第66話 葉山陽子
私、葉山陽子は望まれない子供だった。
年子の弟がいることから分かるように父は長男が欲しかったという。結局私が生まれた後それを許せずに弟を作ったと母からいやになるほど聞かされてきた。両親の思いは、弟、和人の誕生で成就したように見えたがそう上手くいかなかった。
和人は生まれながらの虚弱体質ですぐに病気にかかり、4歳になるころには大病を患い病院で過ごすようになっていた。
和人の出産で子宮を痛めた母は子を産めない体になっていた。私と和人がいるのだからそんなに気にしなくてもいいように思えるが元気な男の子供が欲しかった父からすると私は目ざわり極まりない存在だったと思う。私のせいで母が子供を産めなくなり、私が先に生まれてしまったから弟があんな体質で生まれたんだと、物心つく頃には暴力を振るわれるようになっていた。
弟が肺炎を患い最初の入院が決まった後、父からの暴力はとどまることを知らなかった。
お前さえいなければ。お前が生まれなければ。
何かを言うたびに、その頭か言葉尻に彼はそう言ってきた。
こんな感じであったため私の家での立場は最悪であった。毎日父から家事を押し付けられるし、何か機嫌を損ねることがあるたびに私に暴力を振るっていた。
母は基本見て見ぬふりをしていたし、場合によっては父に加担していた。それでもたまに産んでしまってごめんねと泣きながら私に語りかけてきた。
まさに、私は生まれないほうが良かったのだ。
父は私に暴力を振るう時に外から怪我が見えないようにしたせいで虐待が外にバレることはなかった。あるいは時代かもしれない。そういう体罰が許容される。そういう最後の世代だったのかもしれないと私は思う。
それでも私が耐えられたのは父が性的虐待を行ってこなかったことと、私が大きくなるにつれ家にいる時間が減り、私と父が顔を合せる時間が減ったのが大きいだろう。
でも、私が15の時に和人は白血病で亡くなってしまった。
その時の父は怒りで我を忘れたようであり私の身は母の手で一時的に祖母の家に預けられた。家に帰った後、家中がまるで強盗にでも入られたかのように荒らされておりその後処理を私はやらされた。
和人との最期の会話は今でも覚えている。
「お姉ちゃん、元気になったらまたあそぼ」
彼は、私が父からの暴力を受けていることすら知らず、また自らの病状も知らされないまま死んでしまった。
私が高校に行けたのはなんでだかは分からない。父の気まぐれか、あるいは中卒の娘というものが自らのプライドを傷つけると思ったのかもしれない。
高校に入ってからは友人の誘いで軽音部に入った。楽器を買ってもらえないという理由から私はドラムをやるようになったし性に合っていた。
また、アルバイトも始めた。地元のスーパーのレジのアルバイトを。学校の疲れを持ったままずっと立ちっぱなしなのはとてもつらかったが、家にいる時間を減らせるし少しでも自由に使える時間とお金が欲しかった。
このころになると、父も昇進したためか家に帰る時間が遅くなり、私も帰宅時間が遅く家事を押し付けられないため家中ゴミが散乱して洗い物、掃除、洗濯が完全に放置されるようになっていた。いわゆる機能不全家族というやつになったのだ。それでも暴力を振るわれていた時と比べて居心地のいい空間に変わっていた。
さらに幸運なことに私は勉学に向いていた。模試の成績でT大学のB判定が出たというときに父は自分のことのように喜んだ。いや、事実自分のことだったのだろう。彼にとって私は所有物なんだろうから。
そんなことで大学の進学を私は許された。
大学生活はまさに天国であった。
父と会う時間は格段と減ったし、講義も楽しかった。ようやく目標のない勉学にたどり着き自分の好きなことを学べる喜びを知った。
そして何よりもうれしかったのは「ストーリーズ」の結成であった。高校の時は家に帰らない方便としての部活でもあったが南と明日香と一緒にバンド活動をするうちに私はみんなが第二の家族のようになっていた。出会ってから、たった2年ほどで私はそう思うようになっていた。本当にかけがえのない時間だった。ずっと一緒に居たかった。
でもそんな時間も長くは続かなかった。新型コロナウイルスの流行で私の生活は激変した。外出自粛が全国的に進められて大学の講義もオンラインになった。父の会社もテレワークが始まった。そうして、私は父と接する時間が再び増えてしまった。そこからは地獄であった。
多分、コロナ禍のストレスが父にもあったのだろう。何かあるたびに私に当たるようになっていた。父も年を取ったし私も大きくなったので暴力を振るわれることはなかった。それでもより陰湿になった嫌がらせが私を襲った。
私は耐えられなかった。
みんなに会いたかった。
色鮮やかだったあの生活に戻りたかった。
そんなときにすがるような思いで見つけたのが夢が叶うサイトだった。




