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当て馬の役は、今日でおしまいにします  作者: 九葉(くずは)


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2/10

第2話 「あんたの名前を書く欄がある」

 差し出された紙に、名前を書く欄があった。


 フィオナは筆を持ったまま止まった。欄は他にもいくつかあって、そのうちの一つに、細かい数字が並んでいる。


「わたし、字は書けます」


「知っている」


 男は卓の向こうで、椅子を引いて座り直した。ギルバート・ハルグと名乗った。ハルグ高原の牧場主で、羊が八百頭、犬が十一頭。爵位はないと、聞いてもいないのに最初に言った。


「書けるかを聞いてない。書きたいかを聞いている」


 炉の火が音を立てた。天井から根菜が吊るして干してあって、その影が紙の端に落ちている。


 フィオナは筆を置いて、先に条件のほうを読んだ。


 一年を通しての雇い入れ。月に二日の休み。冬のあいだの宿と食事。給金は月ごと、初月の分は月末に。犬の訓練を任せる場合は、その分を別に払う。


 三度、頭から読み直した。裏を返した。裏は白紙だった。


「何を探している」


「……引かれる分です」


「ない」


「食事と、寝床の分は」


「給金から引かない。書いてある通りだ」


 文字が大きかった。読みやすいというより、読ませる気で書かれた大きさだった。


 フィオナは自分の名を書いた。フィオナ・ミルズ。上と下の余白が余った。



「フィオナ」


 台所に入ると、いきなり名前を呼ばれた。返事をするのに一拍かかった。


 炊事係のベルタは五十を過ぎていて、腕まくりのまま鍋を混ぜていた。


「食べたか」


「……いえ」


「じゃあ座りな。フィオナ、そっちの椅子」


 二度呼ばれた。粥の椀が出てきて、湯気が真っ直ぐ上がっている。フィオナは匙を持ったまま、椀を見ていた。


 物置を片づけた部屋をもらったのは、その日の夕方だった。窓が一つ、寝台が一つ。牧童は雑魚寝だと聞いていたので、理由をたずねた。


「犬を寝かせるだろう」とギルバートが言った。「雑魚寝の部屋に犬を入れると、七人のうちの誰かが必ず起こす」


 それから寸法を測られた。上着を作るという。


「丈が合っていないと風が入る。風が入ると手が動かなくなる。手が動かないと、犬が待たされる」


 自分の寸法で服を作ってもらうのは、初めてだった。フィオナは、それを口には出さなかった。



 訓練囲いは、石を積んだ低い囲いだった。羊が三頭入るくらいの広さで、風がいつも同じ向きへ抜けていく。


 ノクの一日目。フィオナは飯だけを運んで、置いて、出た。


 二日目も同じ時刻に、同じ場所へ置いた。三日目も。


「なあ」


 柵に、十六の牧童が肘をかけていた。ハーヴィという。人の作業を見に来る癖があるらしい。


「それ、何もしてないじゃん」


「してます」


「餌やってるだけだろ」


 フィオナは干し肉の袋の口を締めた。


「犬は、人の息と匂いを拾います。近づく人間が急いでいると、群れが締まらない。怖がっている人間が先に立つと、犬が羊より先に逃げます。だから最初に覚えさせるのは合図ではなくて、この人間は毎日同じ時刻に来て、同じ速さで歩いて、何も欲しがらないという――」


 言葉が続きすぎているのに気づいて、口を閉じた。


「……すみません」


「え、いや、続けてよ」


 ハーヴィが柵の上へ身を乗り出した。フィオナは干し肉の袋を持ち直した。


「三日目です。あと一日は、まだ何もしません」


「ふうん」


 囲いの中で、ノクが器のほうへ寄っていく。フィオナが見ているあいだは、顔を上げなかった。



 夕食は全員そろって取る決まりだという。長い卓に牧童が七人、ベルタ、ギルバート。


 フィオナの前に椀が置かれた。湯気が薄い。


 匙を入れると、ちょうど食べられる温度だった。


 顔を上げると、卓の端でギルバートが自分の分を食べている。目は合わなかった。


 牧童たちが何か小声で言い合って、ハーヴィが「三日目だって」と言い、誰かが銅貨を出した。ベルタが玉杓子で卓を叩いた。


「賭けるな。皿を運べ」


 その夜、囲いの外でノクの様子を見ていると、ハーヴィが通りかかった。


「なあ、さっきの三日のやつ」


 彼は手に持っていた木切れで、掌を掻いた。


「その順番、書いといたら?」


「……書く?」


「うん。旦那、そういうの好きだよ。犬の名前つけるのは下手だけど」


「名前」


「一号、二号、白いの」


 ハーヴィは笑いながら行ってしまった。


 フィオナは囲いの石に手を置いたまま、しばらく動かなかった。


 順番を書く。頭の中にあるものを、紙に。


 そんなことを言われたのは、十九年で一度もなかった。

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