第10話 「今で、いいです」
ハーヴィが囲いの中で片膝をついていた。
掌を地面へ向けて、動かない。前には、麓から預かった若い犬がいる。
フィオナは柵の外から数えた。
三十八秒。犬が首を伸ばして、彼の指の匂いを嗅いだ。
悪くない。
「いま何秒?」
「三十八です」
「前より短い?」
「長いです。犬が寄るまでの時間が短くなりました」
「どっちだよ!」
ハーヴィが立ち上がって、犬に足を踏まれた。
フィオナは柵に手を置いた。ここは、彼女が立つはずのなかった場所だった。中へ入りたくなる。入らない。入らないことがどれだけ難しいかを、今は知っている。
柵の外で待つ人の気持ちが、ようやく分かった。
◇
寄せ手として、三件の仕事を抱えていた。
隣の牧場の二頭は年明けに仕上がって、残りの四頭分も受け取った。麓の共有犬舎から一頭。それと、妹が預けにきた一頭。
エルサは犬を置いて、書面の写しを持って帰った。長居はしなかった。ミルズ家が羊毛の等級を戻すには二年かかると、荷馬車の御者が言っていた。フィオナはそれを聞いて、頷いただけだった。
台所では、ベルタが粥をかき混ぜている。
「四人分」
「増えましたね」
「増えたんだよ。あんたの弟子が二人と、あんたと、旦那」
「わたし、弟子は一人です」
「二人だよ。あの子が一人で二人分食う」
◇
その日の夕方、帳場に呼ばれた。
卓の上に、組合の印が押された紙が一枚あった。文字が大きく、書き直した跡が二か所あった。
「これを」
フィオナは読んだ。読んで、もう一度、上から読んだ。
「……牧場の、名義」
「半分だ。組合には出してある」
彼はマグを二つ置いた。片方は白湯だった。
「受けるかどうかとは別の話で、断ってもこれは有効にする」
「なぜ」
「あんたのやり方で上がった等級だ。羊が減らなくなって、麓の値が一段上がった。当然の分け前だ」
フィオナは紙の端を持っていた。
彼は、いつものように次を急がなかった。マグを置いて、それから言った。
「そのうえで、聞いてほしいことがある。今じゃなくていい。明日でも、来月でもいい」
風が窓を鳴らした。
彼女は紙を卓へ戻した。
「……今で、いいです」
「早いな」
「三度、待たされたので」
息を、一度吐いた。
「今度は、わたしが決めます」
ギルバートが黙った。三十秒待てる男が、今日は待たなかった。ただ、言葉が出るまでに少しかかった。
「……一緒にいてほしい」
短い。言い直しもしなかった。
「はい」
それだけで足りた。彼女も言い足さなかった。
卓の下で、彼の手が近づいてきて、途中で止まった。フィオナのほうから、指を二つぶん動かした。
戸の向こうで、皿が二枚重なる音がした。ベルタは、何も言わずに引っ込んだ。
◇
三日後、白い犬が名前をもらった。
「なんという名前ですか」
「……考えている」
「三日、考えていますね」
「難しい」
彼は土間の犬を見た。犬は寝ていた。
「シロ」
フィオナは手を止めた。
「……白いので?」
「そうだ」
「そうですか」
真顔のまま、耳だけが熱くなった。夜に生まれたからノクだと名づけた自分に、何も言えることがなかった。
「なんだ」
「なんでもありません」
「笑っている」
「笑っていません」
土間のシロが尻尾を一度だけ振った。名前を呼ばれたのが分かったらしい。ギルバートがそれを見て、目をそらした。ずいぶん長いこと、犬の名前を呼ばなかった人だった。
ノクが、二人の足のあいだで寝返りを打った。黒い犬は、このごろどちらの部屋でも寝る。
◇
春の終わりに、麓から新しい仕事の話が上がってきた。
山越えの隊商だった。荷駄馬が峠で暴れて、荷物を二度落としたという。犬ではなく、馬を落ち着け直してほしい。
フィオナは依頼書を二度読んだ。
馬は犬より間合いが遠い。合図の順も違う。笛牌が通るかどうかも分からない。
「やったことがありません」
そう言って、依頼書を卓に置いた。それから、もう一度拾い上げた。
「やります」
ギルバートは頷いて、帳面の頁を新しくめくった。書き取る用意だった。
「値は」
「相場を、先に調べます」
「賢いな」
彼は少しだけ笑った。この人が笑うのを、彼女は数えるほどしか見ていない。今日で三度目だった。
◇
夕方、囲いの外に立った。
中ではハーヴィが片膝をついている。柵の内側は、もう彼女の場所ではない日が増えた。
風が、いつもの一方向へ抜けていく。この音が好きだと、まだ誰にも言っていない。今日、言ってみてもいい気がした。
登録帳には彼女の名前がある。書面には彼女の値段がある。手順書には彼女の字がある。
誰も、ここから彼女を入れ替えられない。
坂の下から、荷馬車の音が近づいてくる。次の犬が来る。
母屋の戸が開いて、名前を呼ばれた。
フィオナは笛牌の紐を握り直して、返事をした。




