1-1. 英雄直属近衛兵
矢が、喉を突き破った。
「ぁ——」
妙に間の抜けた声だった。たしか昨夜に配属されたばかりの青年だ。南端にある辺境農村の三男坊。故郷の両親に仕送りしてやりたいと、そう言っていた。
何が起きたのか分からない——そんな顔で自分の喉元に触れている。指の隙間から溢れる鮮血を見て、ようやく理解したらしい。
二歩、三歩とよろめき、そのまま倒れた。
「くそッ! 盾上げろッ! 今度は矢が来るぞ!」
レオン・ヴァルカは怒鳴り、自らも身を屈めて盾を頭上へ傾けた。
直後、矢の雨が降ってくる。ガン、ガン、と鈍い衝撃が何度も腕を打つ。
悲鳴。怒号。馬の嘶き。
そして嫌になるほど鼻に残る、鉄と泥の臭い。
もう、何もかもに慣れてしまった。今は恐怖すらもろくに感じない。
レオンは、それが何より嫌だった。
「隙間を開けるな! 毒矢だ、掠っても死ぬぞ!」
「無茶言うなよレオン! こっちはもう半分も残ってねえんだぞ!」
「いいのか?! 開けたら死ぬんだぞ!」
「いいわけねぇだろうが!」
「だったら死んでも塞げ! 隣の仲間の為にもな!」
「……あぁ、クソクソクソッ! クソったれが!」
やがて矢雨が途切れた。盾の向こうから、死体を踏み越えてくる無数の足音が聞こえる。
——今度は白兵戦かよ。
レオンは舌打ちと共に剣を抜いた。
盾の隙間へ潜り込んできた敵兵の喉へ、刃を突き立てる。
引き抜くと同時に、横合いから槍が飛んできた。
「ッ……!」
身体を捻る。が、避けきれない。穂先が脇腹を裂く。
焼けるような熱に顔を顰めながら、レオンは槍の柄を左手で掴んだ。そのまま力任せに引き寄せる。
体勢を崩す敵兵。その顔面へ、盾を叩き込む。
「ぐぉっ」
よろめいた腹へ、剣を突き入れる。
生温かいものが手にかかった。鉄錆の臭いが鼻腔を焼く。
ぞわり、と背筋が粟立った。
——もう慣れたはずだ。
——何も感じないはずなんだ。
そう自分に言い聞かせ、呻く敵兵を蹴り飛ばす。
敵兵。敵兵。敵兵。
どこを見ても敵ばかり。あとは地に転がる、無数の死体だけ。
「……多すぎんだろが」
敵はまだ数百は残ってる。対してこちらは、四十にも満たない。多勢に無勢も甚だしい。まともに戦って勝てる数ではなかった。
「レオン!」
聞き慣れた声。振り向くより先に、その意味を悟った。
反射的に盾を上げる。甲高い金属音。飛来した矢が弾け飛んだ。
「バルド、助かった!」
「さんを付けろ、歳上だぞ! 貸し一つだな、クソ野郎!」
「それまで生きてたら考えてやるよ!」
「ハッ、ヴァルカの田舎モンが! 縁起でもねぇ事言うんじゃねぇ!」
二人は短く笑った。
その直後。バルドの胸から、槍の穂先が生えた。
「——ぁ?」
バルドの笑顔が消えた。ずるり、と槍が引き抜かれる。
ぽっかりと穿たれた血穴。その向こうで、敵兵が口端を歪めていた。
「レ、レグナリアの反神者めぇ! この俺が天罰を降してやったぞ! キ、キヒヒヒヒヒィイィイ!」
「——ッ!」
バルドの膝が折れる。地に伏すより早く、レオンは踏み込んでいた。
間合いを潰された敵兵の顔から笑みが消える。その首筋へ、渾身の一閃を叩き込んだ。
「……バルド……ッ」
振り返る暇もない。ただ一瞬だけ、足元へ視線を落とす。視界に見切れるバルドの足は、もう動かなかった。
気の合う男だった。気性は荒いが、仲間想いの熱血漢。何かとレオンに構っては、くだらない話で馬鹿みたいに笑う。そんな気安さが、レオンは嫌いではなかった。
酒場では何度も一緒に深酒をした。妻は王城の給仕係。先月、娘が生まれたばかりとも言っていた。
『家族に良い暮らしをさせてやりたい』。粗暴な顔に似合わない台詞を、酒で赤らめた顔で吐いていた。
「……クソ野郎が」
悪態は、自分に向けたものだった。
「クソッ……! この、クソがッ!」
昨日まで普通に話していた奴が死んだ。なのに、悲しむことさえ億劫になっている。
どうせまた、すぐに補充される。
どうせまた、すぐに死ぬ。
いつから、そういう風にしか考えられなくなったのだろう。
「お、押されてるぞ!」
「左だ! 左からくる! 盾を詰めろ!」
「無理だ、三人しかいねえんだぞ!」
「無理じゃねぇ! やるしかないんだよ!」
「ふざけ——」
左で、仲間の声が途切れた。横目を送ると、三つの黒焦げた骸が折り重なっていた。火炎魔術でも食らったのだろう。
「や、やめてくれぇ……!!」
今度は右で、悲鳴が上がった。
膝をついた仲間に敵兵が群がっている。剣が何度も振り下ろされ、やがて悲鳴すら聞こえなくなった。
一人、また一人。
盾列が、急速に薄くなってゆく。
気づけば、左右に仲間はいなかった。
「……ッ、はっ、は……」
息が上手く吸えない。血を流しすぎている。脇腹を裂かれたせいだろう。血を吸った腰布が、やけに重い。
腕にも力が入らない。もう盾を持ち上げることすら難しい。
何故だか、バルドの顔を思い出した。
喉がひくりと鳴る。忘れたはずの恐怖が、今さら腹の底から這い上がった。
——死ぬ。
「……まだなのかよ……!」
——今度は、俺の番だ。
「早くしろよ……ッ! 何のために俺たちがここまでやってると思ってんだッ!」
「死ねぇ、反神者のゴミが!!」
周囲の敵兵が一斉に飛び込んでくる。
もう受けきれない。それでもレオンは残った力を振り絞り、盾を抱え上げる。
「……あ?」
だが、刃は振り下ろされなかった。
敵兵達は、剣を振り上げた姿勢のまま止まっている。
——いや、止まってるのではない。動けないのだ。
その証拠に、誰もが目だけを忙しなく動かしている。「何が起きている」。そう訴える困惑が、顔にありありと浮かんでいた。
異変は、すぐに始まった。
まず、吐く息が白く濁った。
剣を握る手が震え、歯は勝手にかちかちと鳴る。
「あ、え……? さ、寒……っ?」
全身を走る悪寒に、誰かが苦しげに呟いた。晩夏の戦場では、あり得ない言葉だった。
次に、色が失われた。
頬が、耳が、指が。一気に死人のように白んでいく。
ただ唇だけが——悍ましいほどの青紫色に染まっていた。
「お、おい……これ、氷狼神の心臓の神威じゃあ……?!」
「な、何だと……?! 神憑者がいるのかっ、この戦場に?!」
気づいたところでもう遅い。
最後に、全身の震えが止まった。熱を奪われた身体は、震えることすらできなくなったのだ。
そして——ついに、足元から急速な"凍結"が始まった。
「う、うおおぁ?! 足が、う、動けないぃいい!」
白霜が軍靴を覆う。脛を這い、膝を呑み込み、そのまま凄まじい勢いで全身を駆け上がる。
「ひ、ひぃぃぃ! た、助けてくれぇぇ——」
叫びは、途中で途切れた。
一人。また一人。悲鳴と怒号が次々と白霜へ閉ざされ、物言わぬ氷像と化してゆく。
「……やっとかよ」
レオンは舌打ちし、後ろを振り返った。
一人の少女が、歩いてくる。
白銀の髪には、返り血の一つもない。まるでここが戦場ではないとでも言わんばかりに涼しい顔をしている。
血の臭いも、死体の山も、彼女には関係ないものらしかった。
アルティシア・フォン・エルセリオン。十六歳。
レグナリア王国が誇る最高戦力たる七英雄の第四席。
通称——氷姫のアルティシア。
「……来るのがおせえんだよ」
聞こえない程度に吐き捨ててやる。
——早く来いよクソ女。
——こっちはテメェが来るまで、何人見殺しにすりゃいいんだよ。
本当はその胸倉を掴んで、思いつく限りの罵声を浴びせてやりたかった。一瞬でも気を抜けば、そのまま口から溢れ出してしまいそうだ。
アルティシアは答えない。聞こえていないのだから当然だ。ただ興味無さげに、ともすれば気怠そうに右手を上げた。
「——退避ッ!」
誰かが叫んだ。生き残った者が一斉に塹壕に身を伏せる。レオンも同様に飛び込んだ。
瞬間、世界が白に染まった。
大地を駆け抜ける霜。敵兵の足元を呑み込み、這い上がり、甲冑を包み、その内側の肉、骨まで一瞬で凍てつかせる。
一人。十人。百人。
それでも凍結は止まらない。敵兵は悲鳴すら上げれなかった。
やがて、数秒前まで怒号で満ちていた戦場から、音が消える。
「…………」
レオンはゆっくりと塹壕から這い出した。
眼前に広がるのは、氷像の森。
ある者は剣を構えたまま。
ある者は逃げ出そうとしたまま。
いくつかは既に砕け、白い破片となって地面に散らばっている。確認するまでもない。あれだけいた敵兵が、一瞬で全滅していた。
その手前に、アルティシアが立っている。
白銀の髪が、事も投げにふわりと揺れた。顔色一つ変わっていない。ただ、ぼんやりと遠くを眺めているだけのようにも見える。ここで何人が死んだのか。そんなことには、ほんの少しの興味もないようだった。
「……レオン。そこにいるのよね」
冷たい声が、沈黙を破る。
「自軍の損耗を確認して。今すぐに」
「…………」
「それと、部隊への指示もお願い。動ける者は負傷者を後送。軽傷者は念のため盾列の組み直し。急いで」
死者への労いも、哀悼も無かった。
「……へいへい。畏まりましたよ、氷姫様」
——軽傷者なんているわけないだろ。
そんな悪態を胸中で吐きながら、レオンは剣を杖代わりにどうにか立ち上がる。
また、生き残ってしまった。それを喜ぶ気には、どうしてもなれなかった。
***
レグナリア王国には、七人の英雄がいる。
一騎当千。そんな言葉すら生温い。
たった一人で軍勢を轢き潰し、堅牢な城塞を陥落させ、戦争の趨勢すらも容易く覆す。
人の形をした、王国最強の「戦術兵器」。それが七英雄である。
だが、どれほど強大な英雄であろうと、一人で戦場には立せられない。
千の兵に、万の矢。
四方八方から絶え間なく襲い来る殺意。
そのすべてをたった一人で警戒することはできない。そして万が一にも英雄を失えば、それは一個人の死では済まない。レグナリアにとって、国家規模の戦力喪失となる。
だから、必要だった。
英雄を敵本陣の喉元まで、送り届ける者たちが。
敵の槍を受け、矢を受け、剣を受け。英雄がその力を存分に振るうべき瞬間まで、己の命を盾にしてでも護る者たちが。
英雄と共に行軍し。
英雄のために血を流し。
英雄のために道を拓き。
英雄のために死ぬ兵士たち。
正式名称、英雄直属近衛兵。
王国軍の中から募られた、"誉れ高き精鋭たち"。だが他の兵士たちは彼らを別の名で呼ぶ。
畏敬と。憐憫と。
ほんの少しの侮蔑を込めて。
——英雄の血盾、と。




