第3話 「長くていい」
囲いの外に、椅子が一つ増えていた。
ギルバートが角の丸くなった帳面を開いて、そこに座っている。
「一号の合図が通らん。あんたなら分かるか」
フィオナは柵の手前で足を止めた。囲いの中では、灰色の若い犬が羊の脇へ回りかけて、途中で立ち止まっている。牧童が笛牌を吹く。犬が半歩進んで、また止まる。
二分、見た。
「三番目と四番目が、逆です」
「なぜ」
「先に足を止めてから、目を合わせないと。逆にすると、犬が『止まれ』を『来い』の前置きだと覚えてしまうので、そうすると囲いの外でも走り出すようになって、そうなると狼の日に群れの外へ出るのが犬のほうになって、羊が谷へ落ちる。だから順を戻すには一段階前に――」
「待て」
ギルバートが帳面の頁を開いた。
「今の、そのまま書く。もう一度」
フィオナは口を閉じた。指が上着の縫い目を探して動いた。
「……すみません、長く話しました」
「長くていい。足りないより百倍いい」
◇
順を入れ替えると、灰色の犬は三度目で羊の脇へ回った。
牧童が笛牌を下ろして、自分の手を見た。同じことをしていたつもりでいたらしい。
「間も違います」と、フィオナは柵の外から言った。「合図と合図のあいだを、指を二つ数えるぶん空けてください」
指を二本立ててみせると、牧童ではなくハーヴィが走って戻ってきた。
「呼んだ?」
「……呼んでいません」
「呼ばれた気がした」
ハーヴィは自分でも理由が分からないという顔で、そのまま立ち尽くした。柵の内側で、灰色の犬が座っている。
ギルバートが帳面から顔を上げた。
「あんた、今、掌を下へ向けた」
「……癖です」
「便利だな」
彼は何か書き足した。何を書いたのかは、聞かなかった。
◇
夜、母屋の帳場で紙を渡された。
ギルバートが昼のうちに写したものだった。文字は大きく、そして下手だった。書き直した跡が何度も重なって、紙の同じ場所だけが薄く毛羽立っている。
「違うところを直せ」
「……直す?」
「あんたの言ったことだ。俺が写し損ねているところがある」
フィオナはインク壺の蓋を開けて、しばらく紙を見ていた。
一行目は、こう始まっていた。
三日は何も教えない。同じ時刻に飯だけ運ぶ。
そのあとに、犬との距離を測ること。合図は一つだけ、日に六回、それ以上はやらないこと。羊三頭の囲いで成功させること。失敗したら叱らず、一段階戻すこと。
全部、彼女が言ったことだった。彼女が言うまで、どこにも無かった。
六行目のところで筆を止めた。
「ここ、四十日と書いてありますが」
「違うか」
「早くて四十日です。ふつうは二か月半かかります。四十日と書くと、間に合わないときに人が焦ります。焦ると――」
「犬に伝わる」
「はい」
ギルバートは頷いて、紙を返せという仕草をしなかった。彼女の手元に置いたままにした。
フィオナは「早くて四十日。ふつうは二か月半」と書き足した。自分の字が、彼の字の隣に並んだ。
書き終えてから、しばらく紙を見ていた。
「なぜ、書くんですか」
「あんたが明日、山で足を折るかもしれん」
「…………」
「そうしたら、この牧場は犬の直し方を失う。書いてあれば残る」
彼は帳面を閉じた。
「だが、書いたのはあんたの言葉だ。名前を入れるかどうかは、あとで決めろ」
◇
三日後、麓から上がってきた荷馬車が、手紙を運んできた。
ベルタが台所で渡してよこした。宛名の字を見た瞬間に、指が止まった。エルサの字だった。
封を切った。短い手紙だった。
犬がわたしの言うことを聞かない。姉さんが変な癖をつけたから。父さまも困っている。
それだけだった。
フィオナは炉の前に立ったまま、二度読んだ。三度は読まなかった。
教えてほしい、とは書いていない。何がどう聞かないのかも、いつからなのかも、どの犬なのかも書いていない。
書いてあれば、分かった。合図の順が狂ったのか、間が詰まったのか、叱ったのか。二行あれば足りた。
ベルタが鍋から顔を上げた。
「返事、書くのかい」
フィオナは手紙をたたんだ。
書けることがない、のではなかった。書く義理がない。そう思った自分に、少し驚いた。
「……いえ」
紙を上着の内側へ入れて、そのまま囲いへ行った。
四日目のノクは、器の前で少し待ってから食べる。フィオナが動かないでいると、黒い犬が顔を上げた。
顔ではなく、目を。
初めて、見上げられた。
彼女は掌を地面に置いたまま、動かなかった。犬が目をそらすまで、数を数えた。四十を越えたところで、数えるのをやめた。
その夜、寝台に横になっても、目が冴えていた。手紙のせいではなかった。それだけは分かっていた。




