「日常に戻れない朝」
「日常に戻れない朝」
朝は来ていた。
けれど、昨日までの朝とは少し違って見えた。
光は同じなのに、
部屋の中の空気だけがまだ夜を引きずっている。
灯はソファで目を覚ました。
眠りは浅かった。
何度か目が覚めて、そのたびに現実を思い出した。
「戻りません」
自分の声。
あの瞬間が、まだ体の奥に残っている。
ゆっくり起き上がると、
湊はすでにキッチンに立っていた。
いつも通りのようで、
少しだけ違う動き。
コーヒーの音が静かに落ちる。
「おはようございます」
湊が言う。
灯は少し遅れて返す。
「……おはようございます」
声がまだ少し掠れている。
湊はコップを二つ置く。
何も聞かない。
昨日の続きも、未来の話も。
ただ“今の朝”だけを置いていく。
その距離が、
灯にはありがたかった。
しばらく沈黙。
灯がぽつりと聞く。
「……昨日のことって」
「夢じゃないですよね」
湊は少しだけ笑う。
「残念ながら、現実ですね」
灯は小さく息を吐く。
「ですよね……」
そのあと、
少し間が空く。
湊が静かに言う。
「今日、どうしますか」
その問いは軽いようで、
重い。
“戻るかどうか”ではない。
“今日をどう生きるか”の問い。
灯はしばらく考える。
そして言う。
「普通に……してみたいです」
湊は頷く。
「いいと思います」
その“普通”が、
今の二人には少しだけ難しい。
それでも、
そう言えること自体が変化だった。
その時。
ピンポン。
インターホン。
二人の動きが止まる。
灯の顔が一瞬で固まる。
湊はすぐに玄関を見る。
昨日の記憶が一瞬よみがえる。
でも――
画面を確認すると、
違った。
宅配。
湊は少しだけ息を吐く。
「大丈夫です」
その一言で、
灯の肩がわずかに下がる。
「……びっくりしました」
湊は軽く笑う。
「これからしばらく、そういうの増えるかもしれませんね」
灯は小さくうなずく。
「ですよね」
少し沈黙。
そして灯が言う。
「でも……昨日よりは、ちょっとだけ大丈夫かもしれません」
その言葉に、
湊は一瞬だけ目を細める。
「それ、かなり大きいです」
灯は少しだけ笑う。
まだ不安はある。
でも“昨日とは違う自分”が確かに残っていた。
湊はコーヒーを飲みながら思う。
(ここはもう、戻る場所じゃない)
(進む場所になりかけている)
窓の外では、
普通の朝が流れている。
その中でこの部屋だけが、
少しだけ別の時間を生きていた。




