第1話 「削れた笛牌」
犬舎の壁の釘に、笛牌が一つも掛かっていなかった。
朝のうちに全部を洗って、外に干したままだったと思い出す。フィオナは手に持っていた一枚を掛け直そうとして、途中で止めた。
母屋の窓から、父の声が届いていた。
「エルサで話は進める。目録は書き直さん」
削れて音の低くなった骨の笛牌が、掌の中で少しあたたかくなっていた。フィオナはそれを握ったまま、藁を踏んで外へ出た。
三度目だった。
◇
母屋の卓には、持ち寄り目録が広げられていた。
羊の頭数、牧草地を使う権利、それから働き手。紙の右下に、細い字で「働き手・長女」と書かれている。父がその上へ横線を引き、隣に「次女」と書き足した。インクの匂いが、炉の煙の匂いに混ざった。
それだけで終わりだった。目録そのものは、一行も動いていない。
当て番という。家と家が結んだ持ち寄りはそのままにして、結婚する当人だけを、同じ家の別の娘へ入れ替える。両家が紙を作り直す手間を惜しむときに使う。組合の登録帳にも、そのまま写しが残る。
悪いことではない。少なくとも、この国では。誰も罰を受けない。
「姉さん」
エルサが顔を上げた。十七歳の妹は、叱られているような顔をしていなかった。
「姉さんは犬がいるから、その方がいいでしょう? わたし、犬舎は苦手だし」
卓の向かいで、毛織物商の跡取りが指を組んでいる。ロデリック・カーンといった。目録の数字を、上から順に指で確かめている。フィオナのほうは、一度も見ない。
三度婚約して、三度とも、相手の顔を覚える前に話が入れ替わった。今度は自分のほうが入れ替わった。それだけの違いだ。
「不足はありません」とロデリックが言った。「では、この線で」
フィオナは息を一度、吐いた。
「お父さま。お願いがあります」
父が面倒そうに顔を向けた。娘の声を聞き取るのに、いつも一拍かかる人だった。
「ノクをください」
「なんだ、それは」
「犬です。目録に、値なしと書いてある一頭です」
父は目録の裏をめくって、指でたどった。犬の欄のいちばん下に、たしかに値のついていない行がある。
「持っていけ。餌代が浮く」
紙の上で、犬が一頭、彼女のものになった。
◇
犬舎に戻ると、六頭が順に顔を上げた。
いちばん奥の黒いのだけが、耳をこちらへ向けたまま動かない。ノクだった。人の声を聞くと、必ず一度、身を低くする癖がある。
フィオナは一頭ずつの前を通った。この犬は合図を出す前に半歩下がってやらないと固まる。この犬は笛の三番目の音だけ聞き分けが鈍い。狼の匂いが山から下りた日は、まず群れを谷側へ寄せてから犬を戻す。
全部、頭の中にある。十九年ぶん。紙には一枚も書いていない。
書けと言われたことがなかった。聞かれたこともなかった。
父もエルサも、この犬たちを「もともと賢い犬」だと思っている。彼女が犬舎にいるのは犬が好きだからで、それは趣味だと思っている。半分は当たっていた。半分は、お金が出ない。
フィオナは膝をついて、ノクの前に掌を下ろした。
三十ほど数えるあいだ、そのままでいた。黒い犬が首を伸ばして、指の匂いを嗅いだ。
「行こう」
声は出さず、唇だけ動かした。
◇
夜明けに荷馬車へ乗った。正確には、乗ろうとした。
ノクが車輪の手前で止まった。二度目も止まった。三度目、フィオナが先に乗って掌を叩いてみせると、犬は座り込んで、荷台をじっと見上げた。
御者が舌打ちをした。
フィオナは荷物を降ろして、自分も降りた。麓まで半日、歩けない距離ではない。荷馬車の後ろを、犬と並んで歩いた。上着の裾が、妹のお下がりの丈で足首に届かない。
昼を過ぎて、麓の宿場に着いた。
人と荷物が詰まっていた。埃と、藁と、馬の汗の匂い。誰かが積み荷の樽を落とし、木の音が壁に跳ね返った。
つないであった荷馬が、頭を振り上げた。
手綱が引かれ、馬がさらに後ろへ下がる。人が声を上げる。声を上げれば上げるほど、馬の耳が後ろへ倒れていく。
考えるより先に、足が出ていた。
フィオナは馬の斜め前まで進んで、片膝をついた。掌を、地面へ向けて下ろす。それから動かない。
息を吸う回数を、半分に減らす。怖くないわけではなかった。前脚が上がれば、届く距離だ。ただ、怖いまま、息と足の運びだけを変えることはできる。彼女にできるのはそれだけで、長くはもたない。
馬の鼻息が、埃を巻いた。
まわりの声が一つ落ち、二つ落ちた。人が黙ると、馬の耳が戻ってくる。前脚が下り、首が下がり、蹄が地面を探すようにして止まった。
フィオナは立ち上がって、後ろへ二歩下がった。それで終わりだった。
「今の、どうやった」
振り返ると、男が立っていた。三十には見えない。厚い羊毛の上着の前を、この風のなかで留めていない。左手の甲に、古い歯型の傷があった。
「……何もしていません」
「四十秒だ。数えていた。何もしないで、ああはならない」
フィオナは笛牌の紐を握った。答え方を知らない質問だった。
「……息を、変えただけです」
男は少しのあいだ黙っていた。急いで次を言わなかった。
「なるほど」
それから、荷馬のほうを一度見て、彼女に目を戻した。
「うちで働く気は」
風が、宿場の通りを一方向に抜けていった。ノクが、フィオナの脚の後ろで立ち上がった。




