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当て馬の役は、今日でおしまいにします  作者: 九葉(くずは)


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第1話 「削れた笛牌」

 犬舎の壁の釘に、笛牌が一つも掛かっていなかった。


 朝のうちに全部を洗って、外に干したままだったと思い出す。フィオナは手に持っていた一枚を掛け直そうとして、途中で止めた。


 母屋の窓から、父の声が届いていた。


「エルサで話は進める。目録は書き直さん」


 削れて音の低くなった骨の笛牌が、掌の中で少しあたたかくなっていた。フィオナはそれを握ったまま、藁を踏んで外へ出た。


 三度目だった。



 母屋の卓には、持ち寄り目録が広げられていた。


 羊の頭数、牧草地を使う権利、それから働き手。紙の右下に、細い字で「働き手・長女」と書かれている。父がその上へ横線を引き、隣に「次女」と書き足した。インクの匂いが、炉の煙の匂いに混ざった。


 それだけで終わりだった。目録そのものは、一行も動いていない。


 当て番という。家と家が結んだ持ち寄りはそのままにして、結婚する当人だけを、同じ家の別の娘へ入れ替える。両家が紙を作り直す手間を惜しむときに使う。組合の登録帳にも、そのまま写しが残る。


 悪いことではない。少なくとも、この国では。誰も罰を受けない。


「姉さん」


 エルサが顔を上げた。十七歳の妹は、叱られているような顔をしていなかった。


「姉さんは犬がいるから、その方がいいでしょう? わたし、犬舎は苦手だし」


 卓の向かいで、毛織物商の跡取りが指を組んでいる。ロデリック・カーンといった。目録の数字を、上から順に指で確かめている。フィオナのほうは、一度も見ない。


 三度婚約して、三度とも、相手の顔を覚える前に話が入れ替わった。今度は自分のほうが入れ替わった。それだけの違いだ。


「不足はありません」とロデリックが言った。「では、この線で」


 フィオナは息を一度、吐いた。


「お父さま。お願いがあります」


 父が面倒そうに顔を向けた。娘の声を聞き取るのに、いつも一拍かかる人だった。


「ノクをください」


「なんだ、それは」


「犬です。目録に、値なしと書いてある一頭です」


 父は目録の裏をめくって、指でたどった。犬の欄のいちばん下に、たしかに値のついていない行がある。


「持っていけ。餌代が浮く」


 紙の上で、犬が一頭、彼女のものになった。



 犬舎に戻ると、六頭が順に顔を上げた。


 いちばん奥の黒いのだけが、耳をこちらへ向けたまま動かない。ノクだった。人の声を聞くと、必ず一度、身を低くする癖がある。


 フィオナは一頭ずつの前を通った。この犬は合図を出す前に半歩下がってやらないと固まる。この犬は笛の三番目の音だけ聞き分けが鈍い。狼の匂いが山から下りた日は、まず群れを谷側へ寄せてから犬を戻す。


 全部、頭の中にある。十九年ぶん。紙には一枚も書いていない。


 書けと言われたことがなかった。聞かれたこともなかった。


 父もエルサも、この犬たちを「もともと賢い犬」だと思っている。彼女が犬舎にいるのは犬が好きだからで、それは趣味だと思っている。半分は当たっていた。半分は、お金が出ない。


 フィオナは膝をついて、ノクの前に掌を下ろした。


 三十ほど数えるあいだ、そのままでいた。黒い犬が首を伸ばして、指の匂いを嗅いだ。


「行こう」


 声は出さず、唇だけ動かした。



 夜明けに荷馬車へ乗った。正確には、乗ろうとした。


 ノクが車輪の手前で止まった。二度目も止まった。三度目、フィオナが先に乗って掌を叩いてみせると、犬は座り込んで、荷台をじっと見上げた。


 御者が舌打ちをした。


 フィオナは荷物を降ろして、自分も降りた。麓まで半日、歩けない距離ではない。荷馬車の後ろを、犬と並んで歩いた。上着の裾が、妹のお下がりの丈で足首に届かない。


 昼を過ぎて、麓の宿場に着いた。


 人と荷物が詰まっていた。埃と、藁と、馬の汗の匂い。誰かが積み荷の樽を落とし、木の音が壁に跳ね返った。


 つないであった荷馬が、頭を振り上げた。


 手綱が引かれ、馬がさらに後ろへ下がる。人が声を上げる。声を上げれば上げるほど、馬の耳が後ろへ倒れていく。


 考えるより先に、足が出ていた。


 フィオナは馬の斜め前まで進んで、片膝をついた。掌を、地面へ向けて下ろす。それから動かない。


 息を吸う回数を、半分に減らす。怖くないわけではなかった。前脚が上がれば、届く距離だ。ただ、怖いまま、息と足の運びだけを変えることはできる。彼女にできるのはそれだけで、長くはもたない。


 馬の鼻息が、埃を巻いた。


 まわりの声が一つ落ち、二つ落ちた。人が黙ると、馬の耳が戻ってくる。前脚が下り、首が下がり、蹄が地面を探すようにして止まった。


 フィオナは立ち上がって、後ろへ二歩下がった。それで終わりだった。


「今の、どうやった」


 振り返ると、男が立っていた。三十には見えない。厚い羊毛の上着の前を、この風のなかで留めていない。左手の甲に、古い歯型の傷があった。


「……何もしていません」


「四十秒だ。数えていた。何もしないで、ああはならない」


 フィオナは笛牌の紐を握った。答え方を知らない質問だった。


「……息を、変えただけです」


 男は少しのあいだ黙っていた。急いで次を言わなかった。


「なるほど」


 それから、荷馬のほうを一度見て、彼女に目を戻した。


「うちで働く気は」


 風が、宿場の通りを一方向に抜けていった。ノクが、フィオナの脚の後ろで立ち上がった。

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