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当て馬の役は、今日でおしまいにします  作者: 九葉(くずは)


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10/10

第10話 「今で、いいです」

 ハーヴィが囲いの中で片膝をついていた。


 掌を地面へ向けて、動かない。前には、麓から預かった若い犬がいる。


 フィオナは柵の外から数えた。


 三十八秒。犬が首を伸ばして、彼の指の匂いを嗅いだ。


 悪くない。


「いま何秒?」


「三十八です」


「前より短い?」


「長いです。犬が寄るまでの時間が短くなりました」


「どっちだよ!」


 ハーヴィが立ち上がって、犬に足を踏まれた。


 フィオナは柵に手を置いた。ここは、彼女が立つはずのなかった場所だった。中へ入りたくなる。入らない。入らないことがどれだけ難しいかを、今は知っている。


 柵の外で待つ人の気持ちが、ようやく分かった。



 寄せ手として、三件の仕事を抱えていた。


 隣の牧場の二頭は年明けに仕上がって、残りの四頭分も受け取った。麓の共有犬舎から一頭。それと、妹が預けにきた一頭。


 エルサは犬を置いて、書面の写しを持って帰った。長居はしなかった。ミルズ家が羊毛の等級を戻すには二年かかると、荷馬車の御者が言っていた。フィオナはそれを聞いて、頷いただけだった。


 台所では、ベルタが粥をかき混ぜている。


「四人分」


「増えましたね」


「増えたんだよ。あんたの弟子が二人と、あんたと、旦那」


「わたし、弟子は一人です」


「二人だよ。あの子が一人で二人分食う」



 その日の夕方、帳場に呼ばれた。


 卓の上に、組合の印が押された紙が一枚あった。文字が大きく、書き直した跡が二か所あった。


「これを」


 フィオナは読んだ。読んで、もう一度、上から読んだ。


「……牧場の、名義」


「半分だ。組合には出してある」


 彼はマグを二つ置いた。片方は白湯だった。


「受けるかどうかとは別の話で、断ってもこれは有効にする」


「なぜ」


「あんたのやり方で上がった等級だ。羊が減らなくなって、麓の値が一段上がった。当然の分け前だ」


 フィオナは紙の端を持っていた。


 彼は、いつものように次を急がなかった。マグを置いて、それから言った。


「そのうえで、聞いてほしいことがある。今じゃなくていい。明日でも、来月でもいい」


 風が窓を鳴らした。


 彼女は紙を卓へ戻した。


「……今で、いいです」


「早いな」


「三度、待たされたので」


 息を、一度吐いた。


「今度は、わたしが決めます」


 ギルバートが黙った。三十秒待てる男が、今日は待たなかった。ただ、言葉が出るまでに少しかかった。


「……一緒にいてほしい」


 短い。言い直しもしなかった。


「はい」


 それだけで足りた。彼女も言い足さなかった。


 卓の下で、彼の手が近づいてきて、途中で止まった。フィオナのほうから、指を二つぶん動かした。


 戸の向こうで、皿が二枚重なる音がした。ベルタは、何も言わずに引っ込んだ。



 三日後、白い犬が名前をもらった。


「なんという名前ですか」


「……考えている」


「三日、考えていますね」


「難しい」


 彼は土間の犬を見た。犬は寝ていた。


「シロ」


 フィオナは手を止めた。


「……白いので?」


「そうだ」


「そうですか」


 真顔のまま、耳だけが熱くなった。夜に生まれたからノクだと名づけた自分に、何も言えることがなかった。


「なんだ」


「なんでもありません」


「笑っている」


「笑っていません」


 土間のシロが尻尾を一度だけ振った。名前を呼ばれたのが分かったらしい。ギルバートがそれを見て、目をそらした。ずいぶん長いこと、犬の名前を呼ばなかった人だった。


 ノクが、二人の足のあいだで寝返りを打った。黒い犬は、このごろどちらの部屋でも寝る。



 春の終わりに、麓から新しい仕事の話が上がってきた。


 山越えの隊商だった。荷駄馬が峠で暴れて、荷物を二度落としたという。犬ではなく、馬を落ち着け直してほしい。


 フィオナは依頼書を二度読んだ。


 馬は犬より間合いが遠い。合図の順も違う。笛牌が通るかどうかも分からない。


「やったことがありません」


 そう言って、依頼書を卓に置いた。それから、もう一度拾い上げた。


「やります」


 ギルバートは頷いて、帳面の頁を新しくめくった。書き取る用意だった。


「値は」


「相場を、先に調べます」


「賢いな」


 彼は少しだけ笑った。この人が笑うのを、彼女は数えるほどしか見ていない。今日で三度目だった。



 夕方、囲いの外に立った。


 中ではハーヴィが片膝をついている。柵の内側は、もう彼女の場所ではない日が増えた。


 風が、いつもの一方向へ抜けていく。この音が好きだと、まだ誰にも言っていない。今日、言ってみてもいい気がした。


 登録帳には彼女の名前がある。書面には彼女の値段がある。手順書には彼女の字がある。


 誰も、ここから彼女を入れ替えられない。


 坂の下から、荷馬車の音が近づいてくる。次の犬が来る。


 母屋の戸が開いて、名前を呼ばれた。


 フィオナは笛牌の紐を握り直して、返事をした。

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