第7話 「戻りません」
「実家から手紙だ」
ギルバートが封筒を差し出した。台所の卓を回って、わざわざ手渡しに来た。
封は切れていない。開けた跡も、蒸かした跡もなかった。
「……読みましたか」
「開けてない。あんた宛だ」
彼はそれだけ言って、戸口のほうへ下がった。出ていくのではなく、そこに立った。
◇
便箋は二枚あった。
一枚目は父の字だった。用件だけが並んでいた。犬が全部、言うことを聞かない。羊が減った。今年の刈り取りで、羊毛の等級が一段落ちた。カーンの家が、持ち寄り目録の見直しを求めてきている。
最後の行だけ、字が大きくなっていた。
戻ってこい。
二枚目はエルサの追伸だった。
姉さんが変な躾をしたせいだと、父さまに言いました。犬を叱る回数を増やしています。それでも聞きません。
フィオナは便箋を卓に置いた。
三か月。時期が合っていた。合図の順が狂っても、覚えたものはしばらく残る。だから最初の一か月は何も起きない。二か月目に間が詰まり始め、三か月目で通らなくなる。
叱った、と書いてある。
叱れば犬は固くなる。固くなると、もっと通らない。通らないから、また叱る。この行ったり来たりに入ったら、季節がひとまわりしないと戻らない。彼女にも戻せない。
どの犬が、と書いていない。いつから、とも。何の合図が、とも。
二行あれば足りたのに。
「犬は」
自分の声が、思ったより低く出た。
「犬は、悪くありません」
指が上着の縫い目を探していた。
三度入れ替えられたことでは、こうはならなかった。等級が落ちたと読んだときも、目録の見直しと読んだときも、何も動かなかった。
犬を叱っていると書いてあった行で、腹の底が熱くなった。
戸口でギルバートが立っている。
「……もし、戻れと書いてあったら」
「あんたが決めることだ」
「意見を、聞いています」
彼は上着の前を留めていない。冬が近いのに、いつもそうだった。
「意見はある」
少し間があった。
「言えば、あんたはそれを理由にする。理由は自分で持ったほうがいい」
「…………」
「返事に紙がいるなら、帳場にある」
それだけ言って、彼は出ていった。
◇
ハーヴィが戸の隙間から顔を出した。
「その手紙、燃やす?」
真顔だった。手には火挟みまで持っている。
ベルタの玉杓子が、彼の後頭部を叩いた。
「人の手紙に触るんじゃないよ」
「いや、そういう顔してたから!」
「どういう顔だい」
二人が言い合いながら遠ざかっていく。フィオナは便箋をたたんだ。
自分がどういう顔をしていたのかは、分からなかった。
◇
帳場の紙は、手順書と同じ束から一枚取った。
書くことを、先に決めた。
戻れと書かれている。断る。理由を書けば、父はその理由に言い返してくる。犬の話をすれば、犬をどうにかしろという話になる。等級の話をすれば、家の話になる。
どの理由を書いても、返事が来る。
だから、書かない。
フィオナはペンを取った。
戻りません。
一行だけ書いて、置いた。
しばらく、その一行を見ていた。短すぎるのではないかと思った。次に、短すぎて何が悪いのかと思った。
名前を書いた。フィオナ・ミルズ。契約書に書いたのと同じ字だった。
封をして、麓へ下りる荷馬車の箱に入れた。向こうへ届くまで十日かかる。
断ったあと、何を言われるのかは分からない。
怖いのは、そこではなかった。何も言われないほうが怖い。断ったことに誰も気づかず、次の手紙がまた戻ってこいと書いてくるのが、いちばん怖かった。
それでも入れた。箱の蓋が鳴った。
◇
囲いの石に腰を下ろすと、ノクが横へ来た。
黒い犬は、彼女が動かないでいると、必ず同じ距離で座る。近すぎず、遠すぎない。何年もかけて彼女が測った距離だった。
風が一方向へ抜けていく。日が落ちて、囲いの石が冷えていく。
長いあいだ、動かなかった。
振り返ると、母屋の窓に灯りがついていた。ずっとついていた。
立ち上がって歩き出したとき、頬に冷たいものが当たった。
雪だった。
小屋の前で、牧童が空を見上げている。
「――今年は、早いな」
ハーヴィは何も言い返さなかった。フィオナも、答えなかった。
最初の雪が囲いの石に落ちて、すぐに消えた。




