第2話 「あんたの名前を書く欄がある」
差し出された紙に、名前を書く欄があった。
フィオナは筆を持ったまま止まった。欄は他にもいくつかあって、そのうちの一つに、細かい数字が並んでいる。
「わたし、字は書けます」
「知っている」
男は卓の向こうで、椅子を引いて座り直した。ギルバート・ハルグと名乗った。ハルグ高原の牧場主で、羊が八百頭、犬が十一頭。爵位はないと、聞いてもいないのに最初に言った。
「書けるかを聞いてない。書きたいかを聞いている」
炉の火が音を立てた。天井から根菜が吊るして干してあって、その影が紙の端に落ちている。
フィオナは筆を置いて、先に条件のほうを読んだ。
一年を通しての雇い入れ。月に二日の休み。冬のあいだの宿と食事。給金は月ごと、初月の分は月末に。犬の訓練を任せる場合は、その分を別に払う。
三度、頭から読み直した。裏を返した。裏は白紙だった。
「何を探している」
「……引かれる分です」
「ない」
「食事と、寝床の分は」
「給金から引かない。書いてある通りだ」
文字が大きかった。読みやすいというより、読ませる気で書かれた大きさだった。
フィオナは自分の名を書いた。フィオナ・ミルズ。上と下の余白が余った。
◇
「フィオナ」
台所に入ると、いきなり名前を呼ばれた。返事をするのに一拍かかった。
炊事係のベルタは五十を過ぎていて、腕まくりのまま鍋を混ぜていた。
「食べたか」
「……いえ」
「じゃあ座りな。フィオナ、そっちの椅子」
二度呼ばれた。粥の椀が出てきて、湯気が真っ直ぐ上がっている。フィオナは匙を持ったまま、椀を見ていた。
物置を片づけた部屋をもらったのは、その日の夕方だった。窓が一つ、寝台が一つ。牧童は雑魚寝だと聞いていたので、理由をたずねた。
「犬を寝かせるだろう」とギルバートが言った。「雑魚寝の部屋に犬を入れると、七人のうちの誰かが必ず起こす」
それから寸法を測られた。上着を作るという。
「丈が合っていないと風が入る。風が入ると手が動かなくなる。手が動かないと、犬が待たされる」
自分の寸法で服を作ってもらうのは、初めてだった。フィオナは、それを口には出さなかった。
◇
訓練囲いは、石を積んだ低い囲いだった。羊が三頭入るくらいの広さで、風がいつも同じ向きへ抜けていく。
ノクの一日目。フィオナは飯だけを運んで、置いて、出た。
二日目も同じ時刻に、同じ場所へ置いた。三日目も。
「なあ」
柵に、十六の牧童が肘をかけていた。ハーヴィという。人の作業を見に来る癖があるらしい。
「それ、何もしてないじゃん」
「してます」
「餌やってるだけだろ」
フィオナは干し肉の袋の口を締めた。
「犬は、人の息と匂いを拾います。近づく人間が急いでいると、群れが締まらない。怖がっている人間が先に立つと、犬が羊より先に逃げます。だから最初に覚えさせるのは合図ではなくて、この人間は毎日同じ時刻に来て、同じ速さで歩いて、何も欲しがらないという――」
言葉が続きすぎているのに気づいて、口を閉じた。
「……すみません」
「え、いや、続けてよ」
ハーヴィが柵の上へ身を乗り出した。フィオナは干し肉の袋を持ち直した。
「三日目です。あと一日は、まだ何もしません」
「ふうん」
囲いの中で、ノクが器のほうへ寄っていく。フィオナが見ているあいだは、顔を上げなかった。
◇
夕食は全員そろって取る決まりだという。長い卓に牧童が七人、ベルタ、ギルバート。
フィオナの前に椀が置かれた。湯気が薄い。
匙を入れると、ちょうど食べられる温度だった。
顔を上げると、卓の端でギルバートが自分の分を食べている。目は合わなかった。
牧童たちが何か小声で言い合って、ハーヴィが「三日目だって」と言い、誰かが銅貨を出した。ベルタが玉杓子で卓を叩いた。
「賭けるな。皿を運べ」
その夜、囲いの外でノクの様子を見ていると、ハーヴィが通りかかった。
「なあ、さっきの三日のやつ」
彼は手に持っていた木切れで、掌を掻いた。
「その順番、書いといたら?」
「……書く?」
「うん。旦那、そういうの好きだよ。犬の名前つけるのは下手だけど」
「名前」
「一号、二号、白いの」
ハーヴィは笑いながら行ってしまった。
フィオナは囲いの石に手を置いたまま、しばらく動かなかった。
順番を書く。頭の中にあるものを、紙に。
そんなことを言われたのは、十九年で一度もなかった。




