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当て馬の役は、今日でおしまいにします  作者: 九葉(くずは)


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第6話 「一号、二号、白いの」

 夕食の卓で、フィオナは匙を置いた。


「なぜ、犬に名前をつけないんですか」


 牧童たちの話し声が、少しだけ薄くなった。ギルバートも匙を置いた。皿の縁に当たって、小さな音がした。


 仕事以外のことを自分から聞いたのは、初めてだった。


「……一号、二号、白いの、で困りはしません。でも、笛牌の音を分けるとき、名前があるほうが牧童が覚えます」


 彼女はそう続けた。仕事の話に戻したつもりだった。


 ベルタが鍋の前で背を向けたまま、動かなくなった。


「食い終わったら帳場へ来い」とギルバートが言った。



 帳場には、書きかけの手順書が広げてあった。彼はそれを脇へ寄せて、二人分のマグを置いた。


「五年前だ」


 前置きはなかった。


「犬を一頭、急いで仕上げようとした。麓の商人が急いでいて、値がよかった。三十日で群れに戻した」


 フィオナは、聞き返さなかった。何が起きたかは、工程を知っていれば分かる。


「戻して四日で、羊のほうへ入った。噛んだ。俺が引き剥がして、そのあと、そいつを叱った」


 彼はマグを持ったが、飲まなかった。


「一度そうしたら終わりだ。あんたなら知っている」


「……はい」


「もう仕事はできなくなった。うちの端で三年生きて、去年死んだ」


 炉が鳴った。


「名前をつけていた」


 彼の指が、マグの取っ手を離れた。


「最後まで、見ていられなかった。世話はベルタがした。……それから、つけていない」


 フィオナは自分の掌を見た。爪が短い。指の関節に、古い噛み傷がいくつか残っている。


 彼が急かさない理由が、ここで一つにつながった。囲いへ入らないことも、明日でいいと言うことも、外すと言ったときに理由を並べなかったことも。あれは彼が自分に課した決まりで、その決まりは失敗から作られていた。


「……わたしは、三度、婚約を入れ替えられました」


 言ってから、話す順番を間違えたと思った。それでも続けた。


「でも、それより長く痛いのは、別のことです」


「言え」


「犬舎にいるのは好きだからだと思われていました。趣味だと。十九年です」


 マグの湯気が、二つ並んで上がっていた。


「働いていたと、誰にも思われていませんでした」


 ギルバートは慰めなかった。かわいそうだとも、ひどい家だとも言わなかった。


「記録がないからだ」


 短く、そう言った。


「見えないものは、数えられん。あんたのせいじゃない」


 フィオナは頷かなかった。頷けなかったので、マグを持った。中身は白湯だった。熱くなかった。



 手順書の清書を始めたのは、その夜からだった。


 彼の字を追っていくと、同じ行が三度書き直されている場所がいくつもあった。紙が薄くなって、下の卓の木目が透けている。


「これ、わたしが写します」


「なぜだ」


「読めないところがあります」


「……どこだ」


「ここです」


 指した行を、彼はしばらく見ていた。


「『間を二つ』だ」


「『鳥を二つ』に見えます」


 彼は口を閉じた。ペンを置いて、紙をこちらへ押してよこした。


 それから二人で机を並べた。彼が言い、彼女が書く。ときどき彼女が止まって、順を直す。彼は直された箇所に印をつけない。直ったまま残す。


 インクの匂いと、炉の音と、外の風の音が、同じ向きに流れていた。


 三十行ほど進んだところで、彼が聞いた。


「ノクは、なぜノクだ」


「夜に生まれたので」


「……夜」


「はい」


 ギルバートが顔を上げて、戸の外を見た。白い犬が土間で寝ている。


「じゃあ、白いのは」


 彼は真剣な顔で黙り込んだ。長い沈黙だった。フィオナはペンを持ったまま待った。三十秒待てる男だが、待たせる側に回ると、こちらも待てるらしかった。


「……考えておく」


「はい」


 台所の戸口で、ベルタが皿を二枚重ねる音がした。それだけで、何も言わずに引っ込んだ。



 夜おそく外へ出ると、牧童が二人、小屋の前で話していた。


「今年、早いな」


「麓のじいさんが言ってた。狼が山から下りるのが、年々早いって」


「まだ雪も降ってないのに」


 フィオナは足を止めた。


 実家の犬は、狼の日の動き方を、彼女からしか教わっていない。合図の順が狂っていれば、真っ先に狂うのがそこだ。谷側へ寄せる前に、犬が前へ出る。


 考えて、それから考えるのをやめた。あちらの犬は、もうあちらの犬だった。


 部屋に戻ると、寝台にノクがいた。今夜も真ん中を取っていた。



 翌朝、麓から荷馬車が上がってきた。


 ベルタが受け取って、台所の卓に置いた。封筒が一つ。


 宛名の字を見て、フィオナの手が止まった。エルサの字ではなかった。


 父の字だった。

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