第6話 「一号、二号、白いの」
夕食の卓で、フィオナは匙を置いた。
「なぜ、犬に名前をつけないんですか」
牧童たちの話し声が、少しだけ薄くなった。ギルバートも匙を置いた。皿の縁に当たって、小さな音がした。
仕事以外のことを自分から聞いたのは、初めてだった。
「……一号、二号、白いの、で困りはしません。でも、笛牌の音を分けるとき、名前があるほうが牧童が覚えます」
彼女はそう続けた。仕事の話に戻したつもりだった。
ベルタが鍋の前で背を向けたまま、動かなくなった。
「食い終わったら帳場へ来い」とギルバートが言った。
◇
帳場には、書きかけの手順書が広げてあった。彼はそれを脇へ寄せて、二人分のマグを置いた。
「五年前だ」
前置きはなかった。
「犬を一頭、急いで仕上げようとした。麓の商人が急いでいて、値がよかった。三十日で群れに戻した」
フィオナは、聞き返さなかった。何が起きたかは、工程を知っていれば分かる。
「戻して四日で、羊のほうへ入った。噛んだ。俺が引き剥がして、そのあと、そいつを叱った」
彼はマグを持ったが、飲まなかった。
「一度そうしたら終わりだ。あんたなら知っている」
「……はい」
「もう仕事はできなくなった。うちの端で三年生きて、去年死んだ」
炉が鳴った。
「名前をつけていた」
彼の指が、マグの取っ手を離れた。
「最後まで、見ていられなかった。世話はベルタがした。……それから、つけていない」
フィオナは自分の掌を見た。爪が短い。指の関節に、古い噛み傷がいくつか残っている。
彼が急かさない理由が、ここで一つにつながった。囲いへ入らないことも、明日でいいと言うことも、外すと言ったときに理由を並べなかったことも。あれは彼が自分に課した決まりで、その決まりは失敗から作られていた。
「……わたしは、三度、婚約を入れ替えられました」
言ってから、話す順番を間違えたと思った。それでも続けた。
「でも、それより長く痛いのは、別のことです」
「言え」
「犬舎にいるのは好きだからだと思われていました。趣味だと。十九年です」
マグの湯気が、二つ並んで上がっていた。
「働いていたと、誰にも思われていませんでした」
ギルバートは慰めなかった。かわいそうだとも、ひどい家だとも言わなかった。
「記録がないからだ」
短く、そう言った。
「見えないものは、数えられん。あんたのせいじゃない」
フィオナは頷かなかった。頷けなかったので、マグを持った。中身は白湯だった。熱くなかった。
◇
手順書の清書を始めたのは、その夜からだった。
彼の字を追っていくと、同じ行が三度書き直されている場所がいくつもあった。紙が薄くなって、下の卓の木目が透けている。
「これ、わたしが写します」
「なぜだ」
「読めないところがあります」
「……どこだ」
「ここです」
指した行を、彼はしばらく見ていた。
「『間を二つ』だ」
「『鳥を二つ』に見えます」
彼は口を閉じた。ペンを置いて、紙をこちらへ押してよこした。
それから二人で机を並べた。彼が言い、彼女が書く。ときどき彼女が止まって、順を直す。彼は直された箇所に印をつけない。直ったまま残す。
インクの匂いと、炉の音と、外の風の音が、同じ向きに流れていた。
三十行ほど進んだところで、彼が聞いた。
「ノクは、なぜノクだ」
「夜に生まれたので」
「……夜」
「はい」
ギルバートが顔を上げて、戸の外を見た。白い犬が土間で寝ている。
「じゃあ、白いのは」
彼は真剣な顔で黙り込んだ。長い沈黙だった。フィオナはペンを持ったまま待った。三十秒待てる男だが、待たせる側に回ると、こちらも待てるらしかった。
「……考えておく」
「はい」
台所の戸口で、ベルタが皿を二枚重ねる音がした。それだけで、何も言わずに引っ込んだ。
◇
夜おそく外へ出ると、牧童が二人、小屋の前で話していた。
「今年、早いな」
「麓のじいさんが言ってた。狼が山から下りるのが、年々早いって」
「まだ雪も降ってないのに」
フィオナは足を止めた。
実家の犬は、狼の日の動き方を、彼女からしか教わっていない。合図の順が狂っていれば、真っ先に狂うのがそこだ。谷側へ寄せる前に、犬が前へ出る。
考えて、それから考えるのをやめた。あちらの犬は、もうあちらの犬だった。
部屋に戻ると、寝台にノクがいた。今夜も真ん中を取っていた。
◇
翌朝、麓から荷馬車が上がってきた。
ベルタが受け取って、台所の卓に置いた。封筒が一つ。
宛名の字を見て、フィオナの手が止まった。エルサの字ではなかった。
父の字だった。




