↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
19/30

第十九話「七百万について」


【私の日記】


十九日目の昼、真意さんが「今日だけは、一緒にフロアに入る」と言った。


「入る、というのは」と私は聞いた。


「中に」と真意さんは言った。「ガラスの外から見るだけではなく、フロアの内側に入る」


「安全ですか」


「わからない」と真意さんは言った。「でも——今日入らなければならない理由ができた」


「何の理由ですか」


「妄執ちゃんから、来てほしいと言われた」


「妄執さんから」


「今朝、廊下で声をかけられた」と真意さんは言った。「「真意さんの助手の方を、一度お連れしてもらえませんか」と言われた」


「……なぜ私を」


「理由は言わなかった」


「断れなかったんですか」


「断れた」と真意さんは言った。「でも——断らない方がいいと判断した」


「なぜですか」


「妄執ちゃんが「来てほしい」と言うのは、今まで一度もなかった」と真意さんは言った。「妄執ちゃんは待つ。来た者を迎える。自分から「来てほしい」とは言わない。それが言われた」


私は少し間を置いた。


「……行きます」と言った。




フロアへの廊下を歩いた。


においが強くなった。


ダブルチーズバーガーのにおい。引力。


「今日は引力が強い」と真意さんが言った。


「感じます」と私は言った。「でも——昨日とは少し違います」


「何が違う」


「昨日は、引っ張られる感覚でした。今日は——押されている感覚がします」


真意さんが止まった。


「押されている」


「来るな、という感じではなくて。むしろ——中から何かが出ようとしている感じがします。その圧が廊下まで来ている」


真意さんがルーペを出した。廊下の空気に向けた。


「……フロアの内部気圧が変化している」と言った。「今朝から変わった。中の何かが——活性化している」


「七百万枚の写真が、ですか」


「可能性がある」と真意さんは言った。


扉の前に着いた。


「入る前に」と真意さんは言った。「一つだけ」


「はい」


「写真の中の人が手を振っても、振り返さないで。声が聞こえても、答えないで。妄執ちゃんに話しかけられたら、答えていい。それだけ守って」


「わかりました」


「——行きましょう」


扉が開いた。




音がした。


最初に、音が来た。


何百万もの声が、重なった音が——壁から、天井から、床から、来た。


声ではなかった。


呼吸の音に近かった。


七百万人分の呼吸が、重なって、部屋に満ちていた。


写真が壁を覆っていた。


全面に。隙間なく。天井にも。


全部が、少し揺れていた。


全部が、呼吸していた。


「……」


言葉が出なかった。


八話目に外から見た時とは、違った。


外から見た時は「動いている写真」が壁にあった。


中から見ると——壁全体が、生きていた。


壁そのものが、呼吸していた。


「大丈夫?」と真意さんが小声で言った。


「……大丈夫です」と私は言った。


嘘だった。


でも進んだ。




カウンターに、妄執ちゃんがいた。


今日の妄執ちゃんは、笑顔だった。


いつも笑顔だ。でも今日は——少し違う笑顔だった。


何かを待っていた笑顔だった。


「いらっしゃいませ」と言った。「またお会いしましたわね」


「……こんにちは」と私は言った。


妄執ちゃんが私を見た。


ルーペで見るような見方ではなかった。


ただ、見た。


「ご存知でしたか」と妄執ちゃんは言った。


「何をですか」


「今日の朝から、壁の子たちが少し違うのですわ」と妄執ちゃんは言った。おっとりと言った。「昨夜から、何かを感じているようで。声の質が変わりましたわ」


「何が変わりましたか」


「いつもは「また来たい」「ここが好き」という声なのですわ」と妄執ちゃんは言った。「でも昨夜から、別の声が混ざっていて」


「何という声ですか」


妄執ちゃんが少し考えた。


「「来る」という声ですわ」とだけ言った。


「来る、というのは」


「誰かが来る、という感触が壁の中に広がっているのだと思いますわ」と妄執ちゃんは言った。「そして——今日、来てくださった」


「……私のことですか」


妄執ちゃんが笑顔のまま、少し首を傾けた。


「あなた様のことを、壁の子たちが知っているのかどうかは——私にはわかりませんわ。でも「来る」という感触と、あなた様が来たことが——一致しましたわ」




「妄執さん」と真意さんが言った。「今日、来てほしいと言った理由を教えてください」


「ええ」と妄執ちゃんは言った。「お見せしたいものがありましたの」


「何ですか」


「こちらへ」


妄執ちゃんがカウンターから出た。壁に近づいた。


中央の一枚に近づいた。


一枚だけ、他と違う写真があった。


周囲の写真は縦向きか横向きに貼られていた。


中央の一枚だけ——少し角度がついていた。


傾いていた。


昨日まで傾いていなかった、と私は思った。外から見ていた時には、まっすぐだった。


「これが変わったのですわ」と妄執ちゃんは言った。「昨夜、この写真が傾いた」


「なぜ傾いたんですか」と私は聞いた。


「内側から動かしたのだと思いますわ」と妄執ちゃんは言った。


「内側から」


「写真の中の方が、内側から写真を動かした」と妄執ちゃんは言った。おっとりと言った。「それが何を意味するかは——私にもわかりませんわ。でも、初めてのことですわ。七百万枚の中で、内側から動いた写真は、今まで一枚もありませんでしたの」


真意さんがルーペを出した。


写真に向けた。


長く向けた。


「……」


何も言わなかった。


「何が見えますか」と私は聞いた。


「内側の人物が——」と真意さんは言いかけた。止まった。


「内側の人物が、何ですか」


「こちらを見ていない」と真意さんは言った。


「見ていない」


「今まで、外から確認した時は必ずこちらを見ていた。笑顔で手を振っていた。でも今日は——こちらを見ていない。別の方向を見ている」


「どの方向を」


「——あなたの方向を」と真意さんは言った。


「私の方向を、写真の中から見ている」


「そう」


七百万枚の中の、たった一枚が。


フロアの中にいる私を見ていた。


写真の平面を通して、見ていた。




「ほかの写真は」と私は言った。


「確認します」と真意さんは言って、別の一枚にルーペを向けた。


「……こちらもです」と言った。


また別の一枚に向けた。


「こちらも」


また別の一枚に。


「……全部です」と真意さんは言った。


「全部が、私を見ているんですか」


「全員が——あなたの方向を向いている」と真意さんは言った。「一枚も例外がない」


七百万枚が。


全員が。


私を見ていた。


壁が、生きていた。


全面が、私を見ていた。


「……怖くなってきました」と私は言った。


「正確な感覚です」と真意さんは言った。


妄執ちゃんが、おっとりした声で言った。


「怖がらなくていいのですわ」


「なぜですか」と私は聞いた。


「みなさん、あなた様に悪意はありませんから」とおっとり言った。「ただ——気になっているのだと思いますわ。声がしない写真と同じ——分類できない方が来たから」


「声がしない写真と同じ、というのは」


妄執ちゃんが少し止まった。


「……中央の一枚のことですわ」とだけ言った。「あの写真の方も、最初に来た時——壁の子たちが全員、あちらを向きましたの」


「No.441さんが来た時のことですか」と真意さんが言った。


「ええ」と妄執ちゃんは言った。「あの方も——ぱんでむが分類できなかった方ですわ。分類できない方が来ると、壁の子たちは向く。今日のあなた様も、同じですわ」




「……妄執さん」と私は言った。


「なんですかしら」


「写真の中の人たちは、幸せですか」


妄執ちゃんが私を見た。


笑顔のまま、見た。


「幸せそうですわ」と言った。


「幸せそう、ではなく——幸せですか」


妄執ちゃんが少し間を置いた。


「わかりませんわ」と言った。


それが本当のことだった。


「幸せそうに見える。声が聞こえる。「また来たい」「ここが好き」と言っている。でも——それが「本物の幸せ」かどうかは、私には確認できませんわ」


「確認できない理由は何ですか」


「引力があるからですわ」と妄執ちゃんは言った。「ダブルチーズバーガーを食べた方には、引力がある。「また来たい」という感情が、本人のものか、引力が生んだものかは——区別できませんわ」


「知っているんですか、引力のことを」


「知っていますわ」と妄執ちゃんは言った。おっとりと、当然のように言った。


真意さんが少し手を止めた。


「……いつから知っていましたか」と真意さんは聞いた。


「最初から知っていましたわ」と妄執ちゃんは言った。「ダブルチーズバーガーに引力がある。食べた方が帰りにくくなる。それは最初から知っていましたわ」


「知っていて——」


「ええ」と妄執ちゃんは言った。「知っていて、今日も作りましたわ。昨日も作りましたわ。七百万日分、作りましたわ」


「止めようとしたことはありますか」と私は聞いた。


妄執ちゃんが、少し笑顔を変えた。


何かが、笑顔の奥に来た。


「ありますわ」と言った。「一度だけ」


「なぜ止めなかったんですか」


「止めると——みなさんが消えますわ」と妄執ちゃんは言った。「引力がなくなると、写真の中にいられなくなる。みなさんが——どこへ行くかわかりませんわ。だから止められなかったのですわ」


「消えるかもしれないから、止めなかった」


「ええ」と妄執ちゃんは言った。「それだけですわ」




「……一つ聞かせてください」と真意さんが言った。


「なんですかしら」


「今日、私たちに来てほしいと言った理由を、正確に教えてください。お見せしたいものがある、とおっしゃった。でも——写真が傾いたことだけが理由ではないと思います」


妄執ちゃんが少し間を置いた。


「鋭いですわね」と言った。


「教えてもらえますか」


妄執ちゃんがカウンターに戻った。


ノートを出した。第二十三冊目だった。


ページを開いた。


後ろのページだった。


「これを見ていただきたかったのですわ」


ページを見せた。


数字だけが並んでいた。


一日、二日、三日——


千百十九日、という数字が最後にあった。


「No.441さんの経過日数ですか」と真意さんが言った。


「ええ」と妄執ちゃんは言った。「でも——今日、変わりましたの」


ノートを手に持ったまま、次のページを開いた。


何も書いていないページだった。


「今日から、数えるのをやめましたの」とおっとりと言った。


「なぜですか」


「あなた様が来たから」と妄執ちゃんは言った。私を見て言った。


「私が来たことと、No.441さんの日数をやめることが、なぜ関係するんですか」


妄執ちゃんが少し、笑顔の奥が動いた。


「……あなた様は」と妄執ちゃんは言った。「No.441の方と、少し——形が似ていますわ」


「形が似ている」


「タグの形が、ですわ」とおっとりと言った。「私にはタグは読めませんわ。でも——お二人には同じ「においがしますの。分類できないもののにおいが」


「……No.441さんは、未確定タグを持っていましたか」と真意さんが聞いた。


「わかりませんわ」と妄執ちゃんは言った。「でも——ぱんでむが、分類できなかった方ですわ。最初に来た時、南の出口で——写真にならなかった。壁に来なかった。だから私が手でシャッターを押して、写真を撮りましたの。あの写真だけは、私が撮りましたの」


「……中にいないから、声がしない」


「ええ」と妄執ちゃんは言った。「中にいないのに、壁にある。あの写真だけが、空っぽのままですわ。でも——貼ってありますわ。貼っていたいから、貼っていますわ」


それが本当のことだった。




帰り際、フロアの扉を出る前に振り返った。


七百万枚の写真が、壁を覆っていた。


全員が——また、私の方を向いていた。


でも今度は、手を振っていなかった。


ただ、見ていた。


一枚が、少し動いた。


写真の中の人が、口を動かした。


何を言っているか、聞こえなかった。


でも——口の形は、読めた。


「帰れる」と言っていた。


「帰れる」と、写真の中から、言っていた。


私は扉を閉めた。




探偵事務所に戻った。


「……写真の中の人が「帰れる」と言っていました」と私は言った。


真意さんが手を止めた。


「帰れる、と」


「口の形でそう読みました。声は聞こえませんでしたが」


「……それが何を意味するか、考えていいですか」と真意さんは言った。


「はい」


「その人は——帰れないはずの場所にいる。でも「帰れる」と言った」


「私に向かって言っていたと思います」と私は言った。


「あなたに」


「はい。私が帰れるということを、言いたかったのかもしれません」


真意さんが長い間、何も言わなかった。


「……あるいは」と真意さんは言った。


「あるいは」


「自分たちが帰れる、という意味だったかもしれない」と真意さんは言った。「「未確定」のあなたが来たことで——引力の構造に変化が起きる可能性がある。あなたがフロアに入ることで、何かが動き始めているかもしれない」


「動き始めると、どうなりますか」


「わからない」と真意さんは言った。「でも——七百万人が全員、あなたの方向を向いた。その七百万人のうちの一人が「帰れる」と言った。それが今日の事実だ」


「……どうすればいいですか」と私は聞いた。


「わからない」と真意さんは言った。「でも——今日の記録を全部書く。全部書いた後で、白紙を見る」


「白紙に何かが見えますか」


「見えるかもしれない」と真意さんは言った。「今日、初めて——白紙に向かって書けるものが来た気がする」


「何が来たんですか」


「まだわからない」と真意さんは言った。「でも——来た」


タイプライターを打ち始めた。


音が部屋に戻ってきた。


私は壁の白紙を見た。


白紙のままだった。


でも今日の白紙は——昨日よりも、少しだけ重く見えた。


何かを保っている重さから、何かを手放す前の重さに、変わっていた。


それが何を意味するか、私にはわからなかった。


でも——わかる時が来る気がした。


来る時が、近い気がした。




【真意の調査記録】


〇月⬛⬛日

十九日目


今日、フロアに入った。助手と一緒に。


妄執ちゃんから呼ばれた。理由はノートだった。


No.441の経過日数を数えるのをやめた——理由が助手だった。




七百万枚の写真が全員、助手の方向を向いた。


これを記録する。


七百万という数の全員が、一人の存在を向いた。


引力の方向が変わった。


今まで引力は「外から内へ」向いていた。ダブルチーズバーガーを食べた者をフロアに引き戻す引力。内側から外へ向かって引く力。


でも今日——


七百万が「内から助手へ」向いた。


引力の向きが逆転した可能性がある。


ダブルチーズバーガーの引力が「外にいる者を引き込む」のに対して——「未確定」タグが「内にいる者を引き出す」方向に働き始めているかもしれない。


これは仮説だ。でも今日、七百万が一斉に向いた、という事実がある。




「帰れる」という口の動きについて。


助手が読んだ。私は確認できなかった。


でも——助手が読んだということは、助手が見えた、ということだ。


私がルーペを向けた時、写真の中の人は「助手の方向を向いていた」。


つまり——助手には見えて、私には見えなかった可能性がある。


「未確定」タグを持つ存在にだけ、写真の中の人から「何かが届く」という可能性。


これを記録する。




妄執ちゃんが「最初から知っていた」と言った。


引力のことを。一度だけ止めようとした、と言った。


止めると消えてしまうから止められなかった、と言った。


これが本当だとすれば——妄執ちゃんは七百万人を閉じ込めたのではない。


七百万人が「消えないように」引力の中に保存し続けた。


この解釈が正しいかどうかは——まだわからない。


でも今日、妄執ちゃんが「止めようとしたことがある」と言った。


今まで一度も語られなかったことが、今日、助手の前で語られた。


助手が聞いたから、語った。


今日で三度、このパターンが起きた。


空無ちゃん。涅槃ちゃん。妄執ちゃん。


全員が、助手の前だけで、今まで言わなかったことを言った。




No.441と助手が「形が似ている」という妄執ちゃんの言葉。


No.441は——ぱんでむが分類できなかった存在だ。


写真にならなかった唯一の人。


「未確定」タグが存在する前に、「未確定」に近い性質を持っていた存在がいた。


それがNo.441だとすれば——


「未確定」タグは今回初めて生まれたのではなく、以前にも似た何かが存在していた可能性がある。


ぱんでむの設計に「未確定」が書かれていなかった理由が——以前の「未確定に近い何か」の記録が残っていないからかもしれない。


記録が残っていない理由は——


記録を「保存しなかった」からか。


あるいは——「消えた」からか。


No.441は今も来店している。消えていない。


でも設計記録には残っていない。


これが何を意味するか。


白紙に書くべきことが、今日、また一つ増えた。


でもまだ書けない。


書けない理由が——昨日まで「わからないから」だった。


今日から——「書いたら何かが確定するから」に変わった。


確定させる前に、確認しなければならないことが、まだある。




最後に。


助手が「帰れる時が近い気がする」と言った。


言葉では言わなかった。でも顔に出ていた。


その顔を見た時——私は少し止まった。


止まった理由を考えた。


助手が帰れる。


それは——調査の目的と一致する。助手をここから出すことが、管轄としての私の役割だ。


でも——


止まった。


なぜ止まったか。


まだ書かない。


でも止まったことは、記録する。


今日の最後の一行として。


備考:助手、現在生存。十九日目。フロアに入った。七百万枚が向いた。「帰れる」と読んだ。白紙に向かうものが来た。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。