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「ただいまのない部屋」

「帰ってきたくなる場所」


夜11時。


アパートの外階段を、

湊はゆっくり上っていた。


コンビニ袋の中で、

缶コーヒーが小さく鳴る。


五月の夜風は少し冷たい。


でも、

火照った頭には心地よかった。


「……疲れたな」


小さく呟いて、

湊は苦笑する。


今日も残業だった。


後輩のミスを一緒に片付けていたら、

気づけば終電ぎりぎり。


同僚には、

「お人好しすぎる」と言われる。


でも。


困っている人を見ると、

放っておけない。


それが昔からの性格だった。


アパート二〇三号室。


古い扉の鍵を開ける。


ガチャ。


暗い部屋。


静かな空気。


「……ただいま」


誰もいないのに、

つい口に出る。


返事がなくても、

そう言った方が落ち着くから。


湊は電気をつけ、

ネクタイを緩めた。


その時だった。


コンコン。


遠慮がちなノック音。


「……?」


こんな時間に珍しい。


湊は扉を開ける。


そこにいたのは、

小柄な女性だった。


白いパーカー。


少し眠たそうな目。


ふわっと揺れる黒髪。


両手には、

小さな鍋。


「あの……」


彼女は少し緊張したように笑った。


「肉じゃが、作りすぎちゃって」


湊は一瞬きょとんとして、

それから優しく笑った。


「あぁ、そういうの嬉しいです」


その言葉に、

彼女は少し安心した顔になる。


「隣に引っ越してきました。朝倉灯です」


ぺこり、と頭を下げる。


「夜遅くにすみません」


「全然。むしろ助かります」


湊は鍋を受け取りながら言った。


「今日、ちゃんとしたご飯じゃなかったので」


灯は小さく目を丸くした。


「……コンビニですか?」


「あ、バレました?」


「なんとなくです」


ふふ、と灯が笑う。


柔らかい笑顔だった。


それだけで、

冷たかった部屋の空気が、

少しだけ変わった気がした。


すると。


ぐぅぅ……


小さな音。


灯のお腹だった。


「あっ……」


灯の顔が一気に赤くなる。


「ち、違うんです今のは……!」


「ふふっ」


湊は思わず笑った。


優しい笑いだった。


からかうんじゃなくて、

安心するような笑い。


「よかったら、一緒に食べます?」


その言葉に。


灯は少し驚いたあと、

困ったように笑った。


「……知らない人について行っちゃダメって、小さい頃教わりました」


「あ、それは本当にそうですね」


真面目に頷く湊。


その反応がおかしくて、

灯は吹き出した。


「……じゃあ」


少しだけ。


本当に少しだけ、

灯は嬉しそうに笑う。


「今日だけ、特別で」


その夜。


静かだった二〇三号室に、

久しぶりに誰かの笑い声が響いた。


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