第4話 「明日でいい」
六度目の合図で、ノクが囲いの隅へ下がった。
昨日まではできていた。羊三頭のうち二頭を、右の石まで寄せるところまで。
フィオナは笛牌を下ろして、自分の息を数えた。
速い。
悪いのは犬ではなかった。
◇
四日で、六時間しか眠っていなかった。
眠れないわけではない。横になると、手順書の続きが頭の中で並び始める。一号の間合い、二号の癖、ノクの四日目。書けば残ると言われてから、頭の中の順番が急に形になりたがるようになった。
朝、囲いに立つ前に、干し肉の袋を三度確かめた。数はいつも同じだ。それでも確かめた。
合図を出す。ノクが下がる。
一段階戻す。羊を二頭に減らして、狭いほうの隅で。それでも犬は器の陰から出てこない。
彼女が焦っている。それが匂いと息で伝わっている。分かっていることと、直せることは別だった。
昼を過ぎても、進み具合は二段階分、後ろへ落ちた。
誰にも言わなかった。言う相手を思いつかなかった。十九年、こういうときは自分で夜中にやり直していた。
◇
「二号は俺が見る」
夕方、囲いの外でギルバートが言った。帳面は開いていなかった。
「あんたはノクに集中しろ」
風が一方向へ抜けていく。フィオナは笛牌の紐を握った。
「……わたしでは無理だと」
「そうは言っていない」
「同じです」
自分の声が低くなっているのが分かった。上がらない。いつも下へ落ちる。
「できないから外すんでしょう」
ギルバートが黙った。三十秒でも待てる男だと、ここへ来てから知っていた。今日はその沈黙が、判決を待つ時間に思えた。
「言ってください」
息を一度、吐いた。
「できないなら、できないと」
「疲れているからだ」
彼はすぐには続けなかった。柵の石に手を置いた。
「あんたが四日で六時間しか寝ていないのを、ベルタが数えている」
フィオナは答えなかった。
「二号は急ぎじゃない。ノクは四十日目だ。どっちを止めるかなら、止めるのは二号だ」
筋は通っていた。通っているのに、体のほうが受けつけなかった。
外される。今まで、そのあとに続いた言葉は一度もなかった。理由を言われたことがないから、理由のある外され方というものを、彼女は知らない。
「……分かりました」
分かっていなかった。彼にもそれは伝わったはずだった。
◇
台所には、まだ火が残っていた。
ベルタが椀を出して、卓の上を顎で示した。粥はもう湯気が薄い。
「座りな、フィオナ」
匙を持ったが、口へ運ばなかった。
「怒ってるね」
「……いえ」
「怒っていいよ。数を数えたのはあたしだ」
ベルタは布巾で手を拭いて、火のほうを向いた。
「あの人はね、五年前に一頭、駄目にしてる」
匙の柄が指に当たった。
「急いだんだよ。それだけ」
それ以上は言わなかった。フィオナも聞き返さなかった。聞き返していい話だとは思えなかったし、ベルタの言い方が、聞くなという形をしていた。
粥を食べた。冷めていた。冷めているのは、今日はたぶん、たまたまではない。
部屋へ戻ると、寝台の真ん中にノクがいた。
「ベルタさん」
「入れといた」
戸の向こうから返事があった。
「犬がいりゃ、あんたも横になるだろ」
黒い犬は寝台を斜めに使いきっていて、動く気配がない。フィオナは端に腰を下ろした。押しても、ずれない。
結局、犬の脚のあいだで、上着を着たまま横になった。
その夜、八時間眠った。十九年で覚えのない長さだった。
◇
翌朝、ノクは合図の三度目で羊を右の石へ寄せた。
二度失敗して、三度目だった。フィオナは干し肉を一つ出して、それから出しすぎないように袋の口を締めた。
柵の外にギルバートがいた。帳面を開いている。
「戻ったか」
「一段階だけです」
「上等だ」
昼をはさんで、日が傾くまで続けた。西の空が赤くなって、囲いの石が冷たくなり始めたころ、彼が立ち上がった。
「明日でいい」
フィオナは顔を上げた。
「まだ二度、できます」
「明日でいい」
それだけ言って、彼は母屋のほうへ歩いていった。振り返らなかった。囲いの中へは、今日も一歩も入らなかった。
フィオナは笛牌を持ったまま、そこに立っていた。
終わりだと、誰かに言われたことがなかった。実家では、彼女が犬舎を出るまで、誰も彼女がまだそこにいることを知らなかった。
風がまた同じ方向へ吹いた。ノクが足元に座って、動かない彼女を見上げている。
一時間、そうしていた。
母屋の灯りは、消えていなかった。




