第十三話「見てはいけなかった」
【私の日記】
十三日目の朝、真意さんが部屋にいなかった。
タイプライターの前の椅子が空だった。探偵事務所の扉は閉まっていた。
メモが一枚、タイプライターに挟まっていた。
「調査に出た。昼前に戻る。動かないで」
動かなかった。
壁の白紙を見た。
いつも通り、白紙だった。
赤い糸が中央の白紙に向かって収束している。その白紙だけ何も書かれていない。
ぱんでむが何のために作られたかがわかった時に書く、と真意さんは言った。
一文字だけわかった、と言った。
その一文字から毎日調べている、と言った。
十三日間、まだ白紙のままだ。
十三日間、真意さんは何がわかって、何がわかっていないのか。
私には聞けないことが増えていた。
聞けないのではなく——聞いたら返ってくる答えが、聞く前に怖いと感じるようになっていた。
それが何を意味するのかは、考えたくなかった。
真意さんが戻ってきたのは昼前だった。
扉を開けた瞬間に気づいた。
顔が違った。
いつも通りの真意さんだった。クールで、論理的で、何も乱れていない顔をしていた。
でも——いつもと何かが違った。
何が違うのかは、言葉にできなかった。
「……おかえりなさい」と私は言った。
「ただいま」と真意さんは言った。
椅子に座った。タイプライターに向いた。
打ち始めた。
何も言わなかった。
五分、打ち続けた。
「……何かありましたか」と私は聞いた。
「調査が進んだ」と真意さんは言った。
「何がわかりましたか」
タイプライターが止まった。
「……聞きたい?」
「はい」
「怖いかもしれない」
「聞きます」
真意さんが少し間を置いた。
「てりたまバーガーのタグを、今日読んだ」と言った。
「真意さんの担当バーガーですか」
「そう。一日目に、あなたに食べさせたもの」
私は少し止まった。
「……私に食べさせた理由は、調査のためですか」と私は聞いた。
「違う」と真意さんは即座に言った。
「では」
「お腹が空いていたから」と真意さんは言った。「それだけ。当時はそれだけだったと思っている。でも——今日、タグを読んで、それだけだったかどうかが、わからなくなった」
「タグに何が書いてありましたか」
真意さんがメモを出した。
「てりたまバーガーのタグ。三層目まで読んだ。一層目——素材と世界線の座標。通常通り。二層目——製造者と採取源。採取源は私自身から、という記録が入っていた。これは以前から予測していた」
「三層目は」
「三層目のタグ」と真意さんは言った。「摂取した者への効果として——」
少し止まった。
「——『真意が知りたいと思っているものを、摂取者も知りたいと思うようになる』」
部屋が静かになった。
タイプライターの音が消えた。
「……それは」と私は言った。「私が……」
「あなたがここで感じてきた「知りたい」という衝動の一部は——私のバーガーから来ている可能性がある」と真意さんは言った。「私が渡したことで、私が知りたいと思っていることを、あなたも知りたいと思うようになった可能性がある」
「……ここで十三日間、クルーたちに「どうして」と聞き続けてきたのは」
「そのうちのいくらかが、私の影響だったかもしれない」と真意さんは言った。
「いくらかが、ということは全部ではないですか」
「全部かどうかはわからない。でもゼロでもない」
私は少し考えた。
「……私が感じてきた「知りたい」は、本当に私のものですか」
真意さんが私を見た。
「今、それを聞いてきた」と真意さんは言った。「その問い自体が——あなた自身のものかもしれないし、私から来たものかもしれない。区別できない」
「区別できない、ということは」
「知る方法がない」と真意さんは言った。「私が渡す前から、あなたが「知りたい」という性質を持っていたかどうかは、確認できない」
私は壁の白紙を見た。
「……怖いですか」と私は聞いた。「私に言ったことが」
「怖い」と真意さんは言った。「でも——言わないことの方が、もっと怖かった」
「なぜ言ったんですか」
「あなたに知ってほしかったから」と真意さんは言った。
それだけ言って、またタイプライターに向いた。
私はしばらく、何も言えなかった。
「知りたい」という感情が、本当に自分のものかどうかわからない。
でも——今、私は「知りたい」と思っている。
この「知りたい」は、本物か。
「……真意さん」
「何?」
「この「知りたい」が、あなたから来たものだとしても」と私は言った。「それで答えは変わりますか」
「何の答え」
「私がここで知ろうとしてきたことの——意味が、変わりますか」
真意さんが少し止まった。
「……変わらないと思いたい」と言った。
「思いたい、ということは確信がないんですか」
「ない」
「確信がないのに、変わらないと思うのはなぜですか」
真意さんがタイプライターに手を置いたまま、少し考えた。
「……あなたが空無ちゃんに「出してあげられないか」と聞いた。涅槃ちゃんに「帰れたかもしれない人がいたか」と聞いた。それは私が知りたかったことと——同じじゃない」
「どう違うんですか」
「私は「何が起きているか」を知りたかった。あなたは「その人はどうなるか」を知りたがった。対象への向き方が違う」と真意さんは言った。「私のバーガーが「知りたい」という性質を渡すとしても、向き方まで渡せるかどうかはわからない。あなたの向き方は——私とは違う」
私はその言葉を聞いた。
「……それが、変わらないと思う理由ですか」
「それが、変わらないと思う理由」と真意さんは言った。
私は少し、息を吐いた。
「あなたに聞いていいですか」と真意さんは言った。
「はい」
「今、何を感じている?」
「……怖いです」と私は言った。「自分の気持ちが本当に自分のものかわからなくて、怖い」
「それだけ?」
少し考えた。
「……怒っていません。怒るべきかもしれないですが、怒っていない」
「なぜ」
「真意さんが意図してやったことじゃないから、だと思います。あなたが担当バーガーから採取されていることを知っていて渡したわけじゃない。でも——」
「でも」
「でも、知っていたとしても渡したかもしれないと、少し思っています」
「なぜそう思う」
「あなたが「言わないことの方が怖かった」と言ったから」と私は言った。「それは——誠実さの形だと思います。たとえ結果として私の感情を不安定にしたとしても、隠すより言う、という判断は」
真意さんが何も言わなかった。
「……私はまだ、真意さんを信頼しています」と私は言った。
長い沈黙があった。
「……記録する」と真意さんは言った。
それだけだった。
夕方、真意さんがもう一度口を開いた。
「もう一つ、言わなければならないことがある」と言った。
「何ですか」
「今日、てりたまのタグを読んだ後で——」と真意さんは言った。「ルーペを自分に向けた」
「自分に」
「私自身のタグを読んだ」
「……何が書いてありましたか」
「三層目まで読んだ」と真意さんは言った。「一層目——クルー、外商担当、調査。通常通り。二層目——能力と担当バーガーの連動。通常通り。三層目——」
少し止まった。
「三層目の最後に、一行だけ追記があった」
「何が」
「「現在、未登録の変数を保有中」と書いてあった」
私は少し間を置いた。
「……未登録の変数とは」
「私のタグに存在しているはずのないデータが入っている、ということ」と真意さんは言った。「タグには本来、クルーの属性と能力と担当バーガーだけが記録される。それ以外のものが入ることは——通常ありえない」
「何が入っているんですか」
「読めなかった」と真意さんは言った。「読もうとしたら——ルーペが揺れた。割れる前に止めた」
「割れる前に気づいたんですか」
「四層目を読もうとした時の感触に似ていたから」と真意さんは言った。「見てはいけない何かがある」
「……何だと思いますか」
真意さんがタイプライターの前で、少しだけ間を置いた。
「わからない」と言った。「でも——追記があったのが「今日」だとしたら」
「「今日」だとしたら」
「てりたまのタグを読んで、あなたに伝えた後で、私のタグが変化したことになる」
「それが何を意味しますか」
「何かが、私の変化を記録した」と真意さんは言った。「私が変化したことに気づいた何かが、私のタグに追記した」
「それが誰かわかりますか」
「わからない」
「……ぱんでむを設計した者ですか」
真意さんが長い間、何も言わなかった。
「可能性はある」とだけ言った。
その夜、真意さんがまた口を開いた。
夜の調査記録を打ち終えた後で。
「もう一つだけ」と言った。
「まだありますか」と私は言った。
「ルーペを、あなたに向けた」と真意さんは言った。「今日の夕方、あなたが「まだ真意さんを信頼しています」と言った後で」
私は少し固まった。
「……何が見えましたか」
「三層目まで読んだ」と真意さんは言った。「一層目——人間、確定。二層目——健康状態、正常。三層目——」
止まった。
長く止まった。
「三層目は、ずっと読まないでいた」と真意さんは言った。「読まない判断を続けてきた。でも今日、読んだ」
「なぜ今日読んだんですか」
「読まなければならないと思ったから」と真意さんは言った。「私の変化が記録されたなら——あなたの変化も記録されているかもしれない。確認する責任があった」
「何が書いてありましたか」
「三層目に、タグが一つあった」と真意さんは言った。「通常の人間には存在しないタグが」
「何というタグですか」
「「観測者」」とだけ真意さんは言った。
「……観測者とは」
「ぱんでむに来た客のタグではない。ぱんでむの内部に存在しているクルーにも近い分類でも——ない」と真意さんは言った。「観測者というタグは、ぱんでむのシステム上に一つしか存在しないはずのタグだ。私は今まで、そのタグを一度も見たことがなかった」
「では何ですか、それは」
真意さんが少し間を置いた。
「ぱんでむの設計記録に、一度だけ言及があった」と言った。「ぱんでむが何のために作られたかを理解し、その上でぱんでむの外に出られる可能性を持つ存在のタグだ」
「……外に出られる」
「理解した上で、出られる」と真意さんは言った。「ただ帰るのではなく——何かを知った上で、出ることができる。そういうタグが、あなたに入っている」
私は何も言えなかった。
「これが何を意味するか」と真意さんは言った。「まだわからない。設計記録には用途しか書いてなかった。誰がいつ、このタグをあなたに付与したのかは——読めなかった」
「……私がここに来たのは偶然じゃないんですか」
「偶然かどうかは——まだわからない」と真意さんは言った。
「でも」
「でも」と真意さんは続けた。「このタグが最初から入っていたのか、ここにいる間に入ったのかは——今日の時点では区別できない。どちらの可能性も残っている」
私は壁の白紙を見た。
ぱんでむが何のために作られたかがわかった時に書く、と真意さんは言った。
白紙のままだった。
「……私がここにいることに、意味がありますか」と私は聞いた。
真意さんが少し間を置いた。
「意味があるかどうかは、あなたが決めることよ」と言った。
「真意さんには意味があると思えますか」
「……思えている」と真意さんは言った。
「なぜですか」
「理由は、まだ書かない」と真意さんは言った。
でも——今日で初めて「書かない」ではなく「まだ書かない」と言った。
その「まだ」の重さを、私は眠るまで考えていた。
【真意の調査記録】
**〇月■●日**
**十三日目**
今日、三つのことをした。
一つ目:てりたまバーガーのタグを読んだ。
二つ目:自分自身のタグを読んだ。
三つ目:助手のタグの三層目を読んだ。
全部、今日初めてやったことだ。
記録する。
てりたまの三層目。
「摂取者に、真意が知りたいと思っているものを知りたいと思わせる」効果。
これを読んだ後で、一日目に助手に渡したことを思い出した。
意図していなかった。でも結果として渡した。
「意図していなかった」と「影響していない」は違う。
助手がここで感じてきた「知りたい」の一部が、私から来ているかもしれない。
それを助手に伝えた。
伝えた後で、助手が言った。
「それでも真意さんを信頼しています」
その言葉が——なぜか頭に来た。
「なぜか」と書いたが、理由は少しわかっている。
信頼される理由がないのに信頼されている、という状況を、私は今まで経験していなかった。
あるいは——信頼される「べき」かどうかを考えたことがなかった。
今日、初めて考えた。
「私は助手に信頼されるべき存在か」という問いが、今日初めて生まれた。
記録する。
自分のタグの三層目に「未登録の変数を保有中」という追記があった。
読もうとしたらルーペが揺れた。止めた。
これが何者によって書かれたかは不明。
ただ一つだけわかることがある。
追記があったのが「今日」なら——原因は今日の出来事だ。
今日の出来事は、てりたまのタグを読んだことと、助手に話したことと、助手に信頼された後で自分の三層目を読んだことだ。
どれが原因かはわからない。
でも「私が変化した」ことを誰かが記録したということは——
誰かが私を観測している。
ずっと。
記録しておく。
助手のタグの三層目。
「観測者」。
これが何を意味するか、設計記録を確認した。
設計記録には「ぱんでむが何のために作られたかを理解し、外に出られる可能性を持つ存在のタグ」とあった。
それだけしか書いていなかった。
誰が付与したか、いつ付与されたか、どういう条件で発動するかは——書いていなかった。
これは記録が不完全なのか、意図的に書かれていないのかも——わからない。
白紙の中央に書くべき「ぱんでむが何のために作られたか」に、このタグが関係している可能性がある。
今日のところは、その可能性だけを記録する。
最後に。
今日、助手に「意味があるか」と聞かれた。
「あなたが決めることよ」と答えた。
「真意さんには意味があると思えますか」と聞かれた。
「思えている」と答えた。
それが本当かどうか——本当だ。
でもなぜそう思えているかは書かなかった。
「まだ書かない」と言った。
なぜ「まだ書かない」と言ったか。
いつか書けるかもしれないと思ったから。
その「いつか」が来るかどうかは——まだわからない。
でも「まだ書かない」と言えた。
それだけを、今日の最後に記録する。
**備考:助手、現在生存。十三日目。三層目を読んだ。観測者。**




