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当て馬の役は、今日でおしまいにします  作者: 九葉(くずは)


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第5話 「羊四頭分」

 四十三日目の朝、ノクは羊三頭を、右の石の前へ寄せた。


 フィオナが指した場所だった。犬は寄せ終えてから、羊のほうへ一歩も踏み込まずに座った。それも教えた通りだった。


 囲いの外で、息を吐く音がした。風より大きく聞こえた。


 ギルバートが柵に手を置いていた。中へは入ってこない。


「今のを、群れでやれるか」


「……試します」



 午後、群れへ戻した。


 八百頭のうち、囲い分けた四十頭。ノクは一号と組ませた。若い犬が二頭で回ると、たいてい合図が混ざる。フィオナは笛牌を三番の音だけに絞った。


 ノクが左へ回り、群れの端が締まった。


「うわ」


 ハーヴィが柵の上で叫んだ。


「回った! 一号より速い!」


 牧童が四人集まってきて、誰かが口笛を吹いた。犬が振り返りかけたので、フィオナはその男の前へ掌を下げた。口笛が止まった。男は、自分がなぜ黙ったのか分からない顔をしていた。


「悪い」


「群れが締まっているあいだは、余計な音を出さないでください」


 言ってから、自分の声の低さに気づいた。誰も、それを咎めなかった。


 牧童たちが順に何か言った。よくやった、とか、すごい、とか。フィオナは真顔のまま頷いた。耳だけが熱かった。



 三日後、麓の羊毛組合の登録所へ下りた。


 書き物机が並び、壁の一面に登録帳が詰まっている。犬と羊の名義が、すべてそこにあるという。フィオナは順番待ちの木札を握ったまま、その壁から目が離せなかった。


 隣の牧場の主が話しかけてきた。四十くらいの男で、ハルグの群れを見たという。


「二頭、直してもらいたい。いくらだ」


 フィオナは相場を知らなかった。実家では、犬に値がついたことがない。


「……羊、二頭分で」


 男の眉が動いた。それが喜びでないことは分かった。


 卓の向かいで、ギルバートが帳面を開いた。相場の頁だった。訓練の請け負い、一頭につき羊四頭分。数字が大きく書き直されている。


 彼はそれを彼女の前へ置いて、立ち上がった。


「表にいる」


 それだけ言って、出ていった。


 フィオナは頁を見た。それから男を見た。手が冷たくなっていた。


 言い直す。断られたら、この話は消える。消えたら、次があるかどうか分からない。


 息を、一度吐いた。


「……羊四頭です」


 声は低く落ちた。低いまま、続けた。


「一頭につき四頭分。二頭で八頭分。ただし、四十日で仕上がるとはお約束できません。ふつうは二か月半かかります。急がせると、犬が戻ります」


 男が腕を組んだ。


「相場通りだな」


「はい」


「二か月半で八頭。それでいい。半分を先に払う。残りは仕上がってからだ」


 紙に書かれた。フィオナの名が、仕事を受ける側の欄に入った。



 先払いの四頭分は、羊ではなく銀で受け取った。


 係の男が卓の上に置いて、数を読み上げた。フィオナは自分でも数えた。


 もう一度、数えた。


 三度目を数えているとき、指が震えているのに気づいた。数を間違えたわけではない。二度とも合っていた。


 十九年ぶんの犬の世話に、値がついたことは一度もなかった。父はそれを娘の手伝いと呼び、エルサは趣味と呼んだ。同じ手が、同じことをして、ここでは金になる。


 場所が違うだけだった。それが、いちばん腹が立った。


 布の袋に入れて、上着の内側にしまった。重さがあった。


 登録所を出ると、ギルバートが壁にもたれて立っていた。


「受けたか」


「八頭分です。半分は先に」


「妥当な値だ」


 それだけだった。よくやったとは言わなかった。彼女が自分で言った値を、彼が確かめ直すこともしなかった。


 帰り道、ノクの首に自分で結んだ紐を見た。目録に値なしと書かれていた犬が、今日、隣を歩いている。



 銀は三日、持ち歩いた。


 使い道を思いつかなかった。何かを買った記憶が、ほとんどない。三日目の夜、ベルタが上着の重みに気づいて、玉杓子を置いた。


「まだ持ってるのかい」


「……はい」


「靴を買え。まずそれだ。あんたの靴、底が笑ってる」


「笑う?」


「口を開けてるんだよ。冬に凍って、足の指を落とすよ」


 卓の端でギルバートが匙を止めたが、何も言わなかった。ベルタが彼のほうを見て、皿を一枚多く置いた。



 次に登録所へ行ったとき、係の男が帳面をめくりながら顔を上げた。


「請け負いの記録を残しますか。名義はハルグ牧場でよろしいですね」


「……はい」


「それとも」


 男は羽根ペンを持ち替えた。


「ご自分のお名前で登録なさいますか。女性でも、犬の名義はご本人で取れますよ」


 壁一面の登録帳が、背中の側にあった。


 フィオナは、すぐには答えられなかった。

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