」という記録が、今日初めて生成された。
これは今まで存在しなかった記録だ。
存在しなかったから、記録されなかった。
今日、存在した。だから記録された。
白紙の文章を書いた存在が、誰かはまだわからない。
でも今日、一つだけわかった。
白紙の文章の下に——今夜、新しい一行が追記された。
ルーペで読んだ。
「次の観測者を、待っている。」
と書いてあった。
ぱんでむは続いている。
七百万人が、写真の中にいる。
渾沌ちゃんが今日も何かを壊して、秩序ちゃんが直している。
廊下で懺悔ちゃんが罪を食べている。
空無ちゃんが、内側の声を聞こうとしている。
幽玄ちゃんが、首輪を外さないまま廊下を歩いている。
妄執ちゃんが、今日も指名を承認している。
世頼ちゃんの歌が、壁に残響している。
涅槃ちゃんが、変化する顔を記録している。
万寿ちゃんが、空の棺に花を一輪置いている。
流焔ちゃんが、白い炎を出した後で白い炎を消している。
黄昏ちゃんが、夕暮れを見ながら「きれいだね」と言っている。
郷愁ちゃんが、夕暮れを止めている。
渾沌ちゃんが「面白い」と言って何かを壊した。
壊れた。
直った。
また続いた。
タイプライターの前に座った。
打ち始めた。
処理対象タグが保留されている間——調査は続けられる。
白紙に、書いた。
今日初めて、白紙に書いた。
書いたのは一文字だった。
さっき読んだ文章の、最後の一文字だった。
四層目でルーペが割れた日に、見えた一文字と——同じ文字だった。
「帰」と書いた。
白紙に、「帰」と書いた。
それだけだった。
それだけのことだったが——
書いた後で、壁が少し変わった気がした。
赤い糸が、少しだけ、また収束した。
中央の白紙に向かって。
「帰」という一文字が書かれた、白紙に向かって。
次の調査を始める。
備考:助手、帰還確認。真意、現在調査継続中。




