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第十七話「ランランルーについて」


【私の日記】


十七日目の朝、世頼ちゃんの歌が聞こえた。


いつもと違った。


今まで廊下で時々聞こえる世頼ちゃんの歌は、遠くからだった。「近づかないで」と真意さんに言われていたし、聞こえたら速度を上げて遠ざかっていた。


でも今朝は——探偵事務所の中で、聞こえた。


扉は閉まっていた。


壁から聞こえた。


壁に染み込んでいた。


壁が歌っていた。




「真意さん」と私は言った。「壁から歌が聞こえます」


真意さんがルーペを出した。


壁に向けた。


「残響だ」と言った。


「残響」


「世頼ちゃんの「残響支配」——一度歌った楽曲は空間の残響として永続する。音源がなくなっても、空間そのものが歌い続ける」と真意さんは言った。「今まで、探偵事務所はその範囲外だった。でも——昨日から」


「昨日から」


「観測者タグが「未確定」に変わったことで、この部屋もぱんでむの観測範囲に入った」と真意さんは言った。「観測範囲に入った空間には、今まで世頼ちゃんが歌ってきた全ての楽曲の残響が——自動的に浸透する」


「どういう意味ですか」


「ぱんでむの全区画に、世頼ちゃんの残響は既に染み込んでいる。この部屋だけが例外だったのは、千姿ちゃんの観測から外れていたからだ。その例外が、昨日消えた」


「……今、この部屋に残響が入り込んでいるんですか」


「今入り込んでいるのではない」と真意さんは言った。「ぱんでむが作られた時から蓄積してきた全ての残響が——今朝、一度に流れ込んだ」


壁が、歌っていた。


天井も、歌っていた。


床も、歌っていた。


どこへ逃げても、歌は止まらなかった。




「……どうすればいいですか」と私は言った。


「耳を塞いでも意味がない」と真意さんは言った。「骨伝導で届く。残響支配はそういう設計だ」


「では」


「今から起きることに対して、私にできることを全てやる」と真意さんは言った。


「今から起きること」


「心拍がBGMに同期する可能性がある」と真意さんは言った。「同期した場合、あなたの心拍が生み出す生体エネルギーがドナルゥトゥへの信仰エネルギーに変換され続ける。生きているだけで——止まらない」


「同期がどの程度で起きるかは」


「わからない」と真意さんは言った。「「未確定」タグを持つ存在で実験されたことがない。でも——」


少し止まった。


「でも」


「「未確定」が何かを変えるかもしれない。わからないことが、ここでは唯一の可能性になり得る」


壁の歌が大きくなった気がした。


大きくなったのではなく、私の感覚が慣れて、より細部まで聞こえるようになったのかもしれなかった。


きれいな歌だった。


荘厳で。深くて。


怖いとわかっていても、きれいだった。




しばらくして、廊下から声がした。


「……おはようございます」


扉が開いた。


世頼ちゃんだった。


白と黒の法衣。敬虔な顔。


「少し、よろしいですか」と言った。


真意さんが立ち上がった。「この子に何をする気ですか」


「歌いに来ました」と世頼ちゃんは言った。


「帰ってください」


「帰れません」と世頼ちゃんは言った。穏やかに言った。「残響がこの部屋に入った以上、私はこの部屋の「管轄」になります。残響が存在する間、私はここで福音を届ける義務があります」


「義務」


「ドナルド様への奉仕は義務です」とうっとりした声で言った。「この方が残響に触れている。残響に触れた存在には、福音が届けられなければなりません」


「届けなくていいです」と私は言った。


世頼ちゃんが私を見た。


白い肌。静かな目。口の端が少し、上がっていた。


「あなたは特別ですから」と世頼ちゃんは言った。「通常の方には、望むかどうかを確認しません。でもあなたは——「未確定」です。確認する必要があります」


「確認、というのは」


「歌いましょうか」と世頼ちゃんは言った。「それだけです」


「歌われたら、どうなりますか」と私は聞いた。


世頼ちゃんが少し考えた。


「心拍が同期します」と言った。「それだけです。とても簡単なことです」


「同期した後は」


「ドナルド様への祈りが、あなたの生から絶え間なく捧げられます」とうっとり言った。「苦しくはありません。むしろ——とても穏やかになります。これまで感じていた恐怖も、帰りたいという焦りも、全部、静かになります」


「……静かになる」


「ええ」と世頼ちゃんは言った。「ここが居心地よくなります。帰る必要を感じなくなります。それだけです」




真意さんが私の前に立った。


「この子は私の管轄です」と言った。


「真意さん」と世頼ちゃんは言った。「あなたが管轄できるのは、タグで分類できる存在に対してです。「未確定」はいかなる管轄にも属さない。これはシステムの規定です」


「規定には従いません」


「従わないことも、記録されます」と世頼ちゃんは言った。穏やかに言った。「真意さんの行動は全て観測されています。「真意が管轄外の存在を管轄しようとした」という事実が記録されます」


「記録されても構いません」と真意さんは言った。


「そうですか」と世頼ちゃんは言った。


少し間を置いた。


「では、一つだけ聞かせてください」と世頼ちゃんは言った。「真意さん、あなたはなぜこの方を守ろうとしていますか」


「調査のためです」と真意さんは言った。


「本当ですか」と世頼ちゃんは言った。


真意さんが何も言わなかった。


「歌います」と世頼ちゃんは言った。


真意さんの前を、歩いた。




歌った。


小さく、歌った。


「ランランルー」という言葉だけが、最初に来た。


それだけだった。


たった一言だった。


でも——


私は、手を止めた。


何もしていなかったが、手を止めた。


思考が、止まった。


止まった、というより——一瞬、全部が遠くなった。


部屋が遠くなった。真意さんが遠くなった。赤い糸が遠くなった。白紙が遠くなった。


怖いという感覚が遠くなった。


帰りたいという感覚が遠くなった。


遠くなった後に残ったのは——


歌だけだった。


きれいな歌だけが、あった。




世頼ちゃんが歌うのをやめた。


静かになった。


遠かったものが、戻ってきた。


部屋が戻ってきた。真意さんが戻ってきた。


「……」


何も言えなかった。


「心拍は」と真意さんが聞いた。私に向かって。


「……わかりません」と私は言った。「でも——今、何か変わりましたか」


「タグを確認する」と真意さんはルーペを出した。私に向けた。長く見た。


「……何も変わっていない」と言った。


「同期しなかったんですか」


「同期した形跡がない」と真意さんは言った。信じられないような声で言った。「「未確定」タグに変化なし。三層目に変化なし。心拍の変動が起きた痕跡がない——つまり」


「つまり」


「世頼ちゃんの歌が、あなたに効かなかった」


世頼ちゃんが止まった。


振り返った。


初めて、困惑した顔をした。


「効かなかった、ではありません」と世頼ちゃんは言った。声が少し、変わっていた。「届きました。確かに届きました。でも——」


「でも」


「届いた後、どこへも行きませんでした」と世頼ちゃんは言った。


「どういうことですか」と私は聞いた。


「通常、届いた歌は「心拍に乗る」ことで信仰エネルギーに変換されます。でもあなたの中に届いた歌は——心拍に乗らなかった。乗らずに、ただそこにありました」


「ただそこにある、というのは」


「変換されなかった」と世頼ちゃんは言った。「変換されずに——残っています。あなたの中に。今も」


「今も歌が残っているんですか、私の中に」


「はい」と世頼ちゃんは言った。「でも信仰エネルギーにならず、害にもなっていない。ただ——ある」


「それは何ですか」と私は聞いた。


世頼ちゃんが少し間を置いた。


「……私にもわかりません」と言った。


それが本当のことだった。


世頼ちゃんが、私をじっと見た。


今まで見たどのクルーとも違う見方で、見た。


計算でも、食欲でも、好奇心でもない。


「……おかしいですね」と世頼ちゃんは言った。静かに言った。「今まで一度も、歌が変換されなかったことがありません。届かないことはあった。でも届いて変換されないことは——」


止まった。


「なかった」とだけ言った。




真意さんが「今日のところはここまでにしてください」と言った。


「そうします」と世頼ちゃんは言った。


扉に向かいかけて、止まった。


振り返った。


「一つだけ」と言った。


「何ですか」


「この歌は」と世頼ちゃんは言った。「あなたの中に残ったまま、ずっとあり続けます。変換されなくても、消えることもない。残響支配とはそういうものです」


「……それはどういう意味ですか」


「あなたが生きている間」と世頼ちゃんは言った。「ずっと、私の歌があなたの中にあります。変換されない形で。届いたまま。それが何を意味するかは——」


「あなたにもわからない」と私は言った。


「はい」と世頼ちゃんは言った。


扉が閉まった。


壁が、まだ歌っていた。


そして——私の中にも、何かが、あった。


変換されないまま、消えないまま、ただ、あった。




「……何が残ったんだと思いますか」と私は真意さんに聞いた。


「わからない」と真意さんは言った。「でも——今日起きたことを、一つずつ整理する」


「一つずつ」


「まず、世頼ちゃんの歌があなたに効かなかった。同期しなかった」


「次に」


「歌があなたの中に残っている。変換されずに残っている。それが何かは今はわからない。でも——消えてもいない」


「それから」


「世頼ちゃんが「届いて変換されなかった」という事態に、初めて直面した」と真意さんは言った。「世頼ちゃんは今まで全ての存在に歌を届けてきた。届いたものは必ず変換された。今日、初めて変換されなかった。世頼ちゃんが困惑していた」


「ぱんでむのシステムとして、想定されていなかったことが起きた」


「そう。また一つ、想定外が増えた」と真意さんは言った。




夕方、廊下を歩いていたら、クルーたちに会った。


懺悔ちゃんが廊下にいた。


今日の手は、また変わっていた。


右手の皮膚の色が変わっていた。何かの鱗に似た質感になっていた。


「おかえり」とのんびり言った。


「……ただいまです」と私は言った。


懺悔ちゃんが私を見た。じっと見た。


「何かにおいが変わった」と言った。


「私のにおいですか」


「うん。朝と違う。朝は普通だったのに、今は——」


少し考えた。


「罪のにおいじゃない」と言った。「でも罪に似た形のにおいでもない。今まで嗅いだことがないにおい」


「何のにおいですか」と私は聞いた。


「わからない」とのんびり言った。「でも——食べたいとは思わない。食べたいにおいじゃない。でも、ある」


「においがあるけど、食べたくない」


「うん」と懺悔ちゃんは言った。「珍しい。ここにいるものは全部、食べたいか食べたくないかどちらかだから。食べたくないけどにおいがある、というのは初めて」


懺悔ちゃんの鱗の手が、少し動いた。


「……なんのにおいか、ずっと考えてた」と言った。「考えたけどわからなかった。でも」


「でも」


「知っているにおいに近い気がした」とのんびり言った。「よくわからないけど、知っている気がした」


「何のにおいに近いですか」


懺悔ちゃんが少し考えた。


「食べた罪の中に、一回だけ、こういうにおいのものがあった」とのんびり言った。「食べたけど、覚えていない。でも覚えていないのに、においだけ覚えていた」


「それが何のにおいかわかりますか」


「わからない」と懺悔ちゃんは言った。「でも——食べた時、少し泣いた」


「罪を食べて、泣いたことがあるんですか」


「一回だけ」とのんびり言った。「覚えていないのに、一回だけ泣いたことは覚えている。今日のあなたのにおいが、その時のにおいに近い」


懺悔ちゃんが廊下を歩き始めた。


「また来る」とのんびり言った。「においがどう変わるか、気になるから」


廊下に一人残った。


世頼ちゃんの歌が、私の中にある。


懺悔ちゃんが一回だけ泣いた罪のにおいに近い。


それが何かは、わからなかった。




探偵事務所に戻る途中、万寿ちゃんが廊下にいた。


「……今日の顔」と万寿ちゃんは言った。通り過ぎる時に言った。


「何ですか」と私は聞いた。


「死に方が、また変わった」とうっとりした声で言った。「昨日は見えなかった。今日は——少し見えた」


「どんな死に方ですか」と私は聞いた。


万寿ちゃんが私を見た。


「……何かを受け取った後の、死に方」とうっとり言った。「受け取ったものを持ったまま、死ぬ。何を受け取ったのかは、まだ見えない。でも——受け取ったまま死ぬ、という形が今日から見え始めた」


「受け取ったまま」


「そう」と万寿ちゃんは言った。「今まで見えなかった死に方が見えた。それが今日の変化です。美しい変化だと思います」


「なぜ美しいんですか」と私は聞いた。


「何かを受け取って、それを持ったまま死ねる存在は少ない」と万寿ちゃんは言った。「ほとんどの存在は、死ぬ前に手放す。でもあなたは——持ったまま死ぬかもしれない。それは美しい」


「……受け取るものが何かによるんじゃないですか」


「そう」と万寿ちゃんは言った。「だからまだ美しいとは断言できない。でも今日から——楽しみになりました」


鎌を持って、歩いていった。


白い花びらが一枚、またこぼれた。


廊下の床に落ちた。


今日が二枚目だった。




探偵事務所に入った。


真意さんがタイプライターの前にいた。


「万寿ちゃんに会いました」と私は言った。「死に方が少し見えるようになったと言っていました」


「何に変わったか聞いた?」と真意さんが言った。


「受け取ったものを持ったまま死ぬ、という死に方だそうです」


真意さんが少し止まった。


「……受け取ったもの」と繰り返した。


「世頼ちゃんの歌が、私の中にある。懺悔ちゃんが泣いた罪のにおいに近い、と言っていました。万寿ちゃんには「受け取ったもの」が見えている。全部が今日の出来事です」


真意さんが長い間、何も書かなかった。


「……全員が、あなたの変化を感知している」と言った。


「私も今日何かが変わったと感じています」と私は言った。「でも何が変わったかは——わかりません」


「わかった時に、教えてほしい」と真意さんは言った。


「わかりますか、私が」


「わからない」と真意さんは言った。「でも——わかった時に、私に教えてほしい。あなた自身の言葉で」


「なぜですか」と私は聞いた。


真意さんが少し間を置いた。


「白紙に書く日が来るかもしれないから」と言った。


私は壁の白紙を見た。


白紙のままだった。


赤い糸が向かっていた。


どこにも到達していなかった。


でも——今日、その白紙が少しだけ、違う重さに見えた。


何かを待っているものの重さに、見えた。




【真意の調査記録】


**〇月★◆■日**

**十七日目**


今日起きたこと。


一:ぱんでむの観測範囲に探偵事務所が入ったことで、世頼ちゃんの残響が室内に浸透した。


二:世頼ちゃんが直接来た。歌った。


三:助手の心拍が同期しなかった。


四:歌が助手の中に残っている。変換されずに。


五:懺悔ちゃんが今日の助手のにおいを「一回だけ泣いた罪のにおいに近い」と言った。


六:万寿ちゃんに「受け取ったものを持ったまま死ぬ」という死に方が見え始めた。




三について記録する。


助手の心拍が同期しなかった理由が、まだわからない。


「未確定」タグが防いだのか。助手自身に何かがあるのか。


どちらかわからない。


でも世頼ちゃんが「届いた。でもどこへも行かなかった」と言った。


「届いた」という事実がある。「変換されなかった」という事実がある。


届いて、変換されず、残った。


ぱんでむのシステムでは「届いた歌は変換される」か「届かない」かのどちらかだ。


「届いて変換されずに残る」という第三の状態は——存在しなかった。


今日、存在した。


世頼ちゃんが今日初めて「わかりません」という顔をした。


世頼ちゃんが全ての存在に歌を届けてきた。全員が変換された。変換されなかった存在が今日初めて生まれた。


その存在が今、このタイプライターの前にいる。




五について記録する。


懺悔ちゃんが一回だけ泣いた罪。


懺悔ちゃんは何千何万の罪を食べてきた。その中で一回だけ泣いた。


内容を覚えていない。においだけを覚えている。


今日の助手のにおいがそれに近い。


懺悔ちゃんが泣いた罪は何だったのか。


「覚えていない」のか「覚えていないことにしている」のか——十日目に涅槃ちゃんについて思ったことと同じ問いが、ここにも来た。


記録する。




六について記録する。


万寿ちゃんに死に方が「見え始めた」。


「未確定」だから見えなかった。でも今日、一部が見えた。


「受け取ったものを持ったまま死ぬ」。


今日、助手は世頼ちゃんの歌を「持ち帰った」。


それが「受け取ったもの」の一部なのか全てなのか、あるいは別のものがあるのかは——わからない。


「持ったまま死ぬ」という形が生まれたということは——助手は何かを手放さずに終わる可能性が出てきた。


万寿ちゃんは「美しい」と言った。


私は、美しいかどうかより——何を持つかを、もっと知りたいと思った。




最後に。


今日、世頼ちゃんが「真意さん、あなたはなぜこの方を守ろうとしていますか」と聞いた。


「調査のためです」と答えた。


世頼ちゃんが「本当ですか」と聞いた。


私は何も言わなかった。


何も言わなかったことが——答えだった。


その答えを、世頼ちゃんは聞いた。


その答えを、助手は聞いていなかった。


記録する。


「調査のためです」と言った。


でもその後に何も言えなかったことも、記録する。


両方が今日の事実だ。


**備考:助手、現在生存。十七日目。歌を受け取った。変換されなかった。中にある。**

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