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当て馬の役は、今日でおしまいにします  作者: 九葉(くずは)


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3/10

第3話 「長くていい」

 囲いの外に、椅子が一つ増えていた。


 ギルバートが角の丸くなった帳面を開いて、そこに座っている。


「一号の合図が通らん。あんたなら分かるか」


 フィオナは柵の手前で足を止めた。囲いの中では、灰色の若い犬が羊の脇へ回りかけて、途中で立ち止まっている。牧童が笛牌を吹く。犬が半歩進んで、また止まる。


 二分、見た。


「三番目と四番目が、逆です」


「なぜ」


「先に足を止めてから、目を合わせないと。逆にすると、犬が『止まれ』を『来い』の前置きだと覚えてしまうので、そうすると囲いの外でも走り出すようになって、そうなると狼の日に群れの外へ出るのが犬のほうになって、羊が谷へ落ちる。だから順を戻すには一段階前に――」


「待て」


 ギルバートが帳面の頁を開いた。


「今の、そのまま書く。もう一度」


 フィオナは口を閉じた。指が上着の縫い目を探して動いた。


「……すみません、長く話しました」


「長くていい。足りないより百倍いい」



 順を入れ替えると、灰色の犬は三度目で羊の脇へ回った。


 牧童が笛牌を下ろして、自分の手を見た。同じことをしていたつもりでいたらしい。


「間も違います」と、フィオナは柵の外から言った。「合図と合図のあいだを、指を二つ数えるぶん空けてください」


 指を二本立ててみせると、牧童ではなくハーヴィが走って戻ってきた。


「呼んだ?」


「……呼んでいません」


「呼ばれた気がした」


 ハーヴィは自分でも理由が分からないという顔で、そのまま立ち尽くした。柵の内側で、灰色の犬が座っている。


 ギルバートが帳面から顔を上げた。


「あんた、今、掌を下へ向けた」


「……癖です」


「便利だな」


 彼は何か書き足した。何を書いたのかは、聞かなかった。



 夜、母屋の帳場で紙を渡された。


 ギルバートが昼のうちに写したものだった。文字は大きく、そして下手だった。書き直した跡が何度も重なって、紙の同じ場所だけが薄く毛羽立っている。


「違うところを直せ」


「……直す?」


「あんたの言ったことだ。俺が写し損ねているところがある」


 フィオナはインク壺の蓋を開けて、しばらく紙を見ていた。


 一行目は、こう始まっていた。


 三日は何も教えない。同じ時刻に飯だけ運ぶ。


 そのあとに、犬との距離を測ること。合図は一つだけ、日に六回、それ以上はやらないこと。羊三頭の囲いで成功させること。失敗したら叱らず、一段階戻すこと。


 全部、彼女が言ったことだった。彼女が言うまで、どこにも無かった。


 六行目のところで筆を止めた。


「ここ、四十日と書いてありますが」


「違うか」


「早くて四十日です。ふつうは二か月半かかります。四十日と書くと、間に合わないときに人が焦ります。焦ると――」


「犬に伝わる」


「はい」


 ギルバートは頷いて、紙を返せという仕草をしなかった。彼女の手元に置いたままにした。


 フィオナは「早くて四十日。ふつうは二か月半」と書き足した。自分の字が、彼の字の隣に並んだ。


 書き終えてから、しばらく紙を見ていた。


「なぜ、書くんですか」


「あんたが明日、山で足を折るかもしれん」


「…………」


「そうしたら、この牧場は犬の直し方を失う。書いてあれば残る」


 彼は帳面を閉じた。


「だが、書いたのはあんたの言葉だ。名前を入れるかどうかは、あとで決めろ」



 三日後、麓から上がってきた荷馬車が、手紙を運んできた。


 ベルタが台所で渡してよこした。宛名の字を見た瞬間に、指が止まった。エルサの字だった。


 封を切った。短い手紙だった。


 犬がわたしの言うことを聞かない。姉さんが変な癖をつけたから。父さまも困っている。


 それだけだった。


 フィオナは炉の前に立ったまま、二度読んだ。三度は読まなかった。


 教えてほしい、とは書いていない。何がどう聞かないのかも、いつからなのかも、どの犬なのかも書いていない。


 書いてあれば、分かった。合図の順が狂ったのか、間が詰まったのか、叱ったのか。二行あれば足りた。


 ベルタが鍋から顔を上げた。


「返事、書くのかい」


 フィオナは手紙をたたんだ。


 書けることがない、のではなかった。書く義理がない。そう思った自分に、少し驚いた。


「……いえ」


 紙を上着の内側へ入れて、そのまま囲いへ行った。


 四日目のノクは、器の前で少し待ってから食べる。フィオナが動かないでいると、黒い犬が顔を上げた。


 顔ではなく、目を。


 初めて、見上げられた。


 彼女は掌を地面に置いたまま、動かなかった。犬が目をそらすまで、数を数えた。四十を越えたところで、数えるのをやめた。


 その夜、寝台に横になっても、目が冴えていた。手紙のせいではなかった。それだけは分かっていた。

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