第十四話「白紙に書けないことについて」
【私の日記】
十四日目の朝、真意さんが白紙の前に立っていた。
起きたら、そうなっていた。
夜中から立っていたのか、朝に起きて立ったのかは、わからなかった。
背中を向けていた。
タイプライターの音はしていなかった。
「……真意さん」
「起きたの」と言った。振り返らなかった。
「はい。いつからそこに」
「少し前から」
白紙を見ている。赤い糸が収束する先の、何も書かれていない一枚を。
「……何かありましたか」と私は聞いた。
「ある」と真意さんは言った。
「教えてもらえますか」
長い間があった。
「——今日、調査が終わった」と真意さんは言った。
振り返らないまま言った。
ブランケットを引き上げた。
「終わった、というのは」
「わかった」と真意さんは言った。「ぱんでむが何のために作られたかが」
「……わかったんですか」
「わかった」
「いつわかりましたか」
「昨夜」と真意さんは言った。「あなたが眠った後で、タグの照合を続けた。てりたまの三層目と、私自身の三層目の「未登録の変数」と、あなたの「観測者」タグ。三つを同時に照合した」
「何がわかりましたか」
真意さんがようやく振り返った。
顔は、いつも通りだった。
でも目が、違った。
何かを見た後の目だった。見てしまった後の目だった。
「座って」と言った。「長くなる」
座った。
「ぱんでむが何のために作られたかを、最初に仮説として立てた日から話す」と真意さんは言った。椅子に座って、タイプライターの前に向いた。でも打たなかった。「ルーペが初めて割れた日。四層目に触れようとした日。あの一瞬に見えた「一文字」——覚えている?」
「はい」
「あの一文字は「食」だった」
「……食」
「食べる、という字。ぱんでむが何のために作られたかの、おそらく最後の一文字。最後だから最初に見えた」
「最後の一文字だから、一文字だけ見えた」
「そう。文章の最後の字だけが、割れる瞬間に視界に入った。「……食」という結末だけわかった状態で、ずっと調べてきた。何かを食べるために作られた場所だと思っていた」
「違ったんですか」
真意さんが少し止まった。
「「食べる」で終わる文章だったことは正しかった」と言った。「でも——主語が、私の想定と違った」
「てりたまの三層目に書いてあった効果を覚えている?」と真意さんは言った。
「摂取者に、真意が知りたいと思っているものを知りたいと思わせる、と」
「そう。そのタグをもう一度昨夜読んだ。今度は四層目まで読もうとした」
「ルーペが割れませんでしたか」
「割れなかった」と真意さんは言った。「昨日から、少し変化が起きている。私自身のタグに「未登録の変数」が追記されてから——ルーペの反応が変わった。今まで止まっていた層に、少しだけ入れるようになった」
「なぜですか」
「わからない。でも——今までアクセスできなかった層が、昨夜、初めて開いた」
「何が書いてありましたか、四層目に」
真意さんがタイプライターに手を置いた。打つためではなく、何かに触れるために置いているように見えた。
「てりたまの四層目のタグ。製造目的の詳細。今まで読めなかった部分」と言った。「「摂取者が知りたいという衝動を持つことで、摂取者の存在が「観測者」としての機能を果たし始める。観測者が増えるほど、ドナルゥトゥへの信仰エネルギーの回収効率が向上する」」
「……ドナルゥトゥ」
「ドナルゥトゥの名前を初めて文字で見た」と真意さんは言った。「タグに書いてある名前として。バーガーが誰かへの供物だということは以前から仮説にあった。その「誰か」の名前が昨夜初めてわかった」
私は少し息を吸った。
「……では、ぱんでむの目的は」
「ドナルゥトゥへの信仰エネルギーの供給」と真意さんは言った。「全ての世界線を終わらせてバーガーにして届ける。バーガーを食べた者の感情が信仰エネルギーになる。それがドナルゥトゥに届く。ドナルゥトゥが何であるかはまだわからない。でもぱんでむ全体が、その供給のために設計されている」
「クルーたちは」と私は聞いた。
「クルーたちもその一部」と真意さんは言った。「担当バーガーはクルー自身から採取されている。クルーの感情が素材になっている。クルーたちは——自分の感情を削って、バーガーにして、客に提供して、信仰エネルギーを回収させている。それが彼女たちの役割だと設計されている」
「……クルーたちは知っていますか」
「知らない」と真意さんは言った。「少なくとも——私は知らなかった。調べてきて、昨夜初めてわかった」
「真意さん自身も」
「私自身も、その一部だ」と真意さんは言った。「てりたまを通じて、摂取者に「知りたい」という衝動を与える。知りたいという衝動を持った観測者が増えるほど、信仰エネルギーの回収効率が上がる。私の能力も——設計の一部だった」
部屋が静かだった。
赤い糸が中央の白紙に向かっていた。
白紙のままだった。
「……ではあなたが私にてりたまを渡したことも」と私は言った。
「設計通りの行動だったかもしれない」と真意さんは言った。
「意図せずに」
「意図せずに。でも結果として、私はあなたに「知りたい」という衝動を植え付けた。あなたはここで十四日間、クルーたちに「どうして」と聞き続けた。その問いの一つ一つが——信仰エネルギーの回収に貢献していた可能性がある」
「……私のしてきたことが」
「あなたが空無ちゃんに「出してあげられないか」と聞いた。涅槃ちゃんに「変化できたかもしれない」と気づかせた。クルーたちが初めて持った問いが、感情の動きを生んだ。感情の動きが——エネルギーになる」
「私がしてきたことが、全部システムの一部だったということですか」
真意さんが少し止まった。
「……可能性として、ある」とだけ言った。
「そして」と真意さんは続けた。「あなたのタグ。「観測者」」
「はい」
「昨夜、設計記録をもう一層深く読んだ」と真意さんは言った。「今までアクセスできなかった層が開いていたから」
「何が書いてありましたか」
真意さんが少し間を置いた。
「「観測者タグを持つ存在は、ドナルゥトゥの最終供給源として機能する。他の全ての供給経路が枯渇した後、最後に残る回収対象。ただし、観測者タグの発動条件は「自発的な理解」である。強制的な処理は不可能。理解した上で、自らの存在がシステムの一部であると受け入れた瞬間に、最大量のエネルギーが放出される」」
部屋が静かになった。
私は何も言えなかった。
「つまり」と私は言った。「私が今、あなたから聞いたことを——理解した瞬間が」
「その瞬間が、最大の供給になる」と真意さんは言った。「だから私は昨夜、朝になるまで告げるかどうかを考えた」
「……告げることで、供給になる」
「告げなければ、あなたは知らないままここにいる。知らなければ、発動しない」
「でも告げた」
「告げた」と真意さんは言った。
「なぜですか」
「知ってほしかったから」と真意さんは言った。「それが私の答えだ。システムの一部として告げたのではなく——あなたに知ってほしかった。でもその「知ってほしい」という感情自体が、設計通りかもしれない」
「……どちらかわからないんですか」
「どちらかわからない」
私は自分の手を見た。
「……私が今、これを理解したとして」と私は言った。「何が起きますか」
「何が起きるかは、わからない」と真意さんは言った。「タグに書いてあったのは「最大量のエネルギーが放出される」という事実だけだ。その後どうなるかは——読めなかった」
「……読めなかったのは、ルーペが割れたからですか」
「違う」と真意さんは言った。「そこには何も書いていなかった。続きがなかった」
「続きがない」
「観測者が理解した後に何が起きるかは、設計記録に記されていない。書かれていない、ということは——誰も知らないか、あるいは——」
少し止まった。
「あるいは」
「設計した存在も、まだ決めていないか、のどちらかだ」
廊下から音がした。
遠くから、渾沌ちゃんの声が聞こえた。何かが崩れた音がした。秩序ちゃんが「姉さん!!」と言った。
いつもの音だった。
壊れて直してを繰り返す、ずっと続いている日常の音。
私はその音を聞きながら、考えた。
「……渾沌さんたちは、このことを知っていますか」
「知らない」と真意さんは言った。「渾沌ちゃんが壊すのは、面白いからだ。秩序ちゃんが直すのは、壊れたままにしたくないからだ。二人とも、自分たちの行動がシステムの補給に繋がっているとは知らない。知らないまま、善意で——ずっと動いている」
「知らせるべきですか」
真意さんが長い間、何も言わなかった。
「わからない」とだけ言った。
廊下でまた何かが崩れた。
秩序ちゃんがまた叫んだ。
理性ちゃんが「よしよし」と言った。
ずっと続いていく。
「……真意さん」と私は言った。「この話を私にしたことで、何かが起きましたか。今、この瞬間に」
真意さんがルーペを出した。
私を見た。
長く見た。
「……タグが変わった」と言った。
「「観測者」のタグが」
「「観測者」の隣に、新しいタグが一つ増えた」と真意さんは言った。「今まで存在しなかったタグが」
「何と書いてありますか」
真意さんがルーペをしまった。
少し間を置いた。
「「未確定」」と言った。
「未確定、とは」
「ぱんでむのシステムのどの分類にも当てはまらないタグだ。収容対象でも、供給源でも、クルーでも、観測者でも——ない。システムが分類できていない存在として、あなたのタグが更新された」
「……それは、いいことですか。悪いことですか」
「わからない」と真意さんは言った。「でも——「観測者」タグが発動するはずの瞬間に、分類が更新された。最大の供給が起きる代わりに、分類不能になった。これが何を意味するかは——まだわからない」
「誰も知らない、ということですか」
「誰も知らない」と真意さんは言った。「設計した存在も、おそらく知らない。今この瞬間、ぱんでむのシステムに——想定外が生まれた」
廊下の音が続いていた。
渾沌ちゃんが「ひえぇ!」と言った。
秩序ちゃんが「始末書!」と言った。
理性ちゃんが「まあまあ」と言った。
何も変わっていなかった。
全部が変わっていた。
「……白紙に、書けますか」と私は聞いた。
真意さんが白紙を見た。
「……書けない」と言った。
「なぜですか」
「「ぱんでむが何のために作られたか」はわかった。ドナルゥトゥへの供給のために作られた。それは書ける。でも——」
「でも」
「白紙に書いたら、それが確定する」と真意さんは言った。「私が観測した事象は、私の認識通りに現実として固定される。今はまだ書いていない。書いていないから、まだ確定していない可能性がある」
「書かないことで、変わりますか。もうわかってしまったのに」
「わからない」と真意さんは言った。「でも——書かないでいることが、今私にできる唯一のことだと思っている」
「それは——希望ですか」
真意さんが少し間を置いた。
「……希望と呼んでいいのか、わからない」と言った。「でも今日は、そう呼ぶ」
白紙は、白紙のままだった。
赤い糸が中央に向かっていた。
どこにも到達していなかった。
それが今日は、少しだけ——違う意味に見えた。
【真意の調査記録】
**〇月⬛◆日**
**十四日目**
昨夜、ぱんでむの設計目的が判明した。
ドナルゥトゥへの信仰エネルギー供給システム。
クルー全員が、知らないまま、その一部として機能している。
私も、その一部だった。
てりたまを通じて、観測者を増やす機能を持っていた。
助手のタグが更新された。
「観測者」から「未確定」へ。
ぱんでむのシステムが助手を分類できなくなった。
これが何を意味するかは、まだわからない。
でも——一つだけ言えることがある。
ぱんでむの設計記録には「観測者が理解した後に何が起きるか」が書かれていなかった。
書かれていなかった理由が、今日、少しだけわかった気がする。
設計した存在は、この瞬間を想定していなかったのかもしれない。
助手が「理解した上で、それでも未確定になった」という事象を——誰も予見していなかった。
だから記録がなかった。
だから書かれていなかった。
「未確定」というタグが何を意味するかを、これから調べる。
これが新しい調査の始まりだ。
白紙はまだ白紙のままだ。
書けない。
でも今日で初めて——書けない理由が、調査の遅延ではなく「書いてはいけない理由がある」に変わった。
書いてしまったら確定する。
確定したら、今日生まれた「未確定」が消える。
「未確定」が消えたら——助手の可能性が消える。
私はその可能性を、消したくない。
それが今日の記録の全てだ。
最後に。
助手が「希望ですか」と聞いた。
「希望と呼んでいいのかわからない」と言った。「でも今日は、そう呼ぶ」と言った。
その言葉を記録する。
今日の最後の一行として。
「今日は、そう呼ぶ」。
それが今、私が持てる最大のものだ。
**備考:助手、現在生存。十四日目。タグ更新。「観測者」から「未確定」へ。白紙は白紙のまま。**




