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当て馬の役は、今日でおしまいにします  作者: 九葉(くずは)


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8/10

第8話 「言ってください」

 夜明け前に、鐘が鳴った。


 三度、間を空けて三度。狼の合図だった。


 フィオナは上着をつかんで外へ出た。ノクが先に戸の外にいた。


 囲いの向こうで、群れが割れていく音がした。羊の足音は、そろっているうちは一つの音に聞こえる。それが二つになると、割れている。



 東の斜面で、犬が三頭、動かなくなっていた。


 傷ではない。二頭は伏せたまま立たず、一頭は柵の内側で壁のほうを向いている。狼の匂いを浴びた犬が、こうなる。


 フィオナは一頭ずつ前へ回って、片膝をついた。掌を下げて、動かない。


 三十秒。一分。


 白いのが顔を上げた。それだけだった。上げて、また下ろした。


 彼女は立ち上がって、後ろへ下がった。


 これは直せない。合図の狂いなら順を戻せる。叱られた犬なら段階を戻せる。狼に襲われた記憶は、季節がひとまわりしないと抜けない。四十日でも二か月半でもない。この冬を越して、次の冬まで。


 自分にできないことの形が、朝の光ではっきり見えた。


 群れは午前中に集め直した。数は合った。失った羊は十四頭。牧童が斜面から運び下ろしてきた。



 昼過ぎ、母屋の帳場でギルバートが帳面を開いていた。


 彼は数字を書いていた。羊の頭数、犬の数、牧草地、それから人の名前が七つ。


 牧童が入ってきて、何か聞いた。彼は「あとで言う」と答えた。ベルタが入ってきて、同じことを聞いた。同じ返事だった。


 夕方までに、彼は誰にも何も言わなかった。


 フィオナは戸口に立っていた。


「損害は」


「計算中だ」


「犬が三頭、冬のあいだ使えません。人手で埋めるなら、何人分ですか」


 彼はペンを止めなかった。


「考えている」


「七人の冬を、どうするか考えているんですよね」


 ペンが止まった。止まって、動かなかった。それが答えだった。


 彼女の中で、何かの底が抜けた。


「言ってください」


 声が出た。低く、短く。


「わたしは、言われないと分かりません」


 彼が顔を上げた。


「三度、言われないまま外されました。目録の上で名前が消えて、誰も理由を言いませんでした。誰も、悪いことをしていないという顔をしていました」


 指が縫い目を探している。止めなかった。


「あなたは理由を言う人だと思っていました。二号のときも、あとから言いました。今日は、言わない」


「……あんたに背負わせる話じゃない」


「わたしが背負うかどうかは、わたしが決めます」


 言ってから、自分で驚いた。


 人に何かを求めたのは、十九年で初めてだった。


 沈黙が長かった。彼は三十秒待てる男だ。今度は彼のほうが、その三十秒を使った。


「……俺が決めた。悪かった」


 彼はペンを置いた。


「言う」



 冬を越すには、人手で埋めるしかない。犬三頭分は、牧童でいえば四人分に近い。七人しかいない。


「一人あたりの持ち場を広げるしかない」と彼は言った。「そうすると、群れの端が締まらん。締まらないと、また狼に割られる」


「犬を直すのは、間に合いません」


「分かっている」


「だから」


 フィオナは帳面の脇にある紙の束を見た。手順書だった。彼が書き取り続けて、彼女が直し続けたもの。


「犬ではなく、人を訓練します」


 彼が顔を上げた。


「牧童七人に、同じ間で同じ合図を出せるようにします。犬は今、人によって合図がばらばらなぶん、力を半分しか使えていません。それをそろえれば、八頭で十一頭分に近づきます」


「人に、犬の訓練を」


「やることは同じです。一度に一つだけ、日に六回、叱らない。……人にやったことはありません」


 彼女はそこで言葉を切った。


「やります」



 翌朝から始めた。


 笛牌の三番の音を、七人に順に吹かせた。同じ長さで、同じ間で。


「指を二つ数えるぶん、空けてください」


 六人が短くなった。一人だけ、正確だった。


「これ?」


 ハーヴィが吹いた。二度目も同じだった。三度目も。


「合っています」


「え、簡単じゃん」


 残りの六人が、いっせいにハーヴィを見た。


「……なんだよ」


「お前、朝の飯当番からやり直せ」


「なんで!」


 フィオナは笛牌を配り直した。手順書の一枚目を、卓の上に置いた。


 彼女の字と、彼の字が並んでいる。それを読んでいるのは、彼女ではない人間だった。


 五日目、七人の合図がそろった。犬が迷わなくなった。群れの端が締まるまでの時間が、目に見えて短くなった。


 柵の外で、ギルバートが帳面を閉じた。


「これは、犬付けじゃないな」


「同じです」


「同じじゃない」


 彼は紙の束の背を指で叩いた。


「これは、あんたがいなくても回るということだ」


 フィオナは笛牌を握った。


 それを、いいことだと思っていいのかどうか、まだ分からなかった。



 冬が終わった。失った羊の割合が出たのは、雪の消えた朝だった。


 去年より低かった。狼に割られた年に、去年を下回った。


 麓から使いが上がってきた。羊毛組合が、審査の場へ来るようにと書いていた。


 ハルグ牧場の主と――そのやり方を持つ者を、連れてくること。

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