第69話 もう一度
僕の部屋――美岬のところへ戻ると、実に憂鬱な顔をして、涙ぐんでいる。
彼女も那戯の影響で、世界がどのように書き換わったか、おおよそ認識できたということだ。だいぶ気が立っているようだった。
「狡い女だよね、私」
「と言いますと?」
「枸櫞くん、……時々無神経って言われない?」
「茶化しているつもりはないんだがな、いまは話が進まないんで。
那戯の記憶に、触れたのか」
彼女は頷く。
「というか、向こうの記憶に引き戻された、って感じ。
シトラちゃんたちがいた、あの時間に」
「――」
「私はいつも、きみの些細な平穏を、踏み躙ってしまうんだね。詫びて取り返しがつくことじゃない、共鳴者に犠牲は出させないって、約束してたのに……」
共鳴者に死人を出さないという約束、あれをしたのは、元の世界で魔海狼とやりあう前あたりだったか。ちょうどあの辺りを境に、護斗や珊瑚くんのややこしい課題は持ち上がったし、なるほどあれらの状況は、一歩間違えばこうなり得ていたことだったと。こんな形で、学習したくはなかったが。
「この時間軸では、きっと僕らはそんな約束さえしていないだろうな。
シトラもいなかったし」
この身体に残っている記憶からも、できるだけ遡ってはみたものの、そういう約束を取り交わしたという記憶が重複していない。
あれがあるのとないのとで、環境に大きな違いが出てしまうものなのだろうか?
そも、神社姫およびシトラの力がないことこそが、最大の要因であることには違いないはずだったが、『そうならなかったこと』の多くが後から後から、執拗なまでに僕らを不毛な答え合わせへと誘ってしまう。
「結果、琉稀さんやシトラを取り戻して、すべてが元通りになるにしても――いまの僕はできる限り、最後まできみの傍にいる、約束するよ」
「馬鹿言わないでよ。
だったら、《《また私のこと抱けるの》》?」
「それはしない」
置いていた目覚まし時計が投げつけられた。
僕の私物なんだが、普通に額にあたって表面が割れてしまう。
「でしょうね。だからさ……私が自分で惨めになるようなこと、もうやめてくれないかな?
きみのせいじゃないって、わかってるけど――……誰かの特別じゃないって思い知らされるのが、こんなにも心細くて怖くて、苦しいだなんて、わかってなかった。琉稀さんやあなたを道具にしてきた、私への罰だっていうの?」
「……罰なんてない。
きみを苦しめるものにまで、理由なんて見出さなくていい。
ひとの弱みに付け込む輩の、言いなりになんてなるな。
きみの気が進まないなら、それでも構わない。
ただ――那戯のやつは、僕が代わりにぶん殴っておく。
その怒りを、預からせてくれないか」
しばらく俯いていたが、やがて美岬は顔をあげた。
僕の額から流血したことに、そのときようやく気付いて、あたふたハンカチなんて探し始める。なんだよこの女?
「貫先輩たちとは、どんな話になったの?
私に聞かせられる範囲で、教えてくれる?」
枸櫞は不貞腐れるも、静かに頷いた。
*
ぼろぼろの枸櫞を視てから、浅葱は翼を見咎める。
「どういうこと?」
「そいつが盛大にすっ転んだだけだ」
「は、ご冗談を――」
「……たく、威勢のいいよな、揃ってきみらは」
貫たちは、ふたりに呆れていた。
しかしいま、そんなことは些末だ。
「那戯がネーレイスに転生していたとはな」
「死に際して本格的に、ヤヲ因子へ自分の意識を書き込んだんでしょう。
もはやあいつの本体はヤヲ因子に刻まれたそれだ、自身に生前から縁があったものを通じて、現世とテルクに干渉する。
それをやめさせるには、貫先輩の力が必要でしたけど」
「だからあいつは真っ先に、俺とテルクで戦ったわけか。
六号機ごと、俺の力は奪われ、テルクから叩きだされてしまったよ……」
「共鳴者殺しの力は、ヤヲ因子を操作する技術ですよね。
あなたたちの血統に刻まれた」
もはや隠すことでもないということか、貫は頷いた。
「浅葱さんには発現しないんですか、巫女パワー?」
「巫女だからってなんでもできると思わないでね?
そのオカルト次言ったらぶっ飛ばすよ」
「さーせん、浅葱先輩があんまりに魅力的なものだからつい」
「なら仕方ないかぁ」
僕なりに浅葱さんの美貌への敬意を表したつもりなんだけどなぁ。
「ノリでうちの妹まで口説きはじめるの、普通にしんどいからやめてくれない?
それに浅葱に力が発現するかというのなら、まず不可能だ。あの力は常に一子相伝だった、今思えばそのように調整がかかっていたかもしれないが――共鳴者殺しとは言っているが、継承する段階でそれそのものが共鳴者への優越権として働いてしまう。
まぁ言うほど大したものじゃないんだけどね、だから今時のバランス調整に落ち着いてしまったというか。
遺跡のオーパーツに眠る力と共鳴者の先人を、我々なりに解析し、その力の一部を模倣した。
ゆえに、共鳴者個人を相手にすれば、『本人からヤヲ因子を回収する』一点において、僕と交叉の先人は、他の共鳴者より長じていた。
だが那戯は、ネーレイスの唄を使い、人形を器とすることでこっちの干渉を防げてしまう。完全にしてやられたよ、対鮫人戦という概念が、過去になかったわけじゃないよ。
だが、あいつは僕を嵌めるために、最初から周到に用意していた節がある」
一堂は、そこで沈黙する。
「ヤヲ因子を通じてやつに情報が伝わるなら、あまり細かい作戦を詰めても、漏洩するのが面倒だな。
お嬢をこの場から外さざるをえなかったのは、そういうことだろう、枸櫞くん?」
「ええ」
彼は頷いて、続ける。
「というか、もう誰からも疑いを外せないんですよね。
僕自身でさえ、生前の那戯に関わっていないというだけで、彼のヤヲ因子がどのように干渉するか、原理をわかっているわけじゃない」
「その条件で行くと、必然きみと闢くんしかいないわけか。
こうして僕らと語らっている時点から、わりと詰んでいる?」
「それでも、先輩たちのお力をお借りしたいんです。
濱田先輩は、どうです。
ここからは普段のネーレイスとの戦いとは、話が違ってきます。
僕は那戯のやつを、ぶっ殺しにいくと言ってるんです」
「そりゃあ……そも俺だって、きみらが別のネーレイスがいた時間から来ただなんだ聞かされただけで、正直理解が追いついてないんだが?」
「すいません、ややこしくて」
枸櫞は腰が低いようにみせているが、そのくせ厄介ごとばっかり持ち込んでいる。濱田からの心象も、いいものではないのだろう。
「那戯を止める、そうしなければ、人類が危ないと。
なんだか、理事長の常々言っているとおりになってるよな。
テルクに由来するものは、私企業が手にしてなんとかなる力でもない。……もっとも政府はおろか、たぶん人の世にはそも余りある力なんだけど。
枸櫞くん――いまは闢くんを助けた、きみを信じようとおもう」
結局、翼と闢、美岬はまえの世界の記憶を憶えているけれど、その他の共鳴者はそうでもないらしかった。
こっちでは護斗や珊瑚くんは、僕らが手にかけてしまっている。
そのことを今更、枸櫞は暗澹たる思いで受け止めるしかなかった。
「僕は、もう一度シトラと会いたい。
僕をいまの僕にしてくれたあの子を、こんなかたちで喪うわけには、いかないから」




