第十九話「七百万について」
【私の日記】
十九日目の昼、真意さんが「今日だけは、一緒にフロアに入る」と言った。
「入る、というのは」と私は聞いた。
「中に」と真意さんは言った。「ガラスの外から見るだけではなく、フロアの内側に入る」
「安全ですか」
「わからない」と真意さんは言った。「でも——今日入らなければならない理由ができた」
「何の理由ですか」
「妄執ちゃんから、来てほしいと言われた」
「妄執さんから」
「今朝、廊下で声をかけられた」と真意さんは言った。「「真意さんの助手の方を、一度お連れしてもらえませんか」と言われた」
「……なぜ私を」
「理由は言わなかった」
「断れなかったんですか」
「断れた」と真意さんは言った。「でも——断らない方がいいと判断した」
「なぜですか」
「妄執ちゃんが「来てほしい」と言うのは、今まで一度もなかった」と真意さんは言った。「妄執ちゃんは待つ。来た者を迎える。自分から「来てほしい」とは言わない。それが言われた」
私は少し間を置いた。
「……行きます」と言った。
フロアへの廊下を歩いた。
においが強くなった。
ダブルチーズバーガーのにおい。引力。
「今日は引力が強い」と真意さんが言った。
「感じます」と私は言った。「でも——昨日とは少し違います」
「何が違う」
「昨日は、引っ張られる感覚でした。今日は——押されている感覚がします」
真意さんが止まった。
「押されている」
「来るな、という感じではなくて。むしろ——中から何かが出ようとしている感じがします。その圧が廊下まで来ている」
真意さんがルーペを出した。廊下の空気に向けた。
「……フロアの内部気圧が変化している」と言った。「今朝から変わった。中の何かが——活性化している」
「七百万枚の写真が、ですか」
「可能性がある」と真意さんは言った。
扉の前に着いた。
「入る前に」と真意さんは言った。「一つだけ」
「はい」
「写真の中の人が手を振っても、振り返さないで。声が聞こえても、答えないで。妄執ちゃんに話しかけられたら、答えていい。それだけ守って」
「わかりました」
「——行きましょう」
扉が開いた。
音がした。
最初に、音が来た。
何百万もの声が、重なった音が——壁から、天井から、床から、来た。
声ではなかった。
呼吸の音に近かった。
七百万人分の呼吸が、重なって、部屋に満ちていた。
写真が壁を覆っていた。
全面に。隙間なく。天井にも。
全部が、少し揺れていた。
全部が、呼吸していた。
「……」
言葉が出なかった。
八話目に外から見た時とは、違った。
外から見た時は「動いている写真」が壁にあった。
中から見ると——壁全体が、生きていた。
壁そのものが、呼吸していた。
「大丈夫?」と真意さんが小声で言った。
「……大丈夫です」と私は言った。
嘘だった。
でも進んだ。
カウンターに、妄執ちゃんがいた。
今日の妄執ちゃんは、笑顔だった。
いつも笑顔だ。でも今日は——少し違う笑顔だった。
何かを待っていた笑顔だった。
「いらっしゃいませ」と言った。「またお会いしましたわね」
「……こんにちは」と私は言った。
妄執ちゃんが私を見た。
ルーペで見るような見方ではなかった。
ただ、見た。
「ご存知でしたか」と妄執ちゃんは言った。
「何をですか」
「今日の朝から、壁の子たちが少し違うのですわ」と妄執ちゃんは言った。おっとりと言った。「昨夜から、何かを感じているようで。声の質が変わりましたわ」
「何が変わりましたか」
「いつもは「また来たい」「ここが好き」という声なのですわ」と妄執ちゃんは言った。「でも昨夜から、別の声が混ざっていて」
「何という声ですか」
妄執ちゃんが少し考えた。
「「来る」という声ですわ」とだけ言った。
「来る、というのは」
「誰かが来る、という感触が壁の中に広がっているのだと思いますわ」と妄執ちゃんは言った。「そして——今日、来てくださった」
「……私のことですか」
妄執ちゃんが笑顔のまま、少し首を傾けた。
「あなた様のことを、壁の子たちが知っているのかどうかは——私にはわかりませんわ。でも「来る」という感触と、あなた様が来たことが——一致しましたわ」
「妄執さん」と真意さんが言った。「今日、来てほしいと言った理由を教えてください」
「ええ」と妄執ちゃんは言った。「お見せしたいものがありましたの」
「何ですか」
「こちらへ」
妄執ちゃんがカウンターから出た。壁に近づいた。
中央の一枚に近づいた。
一枚だけ、他と違う写真があった。
周囲の写真は縦向きか横向きに貼られていた。
中央の一枚だけ——少し角度がついていた。
傾いていた。
昨日まで傾いていなかった、と私は思った。外から見ていた時には、まっすぐだった。
「これが変わったのですわ」と妄執ちゃんは言った。「昨夜、この写真が傾いた」
「なぜ傾いたんですか」と私は聞いた。
「内側から動かしたのだと思いますわ」と妄執ちゃんは言った。
「内側から」
「写真の中の方が、内側から写真を動かした」と妄執ちゃんは言った。おっとりと言った。「それが何を意味するかは——私にもわかりませんわ。でも、初めてのことですわ。七百万枚の中で、内側から動いた写真は、今まで一枚もありませんでしたの」
真意さんがルーペを出した。
写真に向けた。
長く向けた。
「……」
何も言わなかった。
「何が見えますか」と私は聞いた。
「内側の人物が——」と真意さんは言いかけた。止まった。
「内側の人物が、何ですか」
「こちらを見ていない」と真意さんは言った。
「見ていない」
「今まで、外から確認した時は必ずこちらを見ていた。笑顔で手を振っていた。でも今日は——こちらを見ていない。別の方向を見ている」
「どの方向を」
「——あなたの方向を」と真意さんは言った。
「私の方向を、写真の中から見ている」
「そう」
七百万枚の中の、たった一枚が。
フロアの中にいる私を見ていた。
写真の平面を通して、見ていた。
「ほかの写真は」と私は言った。
「確認します」と真意さんは言って、別の一枚にルーペを向けた。
「……こちらもです」と言った。
また別の一枚に向けた。
「こちらも」
また別の一枚に。
「……全部です」と真意さんは言った。
「全部が、私を見ているんですか」
「全員が——あなたの方向を向いている」と真意さんは言った。「一枚も例外がない」
七百万枚が。
全員が。
私を見ていた。
壁が、生きていた。
全面が、私を見ていた。
「……怖くなってきました」と私は言った。
「正確な感覚です」と真意さんは言った。
妄執ちゃんが、おっとりした声で言った。
「怖がらなくていいのですわ」
「なぜですか」と私は聞いた。
「みなさん、あなた様に悪意はありませんから」とおっとり言った。「ただ——気になっているのだと思いますわ。声がしない写真と同じ——分類できない方が来たから」
「声がしない写真と同じ、というのは」
妄執ちゃんが少し止まった。
「……中央の一枚のことですわ」とだけ言った。「あの写真の方も、最初に来た時——壁の子たちが全員、あちらを向きましたの」
「No.441さんが来た時のことですか」と真意さんが言った。
「ええ」と妄執ちゃんは言った。「あの方も——ぱんでむが分類できなかった方ですわ。分類できない方が来ると、壁の子たちは向く。今日のあなた様も、同じですわ」
「……妄執さん」と私は言った。
「なんですかしら」
「写真の中の人たちは、幸せですか」
妄執ちゃんが私を見た。
笑顔のまま、見た。
「幸せそうですわ」と言った。
「幸せそう、ではなく——幸せですか」
妄執ちゃんが少し間を置いた。
「わかりませんわ」と言った。
それが本当のことだった。
「幸せそうに見える。声が聞こえる。「また来たい」「ここが好き」と言っている。でも——それが「本物の幸せ」かどうかは、私には確認できませんわ」
「確認できない理由は何ですか」
「引力があるからですわ」と妄執ちゃんは言った。「ダブルチーズバーガーを食べた方には、引力がある。「また来たい」という感情が、本人のものか、引力が生んだものかは——区別できませんわ」
「知っているんですか、引力のことを」
「知っていますわ」と妄執ちゃんは言った。おっとりと、当然のように言った。
真意さんが少し手を止めた。
「……いつから知っていましたか」と真意さんは聞いた。
「最初から知っていましたわ」と妄執ちゃんは言った。「ダブルチーズバーガーに引力がある。食べた方が帰りにくくなる。それは最初から知っていましたわ」
「知っていて——」
「ええ」と妄執ちゃんは言った。「知っていて、今日も作りましたわ。昨日も作りましたわ。七百万日分、作りましたわ」
「止めようとしたことはありますか」と私は聞いた。
妄執ちゃんが、少し笑顔を変えた。
何かが、笑顔の奥に来た。
「ありますわ」と言った。「一度だけ」
「なぜ止めなかったんですか」
「止めると——みなさんが消えますわ」と妄執ちゃんは言った。「引力がなくなると、写真の中にいられなくなる。みなさんが——どこへ行くかわかりませんわ。だから止められなかったのですわ」
「消えるかもしれないから、止めなかった」
「ええ」と妄執ちゃんは言った。「それだけですわ」
「……一つ聞かせてください」と真意さんが言った。
「なんですかしら」
「今日、私たちに来てほしいと言った理由を、正確に教えてください。お見せしたいものがある、とおっしゃった。でも——写真が傾いたことだけが理由ではないと思います」
妄執ちゃんが少し間を置いた。
「鋭いですわね」と言った。
「教えてもらえますか」
妄執ちゃんがカウンターに戻った。
ノートを出した。第二十三冊目だった。
ページを開いた。
後ろのページだった。
「これを見ていただきたかったのですわ」
ページを見せた。
数字だけが並んでいた。
一日、二日、三日——
千百十九日、という数字が最後にあった。
「No.441さんの経過日数ですか」と真意さんが言った。
「ええ」と妄執ちゃんは言った。「でも——今日、変わりましたの」
ノートを手に持ったまま、次のページを開いた。
何も書いていないページだった。
「今日から、数えるのをやめましたの」とおっとりと言った。
「なぜですか」
「あなた様が来たから」と妄執ちゃんは言った。私を見て言った。
「私が来たことと、No.441さんの日数をやめることが、なぜ関係するんですか」
妄執ちゃんが少し、笑顔の奥が動いた。
「……あなた様は」と妄執ちゃんは言った。「No.441の方と、少し——形が似ていますわ」
「形が似ている」
「タグの形が、ですわ」とおっとりと言った。「私にはタグは読めませんわ。でも——お二人には同じ「においがしますの。分類できないもののにおいが」
「……No.441さんは、未確定タグを持っていましたか」と真意さんが聞いた。
「わかりませんわ」と妄執ちゃんは言った。「でも——ぱんでむが、分類できなかった方ですわ。最初に来た時、南の出口で——写真にならなかった。壁に来なかった。だから私が手でシャッターを押して、写真を撮りましたの。あの写真だけは、私が撮りましたの」
「……中にいないから、声がしない」
「ええ」と妄執ちゃんは言った。「中にいないのに、壁にある。あの写真だけが、空っぽのままですわ。でも——貼ってありますわ。貼っていたいから、貼っていますわ」
それが本当のことだった。
帰り際、フロアの扉を出る前に振り返った。
七百万枚の写真が、壁を覆っていた。
全員が——また、私の方を向いていた。
でも今度は、手を振っていなかった。
ただ、見ていた。
一枚が、少し動いた。
写真の中の人が、口を動かした。
何を言っているか、聞こえなかった。
でも——口の形は、読めた。
「帰れる」と言っていた。
「帰れる」と、写真の中から、言っていた。
私は扉を閉めた。
探偵事務所に戻った。
「……写真の中の人が「帰れる」と言っていました」と私は言った。
真意さんが手を止めた。
「帰れる、と」
「口の形でそう読みました。声は聞こえませんでしたが」
「……それが何を意味するか、考えていいですか」と真意さんは言った。
「はい」
「その人は——帰れないはずの場所にいる。でも「帰れる」と言った」
「私に向かって言っていたと思います」と私は言った。
「あなたに」
「はい。私が帰れるということを、言いたかったのかもしれません」
真意さんが長い間、何も言わなかった。
「……あるいは」と真意さんは言った。
「あるいは」
「自分たちが帰れる、という意味だったかもしれない」と真意さんは言った。「「未確定」のあなたが来たことで——引力の構造に変化が起きる可能性がある。あなたがフロアに入ることで、何かが動き始めているかもしれない」
「動き始めると、どうなりますか」
「わからない」と真意さんは言った。「でも——七百万人が全員、あなたの方向を向いた。その七百万人のうちの一人が「帰れる」と言った。それが今日の事実だ」
「……どうすればいいですか」と私は聞いた。
「わからない」と真意さんは言った。「でも——今日の記録を全部書く。全部書いた後で、白紙を見る」
「白紙に何かが見えますか」
「見えるかもしれない」と真意さんは言った。「今日、初めて——白紙に向かって書けるものが来た気がする」
「何が来たんですか」
「まだわからない」と真意さんは言った。「でも——来た」
タイプライターを打ち始めた。
音が部屋に戻ってきた。
私は壁の白紙を見た。
白紙のままだった。
でも今日の白紙は——昨日よりも、少しだけ重く見えた。
何かを保っている重さから、何かを手放す前の重さに、変わっていた。
それが何を意味するか、私にはわからなかった。
でも——わかる時が来る気がした。
来る時が、近い気がした。
【真意の調査記録】
〇月⬛⬛日
十九日目
今日、フロアに入った。助手と一緒に。
妄執ちゃんから呼ばれた。理由はノートだった。
No.441の経過日数を数えるのをやめた——理由が助手だった。
七百万枚の写真が全員、助手の方向を向いた。
これを記録する。
七百万という数の全員が、一人の存在を向いた。
引力の方向が変わった。
今まで引力は「外から内へ」向いていた。ダブルチーズバーガーを食べた者をフロアに引き戻す引力。内側から外へ向かって引く力。
でも今日——
七百万が「内から助手へ」向いた。
引力の向きが逆転した可能性がある。
ダブルチーズバーガーの引力が「外にいる者を引き込む」のに対して——「未確定」タグが「内にいる者を引き出す」方向に働き始めているかもしれない。
これは仮説だ。でも今日、七百万が一斉に向いた、という事実がある。
「帰れる」という口の動きについて。
助手が読んだ。私は確認できなかった。
でも——助手が読んだということは、助手が見えた、ということだ。
私がルーペを向けた時、写真の中の人は「助手の方向を向いていた」。
つまり——助手には見えて、私には見えなかった可能性がある。
「未確定」タグを持つ存在にだけ、写真の中の人から「何かが届く」という可能性。
これを記録する。
妄執ちゃんが「最初から知っていた」と言った。
引力のことを。一度だけ止めようとした、と言った。
止めると消えてしまうから止められなかった、と言った。
これが本当だとすれば——妄執ちゃんは七百万人を閉じ込めたのではない。
七百万人が「消えないように」引力の中に保存し続けた。
この解釈が正しいかどうかは——まだわからない。
でも今日、妄執ちゃんが「止めようとしたことがある」と言った。
今まで一度も語られなかったことが、今日、助手の前で語られた。
助手が聞いたから、語った。
今日で三度、このパターンが起きた。
空無ちゃん。涅槃ちゃん。妄執ちゃん。
全員が、助手の前だけで、今まで言わなかったことを言った。
No.441と助手が「形が似ている」という妄執ちゃんの言葉。
No.441は——ぱんでむが分類できなかった存在だ。
写真にならなかった唯一の人。
「未確定」タグが存在する前に、「未確定」に近い性質を持っていた存在がいた。
それがNo.441だとすれば——
「未確定」タグは今回初めて生まれたのではなく、以前にも似た何かが存在していた可能性がある。
ぱんでむの設計に「未確定」が書かれていなかった理由が——以前の「未確定に近い何か」の記録が残っていないからかもしれない。
記録が残っていない理由は——
記録を「保存しなかった」からか。
あるいは——「消えた」からか。
No.441は今も来店している。消えていない。
でも設計記録には残っていない。
これが何を意味するか。
白紙に書くべきことが、今日、また一つ増えた。
でもまだ書けない。
書けない理由が——昨日まで「わからないから」だった。
今日から——「書いたら何かが確定するから」に変わった。
確定させる前に、確認しなければならないことが、まだある。
最後に。
助手が「帰れる時が近い気がする」と言った。
言葉では言わなかった。でも顔に出ていた。
その顔を見た時——私は少し止まった。
止まった理由を考えた。
助手が帰れる。
それは——調査の目的と一致する。助手をここから出すことが、管轄としての私の役割だ。
でも——
止まった。
なぜ止まったか。
まだ書かない。
でも止まったことは、記録する。
今日の最後の一行として。
備考:助手、現在生存。十九日目。フロアに入った。七百万枚が向いた。「帰れる」と読んだ。白紙に向かうものが来た。




