第9話 「フィオナ・ミルズと書いてください」
登録所の机で、羽根ペンの先が紙の上に止まっていた。
「登録名義は。ハルグ牧場でよろしいですか」
ギルバートが答えなかった。
彼はフィオナのほうを見て、待っていた。係の男が二度、彼を見た。それでも彼は口を開かなかった。
◇
審査そのものは、その前に終わっていた。
壁一面の登録帳の下で、審査官が羊の損害の表をめくった。ハルグ高原は、去年より羊を失っていない。狼にやられた年に減らしている牧場は、この十年で他にない。
「犬を増やしたのですか」
「減っている」と、ギルバートが答えた。「三頭、冬のあいだ使えなかった」
「では、何を変えました」
彼は鞄から紙の束を出して、机に置いた。
手順書だった。書き取りと、直した跡と、二種類の字。
「牧童七人の合図をそろえた。間を二つ数えるぶん空けて、一度に一つだけ出す。この通りにやらせた」
審査官が頁をめくった。数行読んで、指を止めた。
「これは、誰のやり方ですか」
フィオナは自分の指先を見ていた。
「彼女が口で教えたものだ」
ギルバートは、彼女のほうを指ささなかった。名前だけを言った。
「俺が書き取って、彼女が直した。直した跡はそのまま残してある。消していない」
審査官が顔を上げた。フィオナと目が合った。
この人は審査に来た。数字を確かめに来た。それだけの相手のはずだった。
なのに、机の上の紙が、実家の犬舎とつながって見えた。あの犬舎には、一枚もなかった。
◇
だから、羽根ペンが止まったとき、彼女は答えを持っていた。持っていたのに、喉から出てくるまでに時間がかかった。
係の男が待っている。ギルバートも待っている。誰も急かさない。
息を、一度吐いた。
「……フィオナ・ミルズと書いてください」
声は低かった。それでも、机の向こうまで届いた。
「ミルズの家のではなく。わたしの名前として」
係の男がペンを紙につけた。字を書く音がした。
「では、職の名は」
彼は帳の別の頁を開いた。
「組合では、犬付けを請け負う者を寄せ手と呼びます。羊の損害の記録が二季ぶんあれば、きちんと登録できます。あなたは、あります」
寄せ手。
初めて聞く言葉だった。この仕事に名前がついていたことを、彼女はこの日まで知らなかった。
鉛の印が押された。音が思ったより大きかった。
◇
通りへ出ようとしたとき、待合の木の椅子に人が座っていた。
立ち上がったのは、エルサだった。
家を出てから、初めて顔を合わせた。上着の裾が汚れている。
「姉さん」
フィオナは足を止めた。ギルバートが一歩下がった。彼女の前に出ようとはしなかった。
「犬が、言うことを聞かないの」
エルサの手が、上着の合わせを握っていた。
「叱っても、聞かないの。もっと叱れって父さまが言うから、叱った。そうしたら、もっと聞かなくなった」
「はい」
「……なんで」
「叱ったからです」
エルサが息を吸った。
「教えてほしい」
妹がその言葉を使うのを聞いたのは、初めてだった。前の手紙にもなかった。その前の手紙にもなかった。
フィオナは断らなかった。断らないと決めるのに、時間はかからなかった。犬がまだ、そこにいるからだ。
「条件があります」
「……条件」
「三つです。まず、正価で受けます。一頭につき羊四頭分。次に、書面を作ります。口約束では受けません。最後に、犬を叱る場所には、わたしは立ち会いません。叱るなら、その日で終わりにします」
エルサは、しばらく黙っていた。それから机のほうを見た。
フィオナの名が、まだ乾いていない字で帳に載っている。
「……姉さんの、仕事だったんだ」
泣かなかった。分かった顔もしていなかった。ただ、それだけを言って、書面に名前を書いた。
書き終えてペンを置いたとき、フィオナが掌を下へ向けた。犬を落ち着かせるときの癖だった。自分でも気づいていなかった。
エルサの膝が、少し曲がった。
座りかけて、止まって、自分の脚を見た。
「……今の、何」
「……すみません」
姉妹は、そのまま二秒ほど動かなかった。
◇
入口の柱のところに、男が立っていた。
ロデリック・カーンだった。目録の見直しを求めた家の跡取りで、三度目の当て番の相手だった。エルサを迎えに来たらしい。
彼は開いたままの登録帳を見た。
そこにある名前を、たぶん初めて読んだ。
「……そういう人だったのか」
彼はそれだけ言った。フィオナは返事をしなかった。返す言葉を持っていなかったからではない。返す必要がなかった。
彼は妹を連れて、先に出ていった。
◇
高原へ戻る道は、半日かかる。
半分ほど登ったところで、日が傾いた。ノクが先を歩いて、ときどき振り返る。
ギルバートは登録所を出てから、一度も審査の話をしなかった。よくやったとも言わなかった。
石の多い坂を越えたところで、彼が口を開いた。
「疲れたか」
「……はい」
答えてから、少し驚いた。今までなら、大丈夫ですと言っていた。
彼は頷いて、それきり何も聞かなかった。歩く速さを、わずかに落とした。
風が一方向へ抜けていく。囲いのある高原のほうから吹いてくる風だった。
「春に」
坂の上で、彼が言った。
「話したいことがある」




