第109話 新しい家族の時間
「琉稀さん」
彼は歩み寄って、膝を崩した。
こちらを向いた彼女へ、穏やかに微笑む。
「どうしてこんなに、可愛くなっちゃったんですか」
「枸櫞くん……」
彼女の声はいつもよりややトーンの高い。
「翼くんは、水子を倒せた?」
「えぇ、今度こそ」
「そっか……良かった」
枸櫞は神妙な面持ちになる。自分をアーウィズォウトの肉の盾にされたのに、まだそんな相手を心配してる。
「悪い人じゃないの、本当だよ?
手段を選ばなくなっているだけで、それでも」
「――」
「信じて、くれないの?」
「信じてますよ、先輩の言葉です。だけど僕も、いきなりほかの男のことなんて話されたら、妬いちゃいますよ」
「え……あぁ……ごめん」
天然で言っていたらしい。美岬に対して、八つ当たりじみた批難を浴びせたそうだが、野郎からの嫉妬にはとんと疎い。
「その伏馬のやつから、伝言です。
すまなかった、と。
改めて自分の口から伝えるべきだとは、言っていました。
だから、一緒に帰りましょう」
「それは、本当に嬉しいな。……アーウィズォウトの話はしたでしょ。私は人としては、どのみち死んでいるようなものだよ」
「それが、なんです。
躊躇うことなんて」
「私だって、戻りたいよ。
でも無理なの――アーウィズォウトと那戯のせいで、この身体になってから、自分が自分でなくなって感じるの。枸櫞くんだって、本当はわかっていたでしょう?」
枸櫞は押し黙る。
「翼くんが私をそれまで避けていた理由、いまになってわかるの。
自分にはもう家族なんていないから、私みたいな半端ものとは、訣別したかったんでしょう――ひとりになることで、ネーレイスへの憎しみの化身へと、転じられたから。
その営みすべて、枸櫞くんがひっくり返してしまったけれど」
「水子を倒したのも、そこから先を選んだのも、あの人自身だ。
僕はなにもしていないですよ。
僕だけの女王様になってくれるんじゃ、なかったんです?」
「枸櫞くん。あの人を救ってくれて、ありがとう」
「……わざと僕を、哀しませようとしているんですか」
「違うの。
伝えたいことは沢山あって、真っ先に、ありがとうが、いっぱいで」
それで真っ先に、伏馬のことか。
ほんとうに、妬けるんだが。
「言わなきゃならなかったこと、それなんです?」
「――、過去を見たの」
夕暮れのなか、見覚えのある桜並木がいつの間にか、周りを囲っている。
ここは琉稀の世界なのだと、改めて枸櫞はそれを思い知らされた。
「先輩にとって、人形は苦痛でしたか」
「かもしれない。
それを通してきみと繋がったりもしたし、後悔はしてないの。
私なんかでも、誰かに必要とされることがあったんだって、そのことを誇ったまま、《《逝ける》》」
「……なんだよ、それ」
納得できるはずがなかった。ようやく那戯を排して、ほかの全てが丸く収まろうとしているのに、琉稀だけがこんな風に消え入ろうだなんて、そんなことを許せるわけがない。
「わたし、気づいちゃったんだ。
那戯やきみ、そしてきみのお姉さんがそうであったようには、人魚へとこの身が置き換わっていくことに、耐えられないって」
「?」
「枸櫞くんと同じように、そつなくできていたら良かったんだけど。
私が魔性になると、人を呪うことしか、知らなくなる」
「――、なにを」
「きみと一緒に生きられないなら、せめて綺麗に終わりたい。
それが人として、弱くてどうしようもない、私の望み。
……ここは魔性の海原だから」
夕陽を背に、四号機が現れ、足元の枸櫞を見下ろしている。
「ここは先輩の思考する、幻でしかない」
「いいえ、もう違うの。
私がアーウィズォウトに奪われたことで、私の血は、テルクのものへと変質した。
これは私の血が侵蝕する領域、テルクとあなたにとっての“癌”」
「!?」
枸櫞は反射的にその場へ八号機を呼び出した。
実際、それは直後に現れ、枸櫞はコクピットへ飛ばされる。
「シトラ、知っていたのか、こうなるって――僕は、どうしたらいい?」
「るきと、よんごーき、こわす」
「殺せと?」
シトラはばつの悪そうに俯いている。
「ごめん、くえん。くえんがいちばんまもりたかったひとなのに……しとらなにもしてあげられないの」
「くっ――」
枸櫞は嘆息した。
「やるしか、ないんだな。だけど、まだ諦めたくない。
ヤヲ因子で、先輩にまつわる事象をもう一度だけ書き換える!」
シトラは彼の袖を引いた。彼は彼女の顔を見下ろす。
「るきをこーじんからおろしてあげるの。
そーしないと、るきがこわれちゃう」
「アーウィズォウトにやられる前へ、先輩の因果を巻き戻す」
シトラは首を横に振る。
「それだと、たらない。
あれ、るきのゆめにからんでる、よんごーきのかこからみらい、ぜんぶに」
「先輩が四号機に乗るより前に、戻せって?」
「でもそれをやると、くえんとのおもいで、ぜんぶなくなっちゃうから――……そんなの、かなしいのに!」
シトラは枸櫞と琉稀とで培っていた時間の価値を、彼女なりに重んじていてくれたのだ。
『枸櫞くん、わたしを早く殺して、でないと』
四号機は琉稀を乗せて、すでに琉稀自身の意志とは関係なく、朱桃へ攻撃を始める。
枸櫞は――、
「先輩、愛しています。愛して、ました……」
その言葉とともに、もう一度、因果を書き換える。
*
……因果を書き換え、事象が変わるというのにも、様々な程度がある。
ある意味で、枸櫞は琉稀を殺す――解釈するほかなかった。
「すべて、俺の責任だ」
珍しく翼から、枸櫞へと直接詫びに来た。こんなことでもなければ、生涯聴けたものでもなかったかもしれない。
「白錫は、戦うべき人間じゃなかった。
それでもきっと、お前のためなら鮫人に乗り続けられたんだろう」
「あなたから僕への詫びなんて、明日は槍でも降るんでしょうか?」
「案の定、お前のことを覚えていない。だが、四号機との事象をなかったことにしたのに――自分が鮫人を使っていたことは、知っているそうじゃないか」
「なにが言いたいんです?」
「なぜ、彼女の記憶だけを細工した」
「……琉稀さん、自分に自信がないひとでしたでしょう。
鮫人に乗ることは、僕が泉客へ来る前から、なによりあなたと肩を並べて、恥ずかしくない戦いができるように願っていたから」
枸櫞は彼を見据えて、最後に言った。
「先輩、生涯かけて、償ってみせてください。一度は手放そうとした仲間ってやつを……もう貴方が狂うようなもの、なにもないでしょう?」
琉稀が人として弱いなんてのは、嘘だ。あの人はただ、魔性と相容れない、そういう体質だっただけ。
これは僕に遺された、ある種の罰かもしれない。
そんなナイーヴなことを、ふと枸櫞は考えていた。
「……ほかのことは、好き放題できたんだけどな」
翼が立ち去って、緑すら散った桜並木をぼんやりと見上げる。
シトラが、やってきた。
「くえん!」
「おぅ」
全部を失ったわけではない。
僕はシトラとともに、新しい家族の時間を培っていく。




