第64話 サン・デューベル
1861年、私は眼下に広がるエーゲ海から流れてくる風に身を任せながら私自身の将来について思い馳せていた。
そう、画家サン・デューベルとしての生き方についてである。私はフランスの中流階級に生まれた。絵はおじいさんの見よう見まねで描いていたのだから才能が認められてこれまで描いてきた。
といっても絵を描くだけの人生ではなかった。なぜなら私は女性であるから。社会的な立場なんてないし、絵だけで暮らしていけるほどの経済力なんて持つすべなどなかった。私の絵を良いとみてくれた人からの出資で何とか食いつなぎ、個展への出展をしているような形だった。
私は芸術大学にも行けず、画家カールス=フォン=ブランの画塾で絵を学んだ。ブラン先生は今でも私にとって一番のパトロンでもある。
しかし、こんな生活をこれからも続けていくというものは限界を感じていた。病1つにでもかかればもう先の無い暮らしである。あまりにも私にとって、いや、女性にとって絵という武器は弱すぎるものだった。私自身が、ローザ・ボヌールのように強くなかったのかもしれない。でも、私たちに自由な選択は確かになかった。
フランスのオルレアンから逃げるように、ここフィリアトラに来ているのも現実逃避のためと言えよう。
ブラン先生から結婚の打診をされたのだ。確かに私は先生にお世話になったし、先生自体の事は決して嫌いでは無かった。だからこれまでに何度か体を交えたこともあるが相性も悪くなかったと私は思う。
だが、結婚となると話が変わるのだ。私はこれまでのように絵を自由に描くことはできなくなるし、私の自由意志は限りなくなくなってしまう。籍を入れるとはそういうことなのだ。それが社会的な正しいあり方なのかもしれない。でも、これを受け入れると画家サン・デューベルは死ぬ。それが何よりもつらい事だった。私はすでに、私というよりも画家としている時間の方が長くなっていたし、それとの別れは筆舌に尽つくしがたい思いだった。
ある意味、ここに来たのは画家としての私の生前葬のようなものだったのかもしれない。事実、女である私が一人で生きていくのには限界を感じていた。
本当は絵だけを描いて暮らしていきたかった。
ここで数日の間、私は過ごしていくつもりだ。異国情緒あふれるここはとても良い。風もフランスと違い心地よく感じた。古い都市国家の遺構もまた創作意欲を湧き出させるものだった。もう絵を自由に描けなくなる私には勿体ない土地だった。
ある日、町をめぐっていると崩れた壁を見つけた。古い洞窟を何者かがふさいでいた。その入り口が崩れたような形だった。
私は中に足を踏み入れた。中には、光が差し込み十分な明るさがあった。そこまで奥深くはなく入り口から入ってすぐにある大きな空間で行き止まりであった。
ここは何の空間なのだろうか?なぜ封じられていたのか?
その答えはすぐに見つかった。壁一面に絵が描かれていた。
とても古いものであろうことが分かった。最先端の芸術をも超えた領域にある絵であった。ある意味での芸術の到達点であるようにも感じた。何を描いているのか分からない極彩色のモザイクのような絵。しかし、私の目に刻まれたそれは頭から離れなかった。
この絵をもとに私は最後の作品を描こう。私はそう決心した。それとともに、この絵を描くことでどこか絵を描き続けられるようになるそんな確信めいたものがあった。
それから、毎日のように洞窟に通い、私は絵を描き始めた。画材は、オルレアンに置いてきてしまっていたので一から買い集めることになった。
色褪せた壁画であったが、私は自然本来どんな色であったのか本能で理解できた。そして、私がどう絵を描けば良いのか考えるのではなく脳が理解していた。これまで16年以上絵に費やしてきたがこんな経験は初めてだった。
まさに天啓であった。
聖母マリアがガブリエルから預言を受けたというのはこういう感じであったのではないか。それが確信に変わるようなまさに奇跡としか言えない体験であった。
この絵を描き上げるのに4日しかかからなかった。だが、その完成度は確かなものであった。私は作り上げたという確信があった。作り上げた?何を?そんなことはどうでもよかった。
この絵を、もっとたくさんの人に見せなくてはいけない。
私の役目はこの絵を広げることだ。
それが確信に変わっていた。
モーセがユダヤの民を圧制者から解き放ったかのように私が人々を生という抑圧から解放するのだ!




