1-5. 門を開く者
「……おいおい、マジかよ」
レオンはベルガ城塞の城壁を仰ぐ。マノンの小柄な身体が、壁に吸いつくように昇っていた。
速い。しかしそれ以上に、迷いがない。足場を探る素振りすらなく、伸ばした手足が登り慣れた壁と言わんばかりに次々と足場を捉えていく。
そして、恐ろしく静かでもあった。靴底が岩を擦る音もなく、小石一つすらも落ちてこない。
「速さ、静音性ともに申し分なし。登攀、満点だな」
イレーネが手元の書類に筆を走らせる。
「何をどうやったらあんな速さになるんだよ。上から吊り上げられでもしてんのか、あいつ」
「いや。単純な速さだけなら、同じ壁で繰り返せばあの域に近づける者はいる。評価すべきはそこではないぞ、ヴァルカ」
言いながら親指で城壁を指す。
「フェルティスにとってこの壁は初見だ。しかし、一度も足場を探していない」
「……確かに。登りながら見つけてんのか?」
「逆だ。奴は登る前に最適なルートを見つけ出したのだ」
レオンが眉を寄せる。
「……下から見ただけで、この壁全部を把握したってのか?」
「その必要はない。自分が登るルートだけで十分だ。手を掛ける窪み、足を置く出っ張り、脆く崩れそうな岩。下から見た時点で、それらの選別を完璧に終えている」
会話のあいだにも、マノンの背はどんどん小さくなってゆく。
「それだけじゃない。腕力だけに頼らず、重心移動で身体を運んでいる。岩を掴む時も体重を預けず、確かめてから乗せている。だから速いし、音も出ん」
「…………」
「しかし驚いたな……登攀技術だけなら、私が今まで見た中でも群を抜いている」
レオンはしばらく城壁を見上げ、ぽつりと呟いた。
「本当に山羊じゃねぇか」
「山羊を追って育った娘だ。似るのもある意味、道理なのだろうな」
「そういうもんなのか?」
「いや? 知らん」
「……適当言いやがったな、兵長」
***
城塞地下にある倉庫。窓のない室内には大樽や木箱がまばらに並び、その隙間を縫うように縄が張り巡らされている。触れて縄を引けば、先端の鈴が鳴る仕掛けだ。
試験はごく単純だ。灯りがないこの状態で最奥の旗を取り、五分以内に戻る。ただし鈴を鳴らすごとに十秒が加算される。
普通に行き来するだけで三分半はかかる距離だ。暗所の中、正確性と速さの両方が求められる、難易度は極めて高い試験。
——その筈だった。
「はいっ! 取ってきました、兵長!」
戸口から勢いよく飛び出したマノンが、得意げに旗を掲げる。イレーネは砂時計へ目を落とした。
「三分四十四秒。鈴も一度も鳴らしていない。隠密行動能力、満点だ。大したものだな、フェルティス」
「ありがとうございます!」
レオンは地下室を覗き込む。奥は文字通りの暗闇だ。
「……本当に何も見えねぇや。お前、どうやって障害物避けてんだよ」
「え?」
マノンが不思議そうに首を傾げる。
「樽は匂いで分かりますし、近づけば空気の流れも変わります。縄は……」
マノンは脛を前へ出し、ゆっくり宙を撫でるように動かした。
「こうやって、足を置く前に探るんです!」
「いや、触ったら鈴が鳴るだろ」
「え? 鳴る前に止めるんですよ!」
「は?」
「縄は少したわんでました! 軽く触れたくらいじゃ鈴までは引きません! 張りが掛かる直前で止めて、あとは縄を避けて足を置けばいいんです!」
「…………」
「お父さんと山へ入る時は、夜でも獲物に近づく間は松明なんて使いませんでしたから! でも岩に躓いたら、それこそ命取りです。だから足を置く前に探る癖がついてるんです……かね?!」
「いや知らねぇよ……」
くすくすと笑うと、マノンは思い出したように目を輝かせた。
「あ、そういえば! 樽の中身、葡萄酒ですよね! すっごくいい香りでした、決起会で私も飲めますか!?」
レオンは無言でイレーネを見る。
「……なぁ兵長。こいつ、ちょっと怖ぇよ」
「ほう。それは貴様なりの最大級の賛辞か?」
「違ぇよ。純粋な恐怖だよ」
「ではそれも記録しておこうか」
「なんでだよ」
***
薄暗い部屋の一室。マノンの前に数名のプラエトルが並び立つ。
その背後には机や木箱、卓上には地図。出入口や窓も含め、その場そのものが試験材料だった。
「五秒だ。よく見ておけ」
イレーネの合図とともに、マノンが室内をきょろきょろと見渡す。一見すれば、目の前の状況に戸惑っているようにしか見えない。
きっかり五秒後。背後から目隠しが巻かれた。
「さて、フェルティス。兵は何人いた?」
「……五人です!」
「武器は?」
「剣と弓がふたりずつ。奥の人は丸腰でした! でもマントが膨らんでたので、腰に短剣を隠してそうです」
イレーネの筆がさらさらと走る。
「出入口は?」
「正面と左に一つずつです!」
「どちらから逃げる?」
「どちらも使いません!」
即答だった。
「……理由は?」
「左奥は一番近いですが、扉は閉まっててウォード錠でした! 解錠は出来ますがその前に捕まっちゃいます。正面は空いてますが、敵が多すぎました。私じゃとても突破は出来ません」
「では貴様はどうする? 大人しく死を待つのか?」
「いえ! 窓ですね!」
「窓?」
「はい!」
「……窓はいくつあった?」
「右に2つです! 奥のは外から板が打ち付けてあったので使えません。もう一個の方から脱出します。安全ですし」
「安全?」
「はい! 景色から見てここは二階なので、私なら飛び降りても怪我はしません。それに遠くの路地には木箱がたくさんありました。弓からも身を守れます!」
そこでイレーネの筆が、一瞬だけ止まる。
「……他には?」
「え? 他、ですか?」
マノンが目隠しの下で眉を寄せる。
「机の上に、どこかの街の地図がありました!」
「……」
「地図は上下が逆さに置かれてましたけど、方位記号を見る限り、東側に赤墨で印が三つありました。上から三角、丸、バツです! 丸の横には『爆破地点』。バツには『崩落につき行軍不可』と書いてありました!」
遂にイレーネが筆を置いた。
「五秒だぞ?」
「え?」
「部屋を見た時間だ。たった五秒だぞ?」
「……? はい、そうです! 五秒でした!」
マノンはさも当然かのように大きく頷く。イレーネはしばらくその顔を見つめていた。
「……貴様、本当にただの猟師の娘か?」
「はい! でも腕には自信があります! お父さんはベレスで一番の猟師でしたから!」
「…………」
イレーネは無言で兵籍書に何かを書き加えた。横から覗いたレオンには、その一文がはっきりと見えた。
『観察・記憶能力、満点——猟師の経験のみとは考え難し。身辺調査を要する』
***
査定は日が傾くまで続いた。結果だけを言えば、潜入役として及第点に達した者は三名のみ。
一人は元坑夫。狭所と暗所での行動に長け、爆薬の扱いにも心得がある。ただし登攀の経験はなく、遠方視に難があった。
もう一人は元猟兵。遠目も利き野外行動と弓の腕は申し分ないが、排水路を通るには身体が大きすぎる。そして同じく、登攀は出来ない。
そして最後の一人。群を抜いた成績を見せた、最良の候補者。
「マノン・フェルティス」
「はい!」
ベルガ城塞の一室。名を呼ばれ、マノンが勢いよく背筋を伸ばした。
長卓の上には今日一日の査定結果が並べられている。イレーネはその一番上に置かれた一枚へ目を落とす。
「登攀、暗所行動、観察及び記憶精度。いずれも文句なしの最高評価。加えて小柄な体格も、今回の任務には好都合だ」
「は、はい!」
「爆薬の経験だけは他の二名に劣るが、決行までに最低限の手順は叩き込める。火薬量と導火線はこちらで調整する。貴様は設置と点火だけ覚えろ」
イレーネは兵籍書を置いた。
「結論を言う。グリムヴァルトへの潜入役を命ずる。第一城門が開くか否か……ひいては白霜全員の命運を、貴様に託すぞ」
「…………」
マノンは緊張の表情で瞬きだけを返す。さすがに今度ばかりは、いつもの調子ですぐに返事は出てこない。
少し離れた壁際でレオンは腕を組んでいた。異論はない。マノンの実力は、既に嫌というほど見せつけられた。
——それでも。
「……兵長。他の二人も連れて行かせられねぇのか?」
「またかヴァルカ。いい加減しつこいぞ」
イレーネがレオンを見る。
「坑夫の奴は爆薬に詳しいし、猟兵の奴だって戦闘経験じゃマノンより上だろ。三人で行かせた方が、生存率は高まるんじゃねぇのか?」
「複数人で動けば痕跡も気配も増える。それだけ発見される危険性も増す。それ以前に、斥候に三人も割ける戦力事情ではないのは、貴様もよく分かっているだろう」
「…………」
「何より、排水路口は絶壁の遥か上だ。他の二名にあれは越えられん。同行させたところで、フェルティスが単独になる地点が少し先へ延びるだけ。はっきり言おう。無意味だ」
全て正論だった。
「その子だけを行かせるわ。他に選択肢が無いもの」
冷たい声が割って入る。それまでイレーネの隣で黙っていた、アルティシアだった。
「予定時刻から一刻以内に、城門楼の爆破と城門の開放までやり遂げて。もし捕らえられたら自決しなさい。その方が苦しまずに済むわ」
マノンの顔が恐怖で歪む。対する氷の表情は、一切変わらない。
「……おい、上官様」
「なに? これぐらい、この子も承知の上でプラエトルに志願した筈よ」
「そりゃそうだが……上官様、頼む。少しでも成功率を上げる策を考えられないか。初戦で単独行動は余りにも危険だ。コイツの成否が勝敗を分けるんだろ。せめて、潜入口まで警護を付けるべきだ」
「例えば、俺はどうだ? 俺がコイツを送り届けて、開戦までに戦線に戻ってくる。それなら——」
「なにそれ。駄目よ」
室温が、一段落ちた。空気そのものが凍りつくような錯覚を覚える。
紺碧の瞳がレオンを射抜く。いつもと変わらぬ無表情。しかしいまは、心なしか怒ってるようにも見えた。
「レオン。この子のこと、随分と気に掛けるのね」
「……は?」
予想外の一言に、レオンが眉を寄せた。
「盾の使い方まで教えていたじゃない」
「なんだよ、見てたのかよ……」
「さっき会ったばかりなのに。どうして?」
「別に……作戦の成功率を上げるためだ。当然だろ」
「イレーネの説明の通りよ。同行は無意味。それなのに、どうしてそこまでこの子に固執するの?」
「……」
「全くわからない。私情で作戦を曲げようとしているようにしか見えないわ。ちゃんと説明して」
譲らないアルティシアに、レオンは額に手を当てる。自分の感情に自らも困っているようだ。
「……思い出すんだよ」
「何を?」
「この前スカルヘイムで死んだ、新入りだ」
アルティシアの表情は変わらない。
「あいつも配属された翌日に死んだ。名前もろくに覚えてねぇ。マノンも同じだ。今日来たばっかで、五日後には敵の城ん中に一人で放り込まれる」
「…………」
「……自分でも青臭えと思うよ。何を今更、って。でも、もう嫌なんだよ。昨日まで戦場も知らなかった奴が、訳も分からねぇまま死んでくのを、ただ黙って見てるだけなのが」
「そう」
先ほどまで肌を刺していた冷気が、わずかに和らぐ。
「でも駄目よ」
「……そうかい」
「レオンは私と来て。私の道をこじ開けなさい」
アルティシアは当然のことのように言った。
「……姫様の仰る通りだ。貴様は白霜でも数少ない古参。姫様の直衛に欠かせない。潜入支援で開戦に間に合わなかったらどうする?」
「…………」
「それに、少々フェルティスを見くびりすぎだ。貴様も今日の査定を見ただろう」
「……レオン先輩」
マノンが一歩前へ出る。
「私、一人で行けます」
「…………」
「怖いですけど……でも、私が一番向いてるんですよね?」
「……そう、だな」
「なら、きっと大丈夫ですよ! 私はベレス一の猟師の娘ですから! でも……」
マノンは言葉を切ると、胸の前で指を組んだ。
「……レオン先輩。一つ、お願いしてもいいですか?」
「……なんだよ」
「『お前ならできる』って……言ってもらえませんか?」
「は?」
「猟に出る前、お父さんがいつも言ってくれたんです。そうすると、不思議と怖くなくなって」
マノンは少しだけ照れたように笑うと、俯いた。
「だから先輩にもそう言ってもらえたら……私、本当にできる気がして」
「…………」
レオンはそっぽを向きながら頭を掻く。
「……できるさ」
マノンが顔を上げる。
「お前ならできる。俺が保証してやるよ。だから、絶対帰ってこいよ……マノン」
「っ……はいっ! 必ずやり遂げて、帰ってきます!」
「……決まりだな」
イレーネが咳払いを一つ入れる。
「改めて。潜入役はフェルティスに任せる」
「はい!」
「レオン。貴様は私と正面突撃に参加だ。姫様のために命を捧げるぞ」
「はいはい」
「一回」
「……はい」
「よろしい」
イレーネが満足げに頷く。
隣のアルティシアはしばらくレオンとマノンを交互に見る。じっと、何も言わず、瞬きもせず、しかし目を逸らさない。
「……な、なんだよ」
「別に」
そう短く答えると、アルティシアは踵を返し部屋を後にした。
その後ろ姿を見送ったイレーネが小さくため息をつく。
「……姫様も、なかなかどうして分かりやすい」
「兵長?」
「いいや、何でもない。しかし貴様、その顔で存外、女心には疎いのだな」
「は? どういう意味だよ」
「そのままの意味だ。少しは自分で考えろ、馬鹿者」
そう言うと義足の鉄音を響かせ、イレーネも部屋を後にする。
取り残されたレオンは、しばらく閉じた扉を睨んでいた。
「……なんなんだよ、あいつら」
「さ、さあ……?」
隣でマノンまで首を傾げる。
結局、分かっていない者だけが部屋に残った。




