第5話 「羊四頭分」
四十三日目の朝、ノクは羊三頭を、右の石の前へ寄せた。
フィオナが指した場所だった。犬は寄せ終えてから、羊のほうへ一歩も踏み込まずに座った。それも教えた通りだった。
囲いの外で、息を吐く音がした。風より大きく聞こえた。
ギルバートが柵に手を置いていた。中へは入ってこない。
「今のを、群れでやれるか」
「……試します」
◇
午後、群れへ戻した。
八百頭のうち、囲い分けた四十頭。ノクは一号と組ませた。若い犬が二頭で回ると、たいてい合図が混ざる。フィオナは笛牌を三番の音だけに絞った。
ノクが左へ回り、群れの端が締まった。
「うわ」
ハーヴィが柵の上で叫んだ。
「回った! 一号より速い!」
牧童が四人集まってきて、誰かが口笛を吹いた。犬が振り返りかけたので、フィオナはその男の前へ掌を下げた。口笛が止まった。男は、自分がなぜ黙ったのか分からない顔をしていた。
「悪い」
「群れが締まっているあいだは、余計な音を出さないでください」
言ってから、自分の声の低さに気づいた。誰も、それを咎めなかった。
牧童たちが順に何か言った。よくやった、とか、すごい、とか。フィオナは真顔のまま頷いた。耳だけが熱かった。
◇
三日後、麓の羊毛組合の登録所へ下りた。
書き物机が並び、壁の一面に登録帳が詰まっている。犬と羊の名義が、すべてそこにあるという。フィオナは順番待ちの木札を握ったまま、その壁から目が離せなかった。
隣の牧場の主が話しかけてきた。四十くらいの男で、ハルグの群れを見たという。
「二頭、直してもらいたい。いくらだ」
フィオナは相場を知らなかった。実家では、犬に値がついたことがない。
「……羊、二頭分で」
男の眉が動いた。それが喜びでないことは分かった。
卓の向かいで、ギルバートが帳面を開いた。相場の頁だった。訓練の請け負い、一頭につき羊四頭分。数字が大きく書き直されている。
彼はそれを彼女の前へ置いて、立ち上がった。
「表にいる」
それだけ言って、出ていった。
フィオナは頁を見た。それから男を見た。手が冷たくなっていた。
言い直す。断られたら、この話は消える。消えたら、次があるかどうか分からない。
息を、一度吐いた。
「……羊四頭です」
声は低く落ちた。低いまま、続けた。
「一頭につき四頭分。二頭で八頭分。ただし、四十日で仕上がるとはお約束できません。ふつうは二か月半かかります。急がせると、犬が戻ります」
男が腕を組んだ。
「相場通りだな」
「はい」
「二か月半で八頭。それでいい。半分を先に払う。残りは仕上がってからだ」
紙に書かれた。フィオナの名が、仕事を受ける側の欄に入った。
◇
先払いの四頭分は、羊ではなく銀で受け取った。
係の男が卓の上に置いて、数を読み上げた。フィオナは自分でも数えた。
もう一度、数えた。
三度目を数えているとき、指が震えているのに気づいた。数を間違えたわけではない。二度とも合っていた。
十九年ぶんの犬の世話に、値がついたことは一度もなかった。父はそれを娘の手伝いと呼び、エルサは趣味と呼んだ。同じ手が、同じことをして、ここでは金になる。
場所が違うだけだった。それが、いちばん腹が立った。
布の袋に入れて、上着の内側にしまった。重さがあった。
登録所を出ると、ギルバートが壁にもたれて立っていた。
「受けたか」
「八頭分です。半分は先に」
「妥当な値だ」
それだけだった。よくやったとは言わなかった。彼女が自分で言った値を、彼が確かめ直すこともしなかった。
帰り道、ノクの首に自分で結んだ紐を見た。目録に値なしと書かれていた犬が、今日、隣を歩いている。
◇
銀は三日、持ち歩いた。
使い道を思いつかなかった。何かを買った記憶が、ほとんどない。三日目の夜、ベルタが上着の重みに気づいて、玉杓子を置いた。
「まだ持ってるのかい」
「……はい」
「靴を買え。まずそれだ。あんたの靴、底が笑ってる」
「笑う?」
「口を開けてるんだよ。冬に凍って、足の指を落とすよ」
卓の端でギルバートが匙を止めたが、何も言わなかった。ベルタが彼のほうを見て、皿を一枚多く置いた。
◇
次に登録所へ行ったとき、係の男が帳面をめくりながら顔を上げた。
「請け負いの記録を残しますか。名義はハルグ牧場でよろしいですね」
「……はい」
「それとも」
男は羽根ペンを持ち替えた。
「ご自分のお名前で登録なさいますか。女性でも、犬の名義はご本人で取れますよ」
壁一面の登録帳が、背中の側にあった。
フィオナは、すぐには答えられなかった。




