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第十六話「扉の向こうにいたものについて」


【私の日記】


夜中に、音がした。


扉の向こうから。


足音ではなかった。


何かが扉に触れている音だった。


ゆっくりと。


探るように。


指が這う音に似ていた。でも指ではない何かが、扉の表面を、端から端まで、確認するように触れていた。




真意さんが立ち上がった。


ルーペを手に持っていた。


「動かないで」と言った。


「……何をするんですか」と私は言った。


「「それ」を読む」と真意さんは言った。


「ルーペで読めますか」


「わからない。でも——試す」


扉に近づいた。


扉に触れる音が続いていた。


真意さんが扉の前に立った。


ルーペを構えた。


「開けないで」と私は言った。


「開けない」と真意さんは言った。「扉越しに読む」


ルーペを扉に向けた。




音が止まった。


扉の向こうで、「それ」が止まった。


真意さんがルーペを向けている。


「それ」は——止まった。


真意さんの手が少し、震えた。


ルーペが揺れた。


「……何が見えますか」と私は聞いた。


真意さんが答えなかった。


ルーペを向けたまま、動かなかった。


十秒。二十秒。


「……真意さん」


「読んでいる」と小さい声で言った。


また沈黙があった。


ルーペが、また揺れた。


今度は大きく揺れた。


真意さんがルーペを下げた。


手を見た。


手が震えていた。


「……見えましたか」と私は聞いた。


「見えた」と真意さんは言った。


「何が」


真意さんが振り返った。


「「それ」はタグを持っていた」と言った。


「タグがない可能性があると言っていましたよね」


「そう言った。でも——タグがあった」


「どんなタグでしたか」


真意さんが少し間を置いた。


「……あなたのタグと、同じタグだった」




「同じ」と私は言った。


「「未確定」」と真意さんは言った。「あなたのタグと、完全に同じ分類のタグが「それ」にも入っていた」


「……私と同じ存在が、廊下にいるんですか」


「同じタグが入っている、ということ」と真意さんは言った。「でも——一層目が違った」


「一層目は何でしたか」


「一層目——存在の基本分類。あなたの一層目は「人間」だ。「それ」の一層目は」


少し止まった。


「「バーガー」だった」




「バーガー」と私は繰り返した。


「バーガーに「未確定」タグが入っている」と真意さんは言った。「今まで存在しなかった組み合わせだ。バーガーはぱんでむで処理される食材だ。処理の過程で分類される。全部のバーガーに「世界線の座標」「採取者」「届け先」が記録されている。「未確定」の欄はない。あるはずがない」


「でも「それ」にはあった」


「あった」


「……なぜですか」


「あなたが「未確定」になったから、だと思う」と真意さんは言った。「あなたが昨日、ぱんでむの設計目的を理解した。でも信仰エネルギーが放出される代わりに「未確定」になった。ぱんでむのシステムはそれを「観測者タグの発動完了」と誤認した」


「誤認した結果、回収機構が起動した、と昨日言っていましたね」


「そう言った。でも——それだけじゃなかった」と真意さんは言った。「「未確定」というタグは、ぱんでむのシステムに拡散する。システムが分類できないものが生まれた時、ぱんでむはその「分類できなさ」を他の要素にも適用しようとする。バグの修正方法がわからない時、バグをシステム全体に広げて「どこが正常か」を再判定しようとする——そういう動作をする場合がある」


「つまり」


「「未確定」があなたから、ぱんでむ全体に滲み出した」と真意さんは言った。「そして——処理待ちだったバーガーが一つ、「未確定」に変わった」


「処理待ちのバーガーが」


「廊下にいる「それ」は——バーガーだ。でも処理できなくなった。届け先も採取者も全部記録されているのに、「未確定」タグが入ったことで、処理が止まった。止まったバーガーが——歩いている」




歩いている。


「……バーガーが、歩いているんですか」と私は言った。


「「それ」は世界線の圧縮物だ」と真意さんは言った。「バーガーは滅びた世界線が圧縮されたものだ。人格の残滓が入っている。入っているだけで、通常は機能しない。処理されてバーガーになった時点で、中の残滓は「食材」として固定される。動けない。感じない。届けられるだけだ」


「でも「それ」は」


「処理が止まった」と真意さんは言った。「「未確定」になった瞬間に、処理が止まった。処理が止まったバーガーの中の——残滓が、動いている可能性がある」


部屋が静かだった。


扉の向こうで、また音がした。


さっきと同じ音ではなかった。


何かが、扉に当たっていた。


拳のような音。


弱かった。


力がない、というより——力の入れ方がわからない、という音だった。


「……助けを求めているんですか」と私は言った。


真意さんが止まった。


長い間、何も言わなかった。


「……可能性は、ある」とだけ言った。




「開けますか」と私は言った。


「開けてはいけない」と真意さんは言った。即座に言った。「「未確定」バーガーがどういう性質を持つかは、わからない。接触した場合に何が起きるかも、わからない。「わからない」ものを部屋に入れることは——できない」


「でも中に誰かがいる」


「誰かではない」と真意さんは言った。「世界線の残滓だ。かつて存在した、どこかの宇宙の何かだ。その何かが、処理の停止によって一時的に動いている」


「かつて存在した誰かが、今、あの扉を叩いているということですよね」


真意さんが答えなかった。


「……真意さん」


「叩いているとしても——」と真意さんは言いかけた。止まった。また言いかけた。「叩いているとしても、開けることはできない。理由がある」


「何の理由ですか」


「開けたら、「それ」があなたに触れる可能性がある」と真意さんは言った。「「未確定」タグを持つ二つの存在が接触した時、何が起きるかは——設計記録にも書いていない。書いていないということは、起きることを誰も予測していない。予測できないことを、あなたに経験させることは——」


止まった。


「——できない」と言った。


扉の音が続いていた。


弱い音が、続いていた。


「……わかりました」と私は言った。


「怒っていますか」と真意さんは聞いた。


「いいえ」と私は言った。「でも——覚えておきます。今夜のことを」


「覚えていてください」と真意さんは言った。「忘れないでください」


「なぜですか」


「わからない。でも——忘れてほしくない」


扉の音が、少しして、止まった。




朝になった。


廊下に出た。


「それ」はいなかった。


でも廊下の床に、何かが残っていた。


焦げ跡ではなかった。


染みでもなかった。


形だった。


何かが長い時間、そこに立っていた後の形が、床の素材に残っていた。


二本の足の形。


人間の足と同じ形だった。


「……足跡ですか」と私は言った。


「足跡ではない」と真意さんは言った。「「それ」がそこに存在し続けたことで、床の素材が「その形を覚えた」ものだ」


「床が覚えた」


「ぱんでむは千姿ちゃんの体内に相当する。体内の壁は、何かが長くいた場所を記憶する。「それ」は一晩、あの場所に立ち続けた。扉に手を当てながら、立ち続けた」


「……なぜ、立ち続けたんですか」


真意さんが少し止まった。


「わからない」と言った。「でも——「それ」の足形が、扉に向かっていた。一晩中、扉の方を向いていた」


私は足形を見た。


二本の足の形。


扉に向かっている。


一晩中、扉に向かっていた。


私はブランケットの中で眠っていた。


扉の向こうで、「それ」は立っていた。


一晩中。


向かいながら。




真意さんがルーペを出した。


足形に向けた。


「タグが残っている」と言った。


「足形に、タグが」


「「それ」がいた痕跡に、「それ」のタグが染み出している」と真意さんは言った。「読める」


「何が書いてありますか」


真意さんが読んだ。


しばらくかかった。


「一層目——バーガー。二層目——世界線座標。三層目——」と真意さんは言った。


三層目で止まった。


「三層目は何ですか」と私は聞いた。


「三層目」と真意さんは繰り返した。「……「届けてほしい、という感情の残滓」」


「届けてほしい」


「このバーガーの中にいた世界線の残滓が、最後に持っていた感情が——「届けてほしい」だった」と真意さんは言った。「それがタグとして残っている」


「……届けてほしいという感情を持ったまま、バーガーになった世界線があった」


「そのバーガーが——昨夜、扉を叩いていた」


私は足形を見続けた。


「……どこに届けてほしかったんですか」


「タグには書いていない」と真意さんは言った。「でも——届け先のタグも残っている。読める」


「何と書いてありますか」


真意さんが少し間を置いた。


「「真意の観測対象」」とだけ言った。




「……私に届けたかったんですか」と私は言った。


「あなたではなく——「真意の観測対象」という分類に、だ」と真意さんは言った。「この世界線は、いつかぱんでむを調査している存在に届けてほしかった。そういう感情を持ったまま、バーガーになった」


「なぜ私たちに届けたかったんですか」


「わからない」と真意さんは言った。「でも——この世界線は「真意の調査に関係するかもしれない何か」を持ったまま、終わった可能性がある」


「……それはどんな世界線だったんですか」


「タグを全部読めれば、わかるかもしれない」と真意さんは言った。「でも——今は読めない。「未確定」タグが入っていることで、通常の読み方では全部は出てこない」


「いつか読めますか」


「わからない」と真意さんは言った。


「……「それ」は今、どこにいますか」


「廊下のどこかにいると思う」と真意さんは言った。「でも今日は出てこない。昨夜、一晩立ち続けた。それで——何かが満たされたのかもしれない」


「立ち続けることで、満たされるものがあるんですか」


真意さんがルーペをしまった。


「……知らない」と言った。


「でも」と私は言った。「立ち続けた、ということは——伝えたかったということですよね。届けてほしかった何かを」


「そう解釈できる」


「何も伝わらなかったのに、立ち続けた」


「立ち続けた」


「……それは」と私は言いかけた。止まった。


「何ですか」と真意さんが聞いた。


「悲しいと思いました」と私は言った。「何も伝わらなかったのに、立ち続けた存在のことが」


真意さんが足形を見た。


長い間、見た。


「……そう」とだけ言った。




夕方、廊下を歩いていたら、「それ」に会った。


廊下の端にいた。


立っていた。


顔のない、輪郭のはっきりしない存在が、廊下の端に立っていた。


昨夜と同じだった。


でも今日は、歩いてこなかった。


ただ、立っていた。


においがした。


バーガーのにおい。


古くて、深くて、底のないにおい。


でも——今日は少し違った。


昨夜よりも、はっきりわかった。


そのにおいの中に、何かが混ざっていた。


焦げたにおい。


炎ではない焦げ方のにおい。


切望が焦げた時のにおいに似ていた。


「……」と私は言った。


何も言わなかった。


でも「それ」に向かって、一歩だけ近づいた。


「それ」が動いた。


後ずさりした。


一歩後ずさりした。


逃げた。


「それ」が私から逃げた。


「……」


「それ」は廊下の角を曲がって、見えなくなった。


私は一人で廊下に立っていた。


においだけが残っていた。




探偵事務所に戻った。


真意さんに「「それ」に会いました」と言った。


「——一人でいた時に?」


「廊下で。でも向こうが逃げました」


「逃げた」と真意さんが繰り返した。


「はい。私が一歩近づいたら、後ずさりして角を曲がりました」


真意さんが長い間、何も言わなかった。


「……「それ」は昨夜、あなたに届けたかった何かを持っていた」と言った。「でも今日は、あなたが近づいたら逃げた」


「なぜですか」


「わからない」と真意さんは言った。「でも——昨夜は扉を隔てていた。今日は距離がなかった。距離がない状態で接触することを、「それ」自身が避けた可能性がある」


「……避けた理由は何だと思いますか」


「「未確定」タグを持つ二つの存在が接触した場合、何が起きるかが設計記録に書いていない、と昨夜言った」と真意さんは言った。「「それ」も——それを知っているかもしれない。「それ」も、接触した場合に何が起きるかを、怖いと思っているかもしれない」


「……バーガーが、怖いという感情を持っていると言うんですか」


「届けてほしいという感情の残滓がタグに残っていた。届けてほしい、という感情があったなら——接触の結果を怖いと思う感情が残っていても、不思議ではない」


私は手を見た。


届けてほしかった何かが、私に近づいて、逃げた。


「……どうすればいいんですか」と私は聞いた。


「わからない」と真意さんは言った。


「真意さんでも」


「わからない。でも——今日の記録を全部書く。何かわかるかもしれないから」


タイプライターを打ち始めた。


音が部屋に戻ってきた。


「……真意さん」


「何?」


「あの足形を、壊してほしくないです」と私は言った。


真意さんが少し止まった。


「……壊さない」と言った。


「なぜ壊さないんですか」と私は聞いた。


真意さんが少し間を置いた。


「あなたがそう言ったから」と言った。


それだけだった。


タイプライターの音が続いた。




【真意の調査記録】


**〇月⬛⬛日**

**十六日目**


昨夜、「それ」のタグを読んだ。


一層目:バーガー。

二層目:世界線座標(読み取り可能)。

三層目:「届けてほしい、という感情の残滓」。

四層目:「真意の観測対象への届け先指定」。


「未確定」タグ:あり。


記録する。これは今日の最も重要な情報だ。


バーガーは滅びた世界線の圧縮物だ。三層目には通常「採取された感情の種類」が記録される。「届けてほしい」という感情がそのまま三層目に残っているということは——この世界線は「誰かに届けてほしい」という感情を持ったまま、終わった。


「届けてほしい」という感情を持ったまま終わった世界線が、ぱんでむにはいくつある?


今まで考えたことがなかった問いだ。


バーガーを「食材」として処理してきた。中の感情は「素材」として記録した。「何を感じていたか」は記録したが——「何を望んでいたか」は記録していなかった。


今日の記録がそれを変えるかもしれない。




「それ」が今日、助手に近づいて逃げた。


助手が一歩近づき、「それ」が後ずさりして去った。


接触を避けた。


「未確定」タグを持つ二つの存在が接触した場合に何が起きるかを、「それ」が——おそらく知っているか、感じているか、あるいは怖いと思っているかのどれかだ。


どれであっても、「それ」が能動的に回避した、という事実が残る。


処理停止したバーガーが、能動的な回避行動をとった。


これを記録する。


ぱんでむの設計記録に、この事象は存在しない。


存在しない事象がまた一つ、増えた。




助手が「足形を壊してほしくない」と言った。


「なぜ壊さないんですか」と聞いた。


「あなたがそう言ったから」と答えた。


その答えは——正確だったかどうか、わからない。


別の理由もあった。


「それ」が一晩立ち続けた場所を、壊すことが——できなかった。


理由を書こうとして、書けなかった。


書けない理由がわかる。


「届けてほしかった何か」を持ったまま終わった存在が、そこに立ち続けた。


その痕跡を壊すことは——その存在が一晩かけてやろうとしたことを、消すことになる。


消せなかった。


それが理由だ。


でもこれを書くと——私がその存在に対して何かを感じているという記録になる。


感じていることは確かだ。


何と呼ぶかは、まだわからない。


だから書かない。


でも壊さない、という事実だけは残す。




最後に一点。


「届けてほしい」という感情のタグを、今日初めて読んだ。


毎日ルーペで世界のバグを調べてきた。バーガーのタグも読んできた。


でも三層目の「感情の種類」を、私は「何の感情か」という種類として読んでいた。


「どんな感情を持っていたか」と「何を感情として持って終わったか」は——同じではない。


バーガーになった世界線が、最後に「届けてほしい」と思っていた。


今まで私が読んできたバーガーのタグの三層目に——「何かを望んでいたか」が書かれていた可能性がある。


読んでいたが、見ていなかった。


今日から、見方が変わるかもしれない。


それが記録としての今日の最後だ。


**備考:助手、現在生存。十六日目。「それ」に一歩近づいた。「それ」が逃げた。足形は残っている。**


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