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当て馬の役は、今日でおしまいにします  作者: 九葉(くずは)


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第9話 「フィオナ・ミルズと書いてください」

 登録所の机で、羽根ペンの先が紙の上に止まっていた。


「登録名義は。ハルグ牧場でよろしいですか」


 ギルバートが答えなかった。


 彼はフィオナのほうを見て、待っていた。係の男が二度、彼を見た。それでも彼は口を開かなかった。



 審査そのものは、その前に終わっていた。


 壁一面の登録帳の下で、審査官が羊の損害の表をめくった。ハルグ高原は、去年より羊を失っていない。狼にやられた年に減らしている牧場は、この十年で他にない。


「犬を増やしたのですか」


「減っている」と、ギルバートが答えた。「三頭、冬のあいだ使えなかった」


「では、何を変えました」


 彼は鞄から紙の束を出して、机に置いた。


 手順書だった。書き取りと、直した跡と、二種類の字。


「牧童七人の合図をそろえた。間を二つ数えるぶん空けて、一度に一つだけ出す。この通りにやらせた」


 審査官が頁をめくった。数行読んで、指を止めた。


「これは、誰のやり方ですか」


 フィオナは自分の指先を見ていた。


「彼女が口で教えたものだ」


 ギルバートは、彼女のほうを指ささなかった。名前だけを言った。


「俺が書き取って、彼女が直した。直した跡はそのまま残してある。消していない」


 審査官が顔を上げた。フィオナと目が合った。


 この人は審査に来た。数字を確かめに来た。それだけの相手のはずだった。


 なのに、机の上の紙が、実家の犬舎とつながって見えた。あの犬舎には、一枚もなかった。



 だから、羽根ペンが止まったとき、彼女は答えを持っていた。持っていたのに、喉から出てくるまでに時間がかかった。


 係の男が待っている。ギルバートも待っている。誰も急かさない。


 息を、一度吐いた。


「……フィオナ・ミルズと書いてください」


 声は低かった。それでも、机の向こうまで届いた。


「ミルズの家のではなく。わたしの名前として」


 係の男がペンを紙につけた。字を書く音がした。


「では、職の名は」


 彼は帳の別の頁を開いた。


「組合では、犬付けを請け負う者を寄せ手と呼びます。羊の損害の記録が二季ぶんあれば、きちんと登録できます。あなたは、あります」


 寄せ手。


 初めて聞く言葉だった。この仕事に名前がついていたことを、彼女はこの日まで知らなかった。


 鉛の印が押された。音が思ったより大きかった。



 通りへ出ようとしたとき、待合の木の椅子に人が座っていた。


 立ち上がったのは、エルサだった。


 家を出てから、初めて顔を合わせた。上着の裾が汚れている。


「姉さん」


 フィオナは足を止めた。ギルバートが一歩下がった。彼女の前に出ようとはしなかった。


「犬が、言うことを聞かないの」


 エルサの手が、上着の合わせを握っていた。


「叱っても、聞かないの。もっと叱れって父さまが言うから、叱った。そうしたら、もっと聞かなくなった」


「はい」


「……なんで」


「叱ったからです」


 エルサが息を吸った。


「教えてほしい」


 妹がその言葉を使うのを聞いたのは、初めてだった。前の手紙にもなかった。その前の手紙にもなかった。


 フィオナは断らなかった。断らないと決めるのに、時間はかからなかった。犬がまだ、そこにいるからだ。


「条件があります」


「……条件」


「三つです。まず、正価で受けます。一頭につき羊四頭分。次に、書面を作ります。口約束では受けません。最後に、犬を叱る場所には、わたしは立ち会いません。叱るなら、その日で終わりにします」


 エルサは、しばらく黙っていた。それから机のほうを見た。


 フィオナの名が、まだ乾いていない字で帳に載っている。


「……姉さんの、仕事だったんだ」


 泣かなかった。分かった顔もしていなかった。ただ、それだけを言って、書面に名前を書いた。


 書き終えてペンを置いたとき、フィオナが掌を下へ向けた。犬を落ち着かせるときの癖だった。自分でも気づいていなかった。


 エルサの膝が、少し曲がった。


 座りかけて、止まって、自分の脚を見た。


「……今の、何」


「……すみません」


 姉妹は、そのまま二秒ほど動かなかった。



 入口の柱のところに、男が立っていた。


 ロデリック・カーンだった。目録の見直しを求めた家の跡取りで、三度目の当て番の相手だった。エルサを迎えに来たらしい。


 彼は開いたままの登録帳を見た。


 そこにある名前を、たぶん初めて読んだ。


「……そういう人だったのか」


 彼はそれだけ言った。フィオナは返事をしなかった。返す言葉を持っていなかったからではない。返す必要がなかった。


 彼は妹を連れて、先に出ていった。



 高原へ戻る道は、半日かかる。


 半分ほど登ったところで、日が傾いた。ノクが先を歩いて、ときどき振り返る。


 ギルバートは登録所を出てから、一度も審査の話をしなかった。よくやったとも言わなかった。


 石の多い坂を越えたところで、彼が口を開いた。


「疲れたか」


「……はい」


 答えてから、少し驚いた。今までなら、大丈夫ですと言っていた。


 彼は頷いて、それきり何も聞かなかった。歩く速さを、わずかに落とした。


 風が一方向へ抜けていく。囲いのある高原のほうから吹いてくる風だった。


「春に」


 坂の上で、彼が言った。


「話したいことがある」

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