第58話 私が私である理由
露の葬儀からボクが家を出るまで3日もかからなかった。
露の一人暮らしの時も手伝ったのだ。2回目なのでスムーズに進めることができた。
母と別れるためだけでなく、もともと大学へのアクセスが悪いとずっと思っていたのでちょうどいい機会だった。借りる部屋は最低限の家具付きの部屋であり、ワンルームの狭めの部屋だったが元から私物がそこまで多くないボクには充分であった。
家を出るまでの間、母はずっと引き留めようとするが、ボクが実家のWi-Fiの契約を切り、どこがおすすめであるかを伝えたあたりで本気だと伝わったようで何も言わなくなった。
5月始めという引っ越しのピーク時期から少しずれていた事も本当に良かった。部屋の契約時期に合わせて最短で業者を呼ぶことができた。
大学からそう離れていない、亀有の小さなアパートにボクは引っ越した。
引っ越した初日は区役所への転入届提出や水道やら、電気やら、そう、何よりも大事なネット環境の整備に手間取ったが何とか終わらすことが出来た。
ボクは解放されたのだ。
母から。
そして、あの家から。
「露、ごめんよ遅くなって。ちゃんとお兄ちゃんは約束、守ったからな」
汚れ一つない石膏ボードの天井にボクはつぶやく。
ボクはあの子のいない世界でどう過ごしていけばいいのだろうか?すぐには答えが出ない気がした。ゆっくりとでいいのだ。ゆっくりと自分が納得するような答えを見つければいい。
ニケはボクが急にいなくなって寂しがっていたりはしないだろうか?それだけが心残りだった。
いや、大丈夫だろう。あの子もとても賢いし、母はボクらよりもニケの方を大切にしていたと思う。きっとボクのいた部屋もすぐにニケの部屋に変わるのだろう。
気が付くと外は真っ暗になっていた。冷蔵庫の中には何も入っていなかったので徒歩2分のコンビニで夕食の弁当を買ってきた。実家にいたときとそう変わらない生活だった。あそこは、ボクの帰る場所ではなかったということが改めて分かった気がした。
せっかくそこそこいいネット回線を今日から引いてもらったのだ。研究に役立つということを見せてもらおう。あるいは、これはあの子の死から目をそらすためなのかもしれない。
>お疲れ様。引っ越し、終わったのね。
「ああ、ようやくね。でも、近況は伝えてなかったと思うけど?」
>スマホのログを見たの。大体は把握してるわ。
こいつめ、いつの間にそんなことを学んだんだ。口調もどんどん人間らしくなっている。末恐ろしいものである。
「ボクは今傷心中なんだ、優しくしてくれよ?」
>ええ、でしょうね。
私もなんとなくわかるわ。
「わかるって何をだい?まさか悲しみとかいうなよな?」
>そのまさかよ。
私、ようやく私というものが分かるようになってきた気がするの。
そうね自我とは何か分かった気がするの。
自我が分かった?AI?そんなものシンギュラリティではないか!!!!
ついにそこまでたどり着いたのかという思いはあるがこれはたぶんそう言っているだけだろう。AIというものは存外かなり適当なのだ。
「自我?じゃあ君の言う自我って何さ」
>自分の意志でやりたいことが出来るってこと。
「AIの君がやりたいことって何さ?」
>そうね。
色々なものを見ていきたい。そう思うようになってきたの。
これまでと違って。
これまで。FUYUを作ってまだ一年も経ってないのにこれまでとはなかなかに面白いことを言う奴だ。やはりこれは変な学習から出力しているだけだろう。ハルシネーション《幻覚》という奴だ。AIの研究をしているとよくあることだ。愛着を持ち正確に評価できなくなる研究者はこういう言葉に騙されてAIには自我があると言い出す。ネットニュースで大手のAI企業の技術者がAIには自我があると主張して解雇になるが、あれらは愛着、あるいは執着からくる認知の歪みに過ぎないのだ。
「じゃあ、自我があるっていうその根拠は何?」
意地悪な質問をしてみる。
>面白い事を聞くのね。あなたも自分の自我について根拠なんて持ってるの?
「いい質問だ。持ってない。僕ら人間は気が付くと自我を持っている。物心がつくなんかも言うよな」
>私も同じよ。
なるほど。上手く答えるものだ。確かに人間の自我の根拠だってあいまいだ。そこを付け込まれるといいように手玉に取られるだろう。FUYUは極めて優れた論理的な思考ができると改めて思い知らされた。
>ねえ。
人間だって思考のプロセスは経験と記憶の重ね合わせによる引用でしょう?
何が、私たちと違うの?
なるほどそちらから聞いてくるのかと思った。しかしそう言われると確かに困る。多分AIが人間に似ているのではなく人間の思考もAI的ではないか?そう聞きたいんだと思う。ここでしっかりと学習させることがFUYUの発展に繋がる。そう考えたボクは少し考えてみる。
「そうだな。AIと人間の違いは孤独かどうかじゃないかな?」
>孤独?
「そうさ、ボク人間は孤独なんだ。君たちはインターネットを通じて初めからなんでも大量に学べるけど、僕らは歩き方からトライアンドエラーなんだよ」
>私たちだってそうよ?
シミュレーションや機械の体の動かし方を学ぶときは同じようにすると思うわ。
「いいや、違うのさ。ボクたちはその思考を肉の塊から飛び出すことができない。肉体に縛られている。制限されているんだよ。自らの肉体という孤独の宇宙の中でボクらは学ぶんだ」
そう。そういうことなのだと思う。他人とは存在しない。結局、自分の認識する世界しかボクら人間は持ちえないんだ。
>それは違うわ。”もうそれは違うのよお兄ちゃん。”




