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当て馬の役は、今日でおしまいにします  作者: 九葉(くずは)


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4/10

第4話 「明日でいい」

 六度目の合図で、ノクが囲いの隅へ下がった。


 昨日まではできていた。羊三頭のうち二頭を、右の石まで寄せるところまで。


 フィオナは笛牌を下ろして、自分の息を数えた。


 速い。


 悪いのは犬ではなかった。



 四日で、六時間しか眠っていなかった。


 眠れないわけではない。横になると、手順書の続きが頭の中で並び始める。一号の間合い、二号の癖、ノクの四日目。書けば残ると言われてから、頭の中の順番が急に形になりたがるようになった。


 朝、囲いに立つ前に、干し肉の袋を三度確かめた。数はいつも同じだ。それでも確かめた。


 合図を出す。ノクが下がる。


 一段階戻す。羊を二頭に減らして、狭いほうの隅で。それでも犬は器の陰から出てこない。


 彼女が焦っている。それが匂いと息で伝わっている。分かっていることと、直せることは別だった。


 昼を過ぎても、進み具合は二段階分、後ろへ落ちた。


 誰にも言わなかった。言う相手を思いつかなかった。十九年、こういうときは自分で夜中にやり直していた。



「二号は俺が見る」


 夕方、囲いの外でギルバートが言った。帳面は開いていなかった。


「あんたはノクに集中しろ」


 風が一方向へ抜けていく。フィオナは笛牌の紐を握った。


「……わたしでは無理だと」


「そうは言っていない」


「同じです」


 自分の声が低くなっているのが分かった。上がらない。いつも下へ落ちる。


「できないから外すんでしょう」


 ギルバートが黙った。三十秒でも待てる男だと、ここへ来てから知っていた。今日はその沈黙が、判決を待つ時間に思えた。


「言ってください」


 息を一度、吐いた。


「できないなら、できないと」


「疲れているからだ」


 彼はすぐには続けなかった。柵の石に手を置いた。


「あんたが四日で六時間しか寝ていないのを、ベルタが数えている」


 フィオナは答えなかった。


「二号は急ぎじゃない。ノクは四十日目だ。どっちを止めるかなら、止めるのは二号だ」


 筋は通っていた。通っているのに、体のほうが受けつけなかった。


 外される。今まで、そのあとに続いた言葉は一度もなかった。理由を言われたことがないから、理由のある外され方というものを、彼女は知らない。


「……分かりました」


 分かっていなかった。彼にもそれは伝わったはずだった。



 台所には、まだ火が残っていた。


 ベルタが椀を出して、卓の上を顎で示した。粥はもう湯気が薄い。


「座りな、フィオナ」


 匙を持ったが、口へ運ばなかった。


「怒ってるね」


「……いえ」


「怒っていいよ。数を数えたのはあたしだ」


 ベルタは布巾で手を拭いて、火のほうを向いた。


「あの人はね、五年前に一頭、駄目にしてる」


 匙の柄が指に当たった。


「急いだんだよ。それだけ」


 それ以上は言わなかった。フィオナも聞き返さなかった。聞き返していい話だとは思えなかったし、ベルタの言い方が、聞くなという形をしていた。


 粥を食べた。冷めていた。冷めているのは、今日はたぶん、たまたまではない。


 部屋へ戻ると、寝台の真ん中にノクがいた。


「ベルタさん」


「入れといた」


 戸の向こうから返事があった。


「犬がいりゃ、あんたも横になるだろ」


 黒い犬は寝台を斜めに使いきっていて、動く気配がない。フィオナは端に腰を下ろした。押しても、ずれない。


 結局、犬の脚のあいだで、上着を着たまま横になった。


 その夜、八時間眠った。十九年で覚えのない長さだった。



 翌朝、ノクは合図の三度目で羊を右の石へ寄せた。


 二度失敗して、三度目だった。フィオナは干し肉を一つ出して、それから出しすぎないように袋の口を締めた。


 柵の外にギルバートがいた。帳面を開いている。


「戻ったか」


「一段階だけです」


「上等だ」


 昼をはさんで、日が傾くまで続けた。西の空が赤くなって、囲いの石が冷たくなり始めたころ、彼が立ち上がった。


「明日でいい」


 フィオナは顔を上げた。


「まだ二度、できます」


「明日でいい」


 それだけ言って、彼は母屋のほうへ歩いていった。振り返らなかった。囲いの中へは、今日も一歩も入らなかった。


 フィオナは笛牌を持ったまま、そこに立っていた。


 終わりだと、誰かに言われたことがなかった。実家では、彼女が犬舎を出るまで、誰も彼女がまだそこにいることを知らなかった。


 風がまた同じ方向へ吹いた。ノクが足元に座って、動かない彼女を見上げている。


 一時間、そうしていた。


 母屋の灯りは、消えていなかった。

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