後悔先に立たず
私の仕事は印刷会社の営業。基本外回り。基本はルートセールスなので、新規の顧客を開拓することは少ない。
既在の得意先からの紹介という形で新規顧客を獲得することが多々あるので、なんだかんだ言いながらも得意先は増えていく。売り上げも緩やかだけど右肩上がり。
毎日あくせくしながら飛び込み営業をしなくていいということは、かなり楽だと思う。
だからその分、社内の他の部署のお手伝いもしたりする。例えば製本作業の手伝いとか。
工場内で働いているおば様方とお喋りしながらの作業は、結構楽しかったりする。
男性の社員も半数以上はいるけど、残念なことにほとんどが既婚者。それも私より一回り以上年齢が上の人ばかり。入社するときは従業員の男女比を8対2だと聞いて、もしかした職場恋愛に発展しちゃうかも…なんてちょっとドキドキしたことは懐かしい思い出だ。
そんな男性社員の中で歳の近い独身同僚が6人いる。みんな私より後に入社した人達で、年上なのはその中で2人だけ。
私もそれなりにみんなと仲良くはしているけど、恋愛に発展することは無かった。だって、会社という小さな世界でそういう関係になるのはちょっと周りの目が気になる。結婚までいけばいいけど、別れたら最悪だろう。毎日顔を合わせるのだから、気まずさMAXである。
社内恋愛は絶対ないな…と考えていたところ、社長から、ある社会奉仕団体に法人会員として勧誘された。勧誘という名の強制入会だったけどね。その団体の活動を通じて今の彼と知り合いお付き合いすることになったので、文句なんて言えません。今考えると、私に彼氏ができたのは社長のおかげかもしれない。
仕事の予定ばかりでプライベートの記載が少ない自分のスケジュール帳を見ながら、私は大きな溜息を吐いた。
彼氏がいても、デートの予定が全く入っていない。なんて淋しい生活を送っているんだろう…。
私の真横では社内恋愛中のかわいい後輩立花さんが、内線で彼氏とお喋りしている。それ、仕事の話じゃないよね。このリア充め、マジ爆発しろ!
「真崎さん、ちょっといいかな?」
後方のデスクから佐々木課長がチョイチョイと手を動かしながら私を呼ぶ。
「はい、何でした?」
私は味気ないスケジュール帳をぱたりと閉じると、立ち上がって佐々木課長のデスクへと向かった。
「悪いけど、これトップスポーツクラブに持って行ってくれるかな。勿論、原田事務長に手渡しで。」
「げ!!」
差し出された封筒を、思わず押し返す。
「確か、チラシの納品に行けばいいだけでしたよね。まだ印刷は上がってないと思いましたけど。」
イケメン事務長のあのあざとい笑顔を思い出し、思わず顔を顰めてしまったのは仕方のないことだ思う。なるべく避けれるものは避けていきたい。来月からスポーツクラブに通えば、嫌でも会うことになるんだから。
「納品はまだだけど、インクの色見本が見たいって言ってるから。それも、真崎さんご指名で。」
「なんですかそれ! 担当は佐々木課長じゃないですか! 私が行く意味が分かりません!」
「そりゃぁ、原田に気に入られたからだろ。俺が行って他の注文貰えなくなったら、元も子もないからね。ほら、文句言わずに行って来て。」
拗ねた顔で佐々木課長を睨みつけながら、色見本が入っているらしい封筒を渋々受け取る。
「…最悪。」
ぼそりと零すようにそう言えば、佐々木課長がズボンのポケットから財布を取り出した。
「ほら、お小遣いあげるからなんか買っておいで。」
「私、子供じゃありません!」
千円を無理矢理押し付けられ、背中を押され営業課から通路へと追い出されてしまった。
ちょっと! 私、免許書とか車のキーとか他諸々自分のデスクに置きっぱなしなんですけど! 手ぶらで出かけられません!!
ガチャリと大きな音を立てて追い出されたドアを開け、自分のデスクまで戻り鞄を掴んだ。
「行ってきます!」
佐々木課長に向かって怒鳴るようにそう言い、にこやかに手を振る課長をひと睨みして私は出掛けた。
なんでこうなっちゃうのか…。
諦めが肝心だと思いながら、スポーツクラブへとやって来た。
さっさと渡してさっさと帰ろう!そう思って足早にカウンターへ向かえば、待ってましたとばかりに立ち上がるイケメンがいた。
…勿論、あの事務長だ。
「こんにちは、アサヒ企画です。色見本お持ちしました。」
封筒を差し出した私の腕が何故かガシッと掴まれた。おい、ちょっと待て!封筒受け取れよ!
文句を心の中で唱えながら、困惑気味に事務長を見上げる。
イケメンオーラを無駄に放って微笑んでるよ、この人。
「あの…、色見本を。」
「待ってたよ真崎ちゃん。納品日まで待てないから今から色々案内してあげるね。」
事務長はそう言うと私が持ってきた封筒をカウンターに置き、そのまま私を引っ張ってトレーニングフロアの方へと進んだ。
「じ、事務長!!」
「真崎ちゃんにはそんな肩っ苦しい肩書きなんかで呼ばれたくないな。春人さんって呼んでよ。あ、そう言えば自己紹介まだだったね。原田春人、独身で只今彼女募集中だよ。」
グッと引き寄せられて、耳元でそう言われた。
低音ボイス、これはいかん。腰くだけになりそうな声だ。
急いで離れようとしたものの、ガッチリと腕を掴まれたままだったのでビクともしない。
「真崎ちゃん? …加奈ちゃんって呼んだほうがいい?」
コテンと可愛らしく首を傾げるその仕草に、彼のあざとさをまざまざと見せつけられたような気がした。
「真崎でお願いします。原田事務長。」
「春人だよ、加奈ちゃん。」
ゾクゾクっと背中に冷たいものが走る。悪寒ですよ、これ!
「原田事務長、真崎です。」
「事務長はやめてほしいな。」
ちょっと困ったような表情を浮かべて私を見つめるイケメンに、鳥肌が立ちそうになる。
普通の人なら真っ赤になってしまう場面で、私はドン引きしている。
恋愛マンガなんかでよくありそうなシチュエーション。イケメンが蕩ける様な表情で、私を見つめる。
マンガやドラマならそこで恋に落ちちゃうところだけど、現実にはそれはどうかと思う。
私にしてみれば、ただ胡散臭いだけだ。美人でもなく、太ったなんの取り柄も無さそうな女にそんなことしてどうなる。何か裏がある…そうとしか考えられない。
佐々木課長の口ぶりから考えると、きっとこの人は私の事が気に入らないのだろう。ロックオンされたとか、気に入られたようなことを言っていたけど、実際には自分の魅力に落ちない私が珍しいだけだと思う。 いや、彼のプライドを傷付けた…? そんなナルシストの相手なんかしたくないんですけど。
それに、取引先の事務長さんに向かって名前呼びとかどう考えてもおかしいし、そこまで親密な訳でもない。
「原田さん。」
いつもの表情を心がけ、さらに名前呼びを絶対しないという意を込めて、少し強めの声で彼の名字を呼んだ。
「春人でいいのに。加奈ちゃんって強情だね。」
「真崎です、原田さん。」
取引相手に向かって失礼かとは思うが、どう頑張ってもこうしつこいと私の表情は硬くなってしまう。ピクピクと引き攣りそうなのを懸命に押さえることで精いっぱいだ。
佐々木課長が対処策として気のある素振りをすればいいって言ってたけど、私には無理だ。完全に拒否反応が出てしまいそうになっている。
「わかったよ。原田でいいよ、真崎ちゃん。今は俺が折れてあげる。もっと親密になったら名前で呼び合おうね。」
ニコリと微笑むその瞬間に、一瞬だけニヤリとした表情を私は見逃さなかった。
あー、これってやっぱり思った以上に厄介な人だわ。
これから先、嫌がらせのように絡んでくるのが目に見えるようだ。
絶対そうゆう関係にはなりません!…と声を大にして言いたいけど、そこまでハッキリ言い返せる間柄でもない。精神をガリガリと削られる相手だなと思いながら、私は使い慣れた愛想笑いを浮かべるのだった。
トレーニングマシーンのあるフロアでインストラクターの前田さんというポニーテールの女性を紹介してもらい、入会後は彼女が私の担当になることになった。
原田事務長が担当でなくてよかったと、本気で安堵したのは言うまでもない。
その後、更衣室や他のフロアも案内してもらい、最後にプールへとやってきた。
プールは7コースあり、そのうち3コースはスクールの様な形を取っていた。
原田事務長の説明によると、初級・中級・上級コースがあるらしく、それぞれにインストラクターが付いて教えてくれるらしい。
それ以外の4コースは自由に泳いで良いらしく、ひたすら歩いている人もいた。
「あ、原田事務長! 見学の人ですか?」
「来月から入会するんだよ。」
「へー、そうなんですか。 俺、ここのクラス担当の林原です。今は上級クラスを担当してるけど、ときどき臨時で他のクラスも教えてる。もし、俺が担当になったらその時はよろしくね。」
プールの中からインストラクターの男性が声をかけてきた。
水中メガネにキャップも被っているので、今度会ってもきっと気が付かないと思う。名前も聞いたけど右耳から左耳へと抜けていった。多分、関わり合いにならないと思います。
でも一応にこやかに挨拶はしておく。
「よろしくお願いします。」
ペコリと軽く会釈すると、原田事務長がちょっと困ったような表情を浮かべて私を見た。
「真崎ちゃん、初級コースからやってみる?」
「いえ、最初は自分のペースで始めてみようかなって思ってますので。教えて頂くコースは状況をみて考えます。」
私がそう答えると、原田事務長は安心したようにほっとした表情を浮かべていた。
「初級コース受ける時は、俺にまた言ってね。優しい女性のコーチ紹介するからね。」
「事務長、俺が担当してもいいですよ。」
「いいや、君は今のままの担当で頼むよ。さ、次を案内するから行くよ。」
強引にプールから離れるように誘導される。
原田事務長にぞんざいな扱いをされた男性インストラクターは、気にした風もなく笑顔を見せながらこちらに手を振っている。
もう一度軽くお辞儀をしようと思ったら、グッと背を押され阻止された。そして小声で話しかけられた。
「アイツには気を付けて。女好きで軽くて有名なヤツだから。」
前を向いているその表情は今までのように甘いものではなかった。感情の抜けた無に近い表情。
私の視線に気が付くと、すぐにまたあの甘ったるさが戻って来た。
「何でも俺に言ってくれたらいいからね。悪いようにはしないよ。」
嘘臭くて胡散臭くて、全く信じることもできない人だと思っていたけど、ちゃんと私に気をつかってくれていることは理解できた。まぁ、会員になるんだから当たり前かもしれないけど。
原田事務長を少しだけ頼ってみてもいいかも…なんてちょっと今までにはない考えが浮かんだが、すぐにそれを取り消すことになった。
「勿論プライベートなこともどんどん頼っていいからね。」
泥のように甘さを含んだ表情で私を見下ろし、肩を抱き寄せようとしたのだ。
寸前のところで私はその腕から逃れることができた。
振り返れば、ニヤリと笑みを浮かべる原田事務長と目があった。
「真崎ちゃんは手強いなぁ。ま、そんな所がいいんだけど。」
ドクリと心臓が大きな音を立てた。
決して恋をした時のような高揚感ではない。例えるなら、獰猛な野獣に狙われた小動物の気分だ。
優しく甘かった瞳が一変して、ギラギラとした光を放っている。少し歪に上がった唇の隙間から赤い舌がチロリと覗く。まるで蛇のようだ。
無意識に後退しようとすると、また腕を掴まれた。
「階段から落ちちゃうよ。気をつけて。」
そう言って私の腕を掴んだまま2階のフロアまで上りきった。
『原田事務長、原田事務長、社長よりお電話が入っています。外線1番をお取り下さい。』
タイミング良く事務長への電話を知らせる館内放送が流れた。
チッと小さな舌打ちが聞こえた後、事務長は私から手を離した。
「ごめんね、真崎ちゃん。今日はここまでだね。また近い内に顔を出してね。その時はゆっくりお茶でもしようね。」
そう言って軽く手を上げ私にウインクすると、原田事務長は事務所に向かって軽快に走って行った。
「…。」
早鐘のように鳴っている胸の音を落ち着かせるように私はその場で立ちつくしていた。
面倒臭いとかウザくてしつこいとか思っていた相手が、一瞬恐怖の対象に変わったのだ。
このスポーツクラブに入会申し込みをしたことに、激しく後悔したのは言うまでもない。